Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

ありがとうございました☆☆☆

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さて!当初からひとつの目標としていました108投稿。

本日、この記事で108つ目の煩悩数となりました。これまで記事を読んで下さった方には、あつく、あつく御礼申し上げます!どうもありがとうございました!

ブログを始めた時に心の中にあったのはふたつの思いです。

ひとつは、自分はいったいこの世界に向かって何を言いたいんだろう、そして伝えたいんだろう、という自問自答。

そしてもうひとつは、さて私は何を求めて生きていこうか、というこれも、自分への問いでした。

この歳になると、日々はあっという間に過ぎ去ります。可能性をトランプのカードのように並べ、自分が何を捨て、何を選ぼう、というような若い頃のスタンスは、いつの間にか鳴りを潜めてきたように感じます。

仕事も、環境も、人間関係も、食べるものも。全てもちろん自分が選択をしてきた結果が累々と積みあがっている。けれど、それは本当に「自分が」選んできたものなのだろうかと、ちょっとよくわからなくなっているのかも。

自分が選んでいるようで、自分の中にインプットされた「何か」が、私にそれを選ばせているだけなんじゃないだろうか。そんな風に思うことも。

それは自分のことがますますわからないから途方に暮れる、という感じではない。インプットされた自分は本当の自分じゃない、ということではない。むしろ自分、自分、と自分を突き詰めなくても良いのかもしれない、という自分というものの新たな定義、そして向き合いかたを会得しつつあるのかもしれません。

しかしそんな自分含め「自分」というものは一体何なのか。その「自分」とこの世界はどうつながっているのか。どこから来たのか、どこへ行こうとしているのか。

依然この疑問は抱えたままでいます。

人生とは選択の連続だとよく言われます。振り返れば自分も膨大な数の「選択」を通じて、「自分」と「世界」のこと、そしてそのつながり、来し方、行く末についてずっと考え続けていたのかもしれません。図らずも選択を通じて、この疑問への自分なりの答えを深堀りしていたのかもしれない。

だからこそ、最初からそこまでクリアだったわけではありませんが、このブログにはそういった自分と世界をつなげてくれたものを書こうと思うことが多くなりました。

私の興味の中心である、こころのこと、旅/異国のこと、本/アートの世界、ユニークで型破りな人たち、そして日々起こる様々なことに思うこと。それは自分が選択してきたものの塊です。

そういったものを書き続けながら実感したこと。それは逆説的ですが「自分」というものは、自分が選んで来た興味について語らずに自分を伝えることは難しいのだな、とうことでした。選んだ、というとちょっと言葉が違うかもしれない。むしろ選ばされたものにこそ、自分が映ると言った方が自分の理解にしっくりきます。

考えてみればもともと「自分」などというものに実態はないわけですから、そうやって合わせ鏡のように映るものを通じて、ひとはひとと、そして世界とつながっているのかもしれない。そんな風に、より強く思うようになりました。

昨日偶然に頂いたメッセージにも「具体的なエピソードを伝えることの大切さ」というフレーズがあって、本当にその通りだな、と深く感じ入りました。

このブログを通じて、何か役に立つことをお伝えしたい、という思いもなくはなかったわけではありません。しかし、役に立つ情報よりは、私という人間のことを伝えたかったのかもしれない。だから合わせ鏡のような自分のスキなこと、興味が大ありのことを語らずにはいられない。だってそうじゃなかったら、自分が伝わらないじゃないかってだんだん思って来たんですよね。

それにしては?それにしても!伝えたい、という思いが形にならないブログでした。書きながらも、これは本当に私は伝えたいと思っているのか、どうなのか!?と、自分で自分に不甲斐なく思うことも多々ありました。文章というものはちょっと恐ろしい。自分のあやふやな部分まであぶり出し状態になりました。後から読み返すたびに、自分でも冷や冷やしています。

それはどうも「自分」というものにまだ固執している自分がいるかららしい。その「自分」というものは、自分でも持て余すくらいのめんどくささを持っているので、伝えたくても伝わらないだろうよ、という頑固な諦めがあるんだなあ~ということも発見しました。

自分が自分だと思っているものは、影のようなもので、本当は実態などないのかもしれない。それにあやふやな自分がだめ、というわけでもありません。そんな中でも、伝えたい、という気持ちがあるならば、そこは影だの、あやふやだの言っておらずに本気出していこうぜ、という気持ちにもなってきました。

このブログはこれで即終了!というわけではありません。何かあれば書き足していきたい。ですが今後スタートするものは、自分がもっとクリアに伝えたいものをお伝えするような形にアップデートしていきたいと思っています。

先日も書きましたが、ひとつひとつ完了していくことは今の私にとっては大事なこと。よってこのブログでのこのプロジェクト?はいったん完了します。

ということで、改めまして!今までお付き合いくださいました皆さま、本当にありがとうございました。また近いうちに、お会いできますよう~☆

(完)

 

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ニセカウンセラー、、、エビデンスは正義なのでしょうか?

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こんな記事が目に飛び込んできた。

news.yahoo.co.jp

ニセカウンセラー!とは、のっけからセンセーショナルな言い切りだが、それだけこの記事を書かれた先生が、許し難いと思われるようなケースを多々ご経験になられているのだろう。

確かにこころの不調の症状がある場合、プロであるところの「臨床心理士」か「公認心理士」のカウンセリングを受けて下さい、という主張は誠にリーズナブルである。ここで書かれている通り、そんな時に「ニセカウンセラー」とやらにカウンセリングを受けたばかりに症状を悪化させてしまったなんてことにならぬよう、ぜひお気を付け頂きたい。

一方で、曲りなりとも常日頃、人のこころって何だろう?と考えている者として、この記事はちょっとひっかかった。特にエビデンスというものの根拠、そしてそのあいまいさのようなものに、私たちは敏感でい続けなければならないんじゃないかっていう点に、である。

そもそも論だけど「こころ」の領域に科学のお作法を持ち込んだところが、この臨床心理学という学問のスタートである。だから今さら「こころ」って数値で表現するのって無理なんじゃない?なんてナイーブなことは言わない。

以前こんな記事を書いた。

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一般的に科学で何かを証明するためには、何かの再現性がなくてはならないってことになっている。誰がやってもその通りに出来て、初めてその科学的根拠、その正しさってものが証明されるシステムだ。

ライフサイエンスの論文でさえ、その再現性が担保できなくて(有名なところでは一世を風靡した「STAP細胞」のように!)否定されてしまうことがある。試験管の中で行われる細胞の奥の奥の科学でさえも厳しい「再現性」の洗礼を受けるのに、その対象が「こころ」となると。。。一体その再現性の根拠って何だろう。。。って未だ、私は頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。未だ明確な答えは持っていない。いないけれど、こと「こころの実験の再現性」というものに対してはずっと疑問を持ち続けている。

いや、もちろん多くの療法については、既にその有効性にちゃんと根拠は存在しているのだ。例えば記事の中にある「認知行動療法」。世界的に有名な「エビデンスのある療法」である。ではなぜこの療法がエビデンスがある、と言われているのかと言えば、それはこの療法が他の療法よりも定型化、数値化がしやすい側面を持っている、という点。そしてその基礎的なデータの蓄積が多くあるため、更にそれをベースにエビデンスを積み重ねやすい、という側面があると思う。

ではこのエビデンスとは、と問われれば、それは同じ症状を持つクライアント群に同じ両方を同じ期間行ったことで同じ成果が出た、ということになる。なるのだけれど、クライアントは実験マウスじゃないのだ。それに同じ症状がある、と言っても、その症状の原因となっているものは果たして同じなのだろうか?効果が出たと言っているけれど、それはどこまで定着していけるものなのだろうか?でも、結果って実社会のさまざまな環境によっても左右されるじゃないか、等など、私の疑いにはキリがない。

しかし、それより何より。これって、前述の記事に書いた通り「心理を科学したい」という、心理学者、精神医学の悲願みたいなものーそれが臨床心理学の端緒となるわけだからーが、具現化された結果なんじゃないのかなって、私はそんな風にも思うのだ。「科学したい!」って思ったから、科学で示せるものを追求していったら、数値で示し易い療法について「ある程度」の効果が数値で示せた。そういった側面もあるのではないだろうか?もちろんそれは「科学的に正しい」のだろう。けれどそれは、正しいとしたい、というモチベーションの上に乗っかった正しさである。

一方、エビデンスと言えばこんな「エビデンス」を示す論文も出ているらしい。

nazology.net

要は「信じる者は救われる」は、科学で証明できるかもしれないよっていうことなのだろう。もちろん投薬と、心理療法を同じまな板の上にのせて同じだ、いや違う、という議論にしたいわけではない。ないのだけれど、私たちのこころってのはそれくらい真逆で矛盾する性質、世界を持っているんじゃないかってこと、これは声を大にして申し上げたい点である。

コロナ対策もそうだけれど、こっちの方法だったら効く、とか効かない、とか、そんな単純な話じゃない。ないから、世界中が大変なことになっていて、各国もその対策に大わらわ、医療従事者の方は命まで危険にさらされる中で戦っていらっしゃる。あらゆる業界のあらゆる識者たちもいろんなことを言っている。正直どれがリアルな世界なのかわからないようなカオスの中に今、私たちはいる。

わからないってほんとにストレスたまる!何がリアルなの!?って詰め寄りたい気持ちはいっぱいだ。けれどそれって、これまで世の中のことを全部わかったような気になり過ぎてたんじゃないか、私?って最近そんな風に思うのだ。そもそも、気が付いていなかっただけで、私たちはそもそもカオスの中に生きているのではなかっただろうか?

青魚を食べると動脈硬化にいい、とか、夜何時~何時まで寝るのが科学的に良いみたいとか。そんな断片的な、他人情報の「エビデンス」ばかりを、まるでそれが真実かのように私たちは扱って来たような気がする。翻ってそれが本当に自分のからだで得られた真実のデータ、エビデンスなのだろうか?と問われれば、いや、ただそんな風に聞いたから、、、という程度の「真実」。

それがプラセボなのか、本当に身体に効いているのか、それはわからない。動脈硬化にはよくても、他の持病があればまた状況は違うだろう。その青魚も化学物質に汚染されていた魚だったらどうなんだろう?その時の食べ合わせはどうか?それを食べる時間は、調理法は?ひとりで食べているのか?また、その人の生きている環境はどうなのだろう?ストレスのたまる職場で働いているかどうか?それとも親の介護を抱えているのか?お金の心配があるのか?助けてくれる人がいるか(いると思えているか?)などなど、もう、ひとというものはひとりひとり本当に違うのである。

もちろん「ニセカウンセラー」を持ちあげたいわけじゃない。「ニセ療法」も困る。あなたの前世がああだったから、今世でこんな報いがあるのだ、みたいなことを言うスピリチュアル界隈の方はどうなのか、、、とも思っている。

でも、だからと言って「臨床心理」や「心理学」が正義で、それだけが人のこころを救える、というのも極論ではないだろうか。ましてやそれは、プロフェッショナルカウンセラーの資格や技量だけに負うものでもないように思う。振り返ればプロのカウンセラー以上の何かを与えてくれた人たちとの出会いによって、私も何度救われたことだろうか。

どんなに正しくても、どんなにプロでも、それでもどうにもならないのが人のこころ、というものであると思う。そしてそれを常に心に留めておけるのがプロフェッショナルであって、だいたい人が人のこころをどうこう出来るって思うことに危険な香りがしやしませんかね?

少なくとも何かをすっぱり言い切ることを良しとする心理療法家やカウンセラーには、お気を付け頂きたい。それは新たな「洗脳」であるかもしれないからだ。ましてや彼らの自己投影、自己実現をクライアントが引き受ける必要なぞまったくない。

人は人のこころはどうにもできない。他人のことは変えられない、というのは至言である。けれど、どういうわけか、ひょんなことで人は人と出会うことで、そして共に時間を過ごすことで、何かが変わったり、動けたりすることがある。それは、それ以上でもそれ以下でもない。

少なくとも私はそういうカウンセラーでありたい、と思っている。

 

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夢野久作、杉山家一族に思うこと(その2)

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本日もこちらの続きです。

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前回触れた夢野久作のお父さん、茂丸氏。私が書いたことなど、茂丸氏のエピソードのほんのさわりだけなのだけれど、彼の見つめていた世界の広さたるや。それを知っただけでも、なんだかこちらの胸がひらかれていくような思いがする。

この茂丸氏の大アジアへの夢、というかライフワークは、夢野久作を経て、お孫さんの杉山龍丸氏に脈々と受け継がれていくこととなる。

夢野久作という人は、小説家の他にもいくつもの顔を持っているのだけれど、私が一番意外だったのは、彼が農園を経営していた、ということだった。これは本当に勝手なイメージなのだけれど、どこかに閉じこもってずっと文章を書いたり、思いを巡らしたりしている人なんだと勝手に思っていた。

「杉山農園」と呼ばれたこの農園。設立の経緯含め、いろいろな趣旨があったようだが、それが杉山家一族だけのため、というよりは、世の中の人のため、ということだけは確かなようである。これを夢野久作が茂丸氏から受け継いだ資産で開園したのだという。そしてその息子さんの龍丸氏はこの農園で生まれた。断片的な情報からでも、龍丸氏が幼いころから「世の人のために生きるとは」という思想を、祖父、そして父から農園と共に受け継いだようだ。そしてこのことが、後の龍丸氏の行動の原動力となった。

16歳で祖父茂丸氏、そして父、夢野久作を亡くした龍丸氏。その若さで家督を継ぐなんて、私にはちょっと想像も出来ないくらいだけれど、とにかく生きていくために彼はまず軍人になった。

その後太平洋戦争が始まり、龍丸氏も戦線に駆り出されフィリピンで従軍する。そのエピソードを読むといろいろ胸がつまるところがある。杉山一族のような家に生まれた彼が、世界のことをよく知る人が、あのような戦争で戦わなければならなかったってこと。心理的にも計り知れない葛藤があったんじゃないかって思うのだ。そして、前回ちょっと触れた大刀洗平和祈念館でこの杉山家の企画展があったこととオーバーラップして、展示を見ながら私はまた色々な思いに包まれる思いだった。戦争というもののあらたな一面をここで知ったように思う。

ちょっと話がまた脱線するのだけれど、「特攻隊」と言えば鹿児島の知覧。知覧に行ったことはないけれど、特攻隊に参加された方々の話は見たり聞いたりする機会はあった。だけど、筑前「大刀洗」という地に、かつて東洋一と言われた大刀洗飛行場が、あって、特攻隊の中継基地として使われていたこと。今は見渡す限りの平原といった感じの土地なのだけれど、そこにはその飛行場を中心としたまちがあって、活気にあふれていたのだ、ということを知って相当驚いた。まさか福岡の先に特攻隊の基地があったなんて、まったく知らなかったからだ。

この博物館には現存する唯一の零式艦上戦闘機ゼロ戦)があって、それを目的に来られるかたも多いそうだ。私個人は、大刀洗のまちがどんな風に大きくなっていったのか、とか、軍都、というものがこの土地に与えたインパクトとか、そういった展示がとても興味深かく思われた。そしてやはり特攻隊員の方の遺された手紙や遺品、そして1945年の爆撃で亡くなられた大勢のここで暮らしていた方々についての記録には、胸に迫るものがあった。機会があればぜひ、訪れることをおすすめしたい博物館だ。ぜひ。

もとい。戦争中もたいへんなご苦労があった龍丸氏だけれど、戦後は杉山農園の経営を続けられることとなる。運命ってやっぱりあるのかなあ、と思うのが、たまたま東京で再会した知人に、インドからの留学生を引き受け、面倒をみれくれ、と頼まれ、その後留学生のお世話や教育に携わることになった、という話。

祖父、茂丸氏の遺志を継ぐかのようなこういう運命の巡り合わせって、ここにある種の世代間連鎖の糸を見るかのように思う。一体なんでしょうね、こういうのって。

で、留学生に相当真剣に(時におっかないくらいの勢いで)農業や織物、工芸品などの日本の技術を伝授されたようなのだけれど、その後面倒をみたその留学生たちのご縁でインドを訪れることになる茂丸氏。

そこでまた飢えに苦しむインドの人々や、砂漠のような土地を見て、いてもたってもいられない、とばかりに支援活動に邁進することとなる。

「ふたつの悲しみ」秘話―夢野久作の長男杉山龍丸とファミリーヒストリー

この本の中のエピソードで私が度肝を抜かれたのが、このインドの窮状を訴えるために、自分の土地を売ったお金で国連にひとり、乗り込んでいかれたという話である。もちろん国連がどういうところかってことはご存知だったのだけれど、ともかく「いてもたってもいられない」気持ちで飛んで行かれたのだろうか。

で、国連ってもちろんお役所だから「残念だけど個人のお役には立てませんよ(あなたのお気持ちはよくわかるけれど)ここはそういう場所じゃないから」って言われてしまって、その後号泣してしまうとか。

なんでしょうね、この情熱、というか気概というか、心根、というか。きっと私にははかりしれないくらいの、龍丸氏が経験したことや思いがおありになったのだろうと思うのだけれど、それにしてもすごいじゃないかと嘆息してしまう。

龍丸氏の勢いは止まらず、遂には自分の財産である杉山農園を全て売り払って、インドの支援に全投入し、ほぼインドに行きっぱなしになってしまうのだ。普通の人の出来ることじゃない。彼の家族にとってはたまらないだろうけど!

この剛毅さと、そしてある種の理想に自分をささげられる浪漫、そしてアジアの国を思う気持ち。こういったものが、その時その時に形をかえてこの杉山一族に脈々と流れる血となっているような、、、私にはそんな気がしてならない。

その後インドの砂漠地帯に400kmを超える並木道をつくりあげ、そして乞われるままに村から村へ赴き、そこでまた農業や草鞋を作る技、なんかを教えていく。そのエピソードもひとつひとつが何かこう、童話というか、ものがたりのように思える。

そしてここでも驚くのが、農園を経営されていたとはいえ、龍丸氏は砂漠の緑化についてはまったくの素人だった、とのこと。なぜかその龍丸氏にインドの人々からの依頼が集まる。そこからひとつひとつ調べたり、試したりしながらひとつひとつ解決、緑化活動に没頭された。そして龍丸氏はインド緑化の立役者「グリーンファーザー」となられたわけなのだ。

英雄とか偉人とか、そういうキラキラした感じではなくて、何か風に吹かれるように、でも吹かれた先々で鮮烈なものを残された方。それが龍丸氏に私が感じるものである。

現代は世代間連鎖、というと、ちょっと親の呪いのような意味合いも含んだものになってしまっているけれど、そして杉山家に生まれた方は、同じような思いを持たれることもあるのだろうけれど、こうやって一族の系譜に受け継がれる「意志」というもの。

それが何なのか、ということをこの杉山一族はいつも私に考えさせてくれる。そんなこともあって、私のは杉山一族への興味や思いが尽きないのかもしれない。

 

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夢野久作、杉山家一族に思うこと(その1)

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以前「ドグラマグラ」についてこちらで書いたが、何を隠そう(隠してないけど)私は相当夢野久作が好きである。

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どのくらい好きかというと、去年、これを見るために九州の大刀洗平和祈念館まで足を運んだくらい好き、そして彼の一族にも興味津々なのである。

www.nishinippon.co.jp

だってあんな「ドグラマグラ」みたいな小説を書けちゃう人が、いったいどんな家庭に育ったのかって興味しか沸きませんよね!?(と、周囲に言い続けて引かれた経験が何度もあるので、代わりにここで一族への愛を書き連ねておきます)。

まずは夢野久作のお父さん、杉山茂丸氏。この人からしてすごい。貧しい生活の中でも近所の子どもに塾を開くような儒学者の父のもとで生まれ育った茂丸氏。当然、幼いころから四書五経なんかお勉強しているのである。10代にして、自由民権運動なんかにも目覚めちゃっているのである。

色々の目覚めが早かった?所為ではあるまいけれど、20歳そこそこで「国を亡ぼすような伊藤博文はだめだ!」と暗殺しようと出かけて、話をしたらそこで仲良くなっちゃうとかね。もう20歳そこそこでエピソードが満載すぎて、とても追いつけません。

その後「玄洋社」っていう有名な政治団体に属しつつ、おひざ元の博多の発展はもとより、韓国の併合やら台湾の銀行、満鉄、日本興業銀行設立やら何やら。なぜかこの人が一枚かんでいるのである。政治家といっても、要職に就いている大臣や、ましてや議員さまでもないというのに、アジアの国々をも巻き込んでのこのスケールの大きい活躍っぷり。

実際のところ、強い裏方希望だったらしいし、世間さまからは何やってる人なのかよくわからなかったんだろう。日本だけじゃなくて世界を股にかけての駆け引き上手。押し出しもきっと強くていらしたのだろう。そしてその並外れた行動力。魔人とか法螺吹きとかいった、おもしろい?あだ名がいっぱいおありになったようである。確かに人間離れしている。夢野久作の文体のあのあやかしさ成分は、きっとこの茂丸氏から受け継いだ血に含まれているものに違いない。

ご興味ある方はぜひ、こちらご覧ください。日本史の年表そのままみたいなご活躍のオンパレード。日本にもこんな方がいらしたのだなあ、、とちょっと心が慰められる。

ちなみに余談だけど、インドの独立運動家ボースが、当時のイギリス植民地政府(その頃はまだ、インドはイギリスの植民地だった)に追われて日本に逃れて来た際、多くの人が手助けをしたが、この茂丸氏も逃走を助けたことがあるらしい。このボースさん。新宿の中村屋にかくまわれたり、逃亡の手助けが縁でそこのお嬢さんと結婚なさったおかげで、私たちは今、中村屋のカレーをありがたく頂くことが出来ているわけである。インドカレーの影に歴史あり。今度中村屋のカレーを頂く時には、この歴史を思いながら食したいと思います。

更にまたまた余談だけど、このボースが日本に亡命した時にはなんとあの、タゴール(インドの詩人)の親族と偽って入国してこられた、というので、またまた私は胸アツなのである。何故ならばこの映画、かなりサイコーだったので、私は今タゴールの詩集なんかも読んじゃっているのである(この映画のことは、コーフンが落ち着いたらまた書きたいと思う)。

tagore-songs.com

youtu.be

ね。もう、何だろう、こうやって話がとっ散らかるくらい、様々な要素がありすぎてそれが色々なところに伝播してる、こういう感じがタマラナイのですよ、、(夢野久作っぽく)。

そもそも茂丸氏は「アジア主義」を掲げていて、それは、イギリスにめちゃめちゃにやられていた中国の状況を見てショックを受けたことに端を発する。アジアはこんな風に列強の植民地なんかになってはいけないのだ、アジアは共に連帯して発展するのだ!という強い信念をそこで持ったらしい。

その信念、思想ではとどまらず、大胆に行動して歴史を動かしていったっていうのが本当にすごい。どこかの本に書いてあったように記憶しているが、それが九州という土地で為されたっていうこと。東京とか大阪じゃなくて、福岡という地を中心にアジア、そして世界を見渡すその視野の広さに、あの博多湾の上をさ~っと吹き抜ける風やその先にある国々の存在を感じるというかなんというか。ともかく「大アジア」的?大局の気風を体現されていたお方らしいのである。

このお父さんの話をいろいろ知るにつれ、夢野久作の世界には、どうして日本くさい感じがないのかってことがちょっとわかったように思う。私が夢野久作を好きな理由のひとつに、日本のことが書かれているのに、それもかなりの土着的なものが描かれている小説もあるのに、なぜか外国の香りがするってことってのがある。

死後の恋: 夢野久作傑作選 (新潮文庫)

この小説はそれが顕著なのだけれど、そして描かれている世界は残酷でしかないのだけれど、身体の臓腑の中の血まみれの宝石の硬さ、輝き。そしてそこに詠嘆される恋と、真と幻想が交じり合うこのお話。好き、、としか言いようがない。

ところで夢野久作はほんの幼いころから能の先生に弟子入りして、能への造詣が深い。そんなことを私は後になって知った。知ってから、嗚呼そうか、、と思うことがある。まずひとつは彼の独特の文体だ。もし夢野久作の本を読まれたことがない方が、ちらっと彼の文章を眺めたら、うへってなっちゃうかもしれない。ともかく独特だから眺めるだけでも「一見」とっつきにくく見えると思う。しかし、ちょっと声を出して読んでみて下さいましな。あら不思議。びっくりするくらい、身体に馴染む文体、声から身体に入ってくる文章。あの身体性のたかい文章は、一部、きっと能の世界からやってきたものに違いないと、勝手に私は思っている。

もうひとつは、この「死後の恋」がまさにそうなんだけれど、能のシテ方が死者のことばを語っているかの展開で小説が成り立っている点。なんかこれって、能の一部の演目のように、シテ方の語りー死者のことばが幻想の背景に溶けて、混然一体、あれ?私、いまどこで何を見て聞いていましたか。。。ってなるみたいな、そんな風情満載なのだ。

って語るほど、私は能のことはよく知らないのだけれど、高校生の時から読み続けて不思議!って思ってたことが、ある時この「能」というキーワードで解き明かされたように思って、うれしくてコーフンしたのでした、ということをお伝えしたかった。

。。。と、話が右往左往してしまっているのに、まだ半分も語れていない!申し訳ありません。

ってことで、杉山一族への愛語りは続く。

 

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筋が通っている自分じゃなくちゃダメだって思ってた頃のこと。

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自分のなかに矛盾があるってことを、どうも許せない時期があった。特に若い頃。

矛盾を持つってことと、変節漢ってのは、今だったら違うよなあ~ってちょっと笑ってしまう感じもあるのだけれど、とにかく一本筋が通ってるってことは私にはとても大切なことだったらしい。

どうして一本筋が通ってるってことがそんなに大切だったかっていうと、一本筋が通ってるってよりも、そうやって人から「見える」ってことが重要だったらしい。

何度も登場してくれている私の父だけれど、彼はほんと「女優」って感じの人でですね。自分のことだけ語ってくれていればよかったのだけれど、自分のことと同じくらい家族のことや家族の出来事についても、そりゃもう恐ろしいほどの脚色つきで、他人に語るのが大好きな人だ。

事実を知る家族として聞くに堪えないほどの脚色いっぱいで、得意げにとうとうと話を捏造する父の横っ面を何度貼り倒したいと思ったことか。それを聞く他人の反応が気になって気になって、私は父を睨みつけながら、話の聞き手の表情をずっと窺っていた。それこそ話に酔ったように行きつ戻りつするくどい話(けしておもしろくない)、お涙頂戴的なやすっぽい自己顕示欲満載の話。それは自分を一見下げているように聞こえるのだけれど、実は「ね、僕って、僕の家族ってすごいんです!!」のリフレインが叫んでいるだけの話。

ひどいときは、どこかのドラマや週刊誌やニュースの家族の話が、いつの間にか家族の話に置き換わってしまい、私はもう、恥ずかしさとみっともなさで身の置き所がなかった。家庭の中はあんなにめちゃくちゃだったのに、父の話の中の我が家はまったく違ったもので、でもお涙頂戴の要素が入っちゃったり、その時々で筋が変わったり、まあ一言で言えば陳腐なサクセスストーリーってのが定石だった。

今思えば、彼は彼が主人公のシンデレラストーリーを語りたかったのだな、と思う。自分がどんな苦労をして、どんなひどい環境でも希望を失わず、よい子でいたから魔法がかかって、ほら!今やもう貴族に囲まれたお城の中心はあなたですよっていう、そういう物語。彼にはそれが必要だったんだろう。

そんな浪花節の、その時々に全然事実と違う、そしてその前に話された話とも違う、そんな恥ずかしい話を聞かされる度、ああ、こうなってはいけないのだ、と私は深く心に刻んだ。

多分きっかけはこれだったのだと思う。出来るだけ誠実に、ウソを排除し、筋が通った自分でいなければならない。あんな恥ずかしい大人にはぜったいならない。

そうやって私は自分を律したんだろう。それでも、血というものは争えない。どうも私の中に、話をおもしろくしたい!という欲があるってことに、私は気が付いていた。だからこそ余計に矛盾があっちゃいけない!前にこう言ったら次も同じように話さなくちゃいけない!って、ものすごく気を付けていた頃があった。

これも後から思えば、だけれど、父を見る他人の視線が気になって気になって仕方ないっていう、あの感覚のまま世間様と渡り合っていたのだ。あんな風に他人様からうすっぺらく見られるなんて耐えられない!私は違う!って、そう思ってたんでしょうね~~

しかし、父とは真逆な方向だったけれど他人の反応が気になって仕方がない、他人の反応のために自分を調整するっていう才能?は着実に受け継がれた。

告白すれば私はもう、大変な気分屋さんでご気分によってその時の感覚っていろいろ変わっちゃう性質なのだった。でも、そういうった自分がどうしても容認出来なかった。それしちゃったら父と同じになっちゃう、それはなんとしてでも阻止しなければ!と私の無意識界はものすごい圧を私にかけていた。

だからもう、昨日白だ、と言ったことは今日も白でなければならなかった。あれ?今日はピンクに見える!って思っても、いったん白、と決めたらそれは白なのだ。

あの人は白。あの出来事は白。そうやって一度自分でジャッジしたもの、言ったことは変えちゃいけない。なんで?って、それは他人から「いいかげんな奴」って思われちゃうから。他人から蔑まされたくなかったから。

しかししかし。もともと私ってあんまりそんなにお堅くはないのだ。けっこー真面目ではある。それは認める。でも本来の自分はけっこーいいかげん、な成分が多いのに、これをやり続けるってほんとに大変だった。

何が大変だったって、それじゃ人といてラクになれないのだ。一度誰かのことを、白って言ったらもう白で固定しちゃう。そういうのって、まあ、最初にこの人好き!って思った対象に対して、忠誠心的なものを持ち続けるためには役にたったけれど、それ以外はあんまり必要なかったと思う。揺れて動く自分の感覚を叱りつけて、この人は白でしょ!って思い続けるって、実はものすごい負荷がかかっていたんだな~ってある時、ずいぶん大人になってから気が付いたのだ。

そうかそうか、私も父と同じ、そんなに他人さまの評価がたいせつだったのか、っていう思いがある時にかーん、と自分の中におっこちてきた。なんだ、あんなに嫌ってたのは父のことじゃなくて、自分のことだったのか、と。

もちろん今でも父は「それってどんなメロドラマよ!?」という話をやめていないし、相変わらず私はそれを黙っては聞いていられない。それは変わらない。ひとつ違ったことって言えば、今はその話を聞く他人のことはあまり気にならなくなった。父個人に対しては思うことはたくさんあるけれど、まあ、そんな話を聞いたからといって全ての人が「みっともない!」って思ってるわけじゃないんだなってこともわかった。もし「みっともない!」ってみんなに思われていても、そりゃそうだよね~娘の私もそう思います、、、って言うだけの話だったんだなって今、思う。

人の心は一定じゃないし、常に変わるもの。ちょっと瞑想なんてしてみれば、自分の思いがどんなにあっちこっちふらふらしているかって、すぐに自分にバレちゃう。だから自分が「言うこと/話すこと」の主義一貫なんて、あってないようなものなんだなって思うようになった。

むしろ、その時の思いをひとつひとつ終わらせていくこと。それには、その思いに過大な執着を乗せず、どんどん自分から放していくこと。そうやって自分の思いを怨念にしないようにひとつひとつ、そうなんだね、そう思ったんだね、じゃね、って見送ってあげるってこと。この繰り返しでしかないよなあって思っている。

矛盾がないように!って頑張ってた自分もおつかれちゃん☆だし、ちょっと不器用で可愛げがないところが可愛かったなあと思うけれど、もうそれは充分。

今はもっと自分を軽くしておきたい。軽くするため、そして得体のしれない怨念を溜め込まないよう、ひとつひとつの思いを完了して見送ること。

そう、さよならだけが人生、なのだ。

 

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未完了をいっぱいにしておくと、意図が出来なくなるの巻

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ここのところ、今まで自分が解けなかったいくつかの難題?の解決の糸口が見え始めているのを感じている。

つくづく思うのは、自分が当たり前だと思っていた言葉や物事への理解とかって、なんてひとさまの借り物ばっかりだったんだろう!ってことだ。

それは言葉にすれば、すごく簡単で当たり前で誰もが言っているようなこと。だけど、そういったことこそいま一度、いちから自分で構築することのたいせつさを思う。

そう。自分の中に問いを持ち続けるってことは、本当にたいせつなことだと思う。自分の上っ面で、わかった気にならないってことだ。

今の時代、ちょっとwebを検索すれば、ちょっと本を読んだり、他人の話を聞いたりすれば、私たちって、いともそのことをわかったような気になってしまう。私もこうやって自分の知見を広げているのだって、最近まで思っていた。そこで得た答えややり方が自分を、そして問題を救ってくれるように勘違いしていた。

まあ、それも悪くない。悪くないけれど、結局私たちってひとりひとり、考え方、やり方、感じ方、すべて違うのだ。例えば、何かに成功したいと思っても、成功の定義や感じ方は違う。ゴールが違うんだから、そこへ至る道はやっぱりそれぞれで、自分で模索するしかない。

HOW TO本やwebの情報は、その成功へと至る「可能性」のひとつを示してくれている。だからそれを読んで、自分でやってみること自体は悪くないのだ。しかし、結局のところそれがworkするかどうかって、やってみなければわからない。よしんば本の通り成功したとしても、本の通りにしたけれど失敗したとしても、そもそも本の通りに実行出来なくても。それは自分のやり方、自分の道を試しながら歩いている道の途中だってことだけだ。

そう、結局はそうやってトライ&エラーを繰り返しながら、自分の道ってものを地道に歩いていくってことだけなんだなって思う。むしろゴールよりも、自分の道を歩くってことの方が大変で、自分にとってほんとうのことなのかもしれない。ほら、こうやって言葉にしちゃうと、当たり前すぎて恥ずかしいくらい!けれど、こんな風に自分が確認して、身体の奥から納得して綴る言葉たちからは、フレッシュで素直にそうだね!って言える香りが漂ってる。その香りに感心したり感動したりしている。

この感覚に私はちょっと鈍感だったな~って思っている。上っ面でわかる、わかる、って思っていたこと。それは理解としては間違っていないんだけど、この理解ってやつ。これが私にはあまり役に立たないってことを、今、道を歩きながらわかりはじめている気がする。

きっとこれも人によって違うんだろうな。話を聞くと、一撃の理解でぱっと何かが変わる人もいるし、逆に理解が追いつかなくて言語化が出来ず、コミュニケーションを取る時に困るって人もいる。ほんとに人それぞれ。

ここ数か月、私のなかにあり続けた問いのひとつに「自分で意図するって、一体どういうことなんだろう」というものがある。何か自分で叶えたいこと、望んでいることはあるのだけれど、それをどうやって意図して、実行して、検証するのかってことを今一度自分に問いなおしていた。

私は意図するってことを、先々にこうしたいとか、こうなりたいとか、そこだけにフォーカスするもんだって思い込んでいた。

そんな中だったけれど、こちらで書いたように、私は自分の望みを希釈する癖があったのだってことに、まずは気が付いた。そうか、怖さがあったんだねってことが最初にわかったのだ。

でも知りたいことはまだあって、それはその怖さってものとどう折り合いをつけていくかってことだった。その方法が知りたかったのだ。怖さに対して「怖くない、怖くないでちゅよ~☆」って呪文をかけたり、或いは「怖いけどやるのだ!」っていう蛮勇風アクションをすることって、両方自分には向かないな~って思ってたから。そう、私は自分にとって一番いい方法で怖さと対峙したいのだ。わがままと言われようとも☆

だから怖さと折り合うためにはどうしたら良いんだろうって今も色々お試し中だ。この踏ん切りの悪さ?のお蔭で先日、とても良いヒントが舞い込んできた。

それは、先日からだの動かし方について教えて頂いた時のことだった。自分のからだをどうやって使ったら、行動の目的を達することが出来るかっていうのがもともとのテーマだった。私は人と相対する時、割と自分の注意力をあちらこちらに散りばめる癖があって、その対策について教えて頂けるようにお願いしていたところだった。

注意力を散りばめるのは何故かって言うと、突き詰めれば自分を守るためである。あっちにもこっちにも対応出来るように、準備をしていればどっちに転がっても対処できるし、安心だ。それはもう、幼いころから培ってきた私の癖みたいなものだ。

これって一見「危機管理が出来ていてよろしい!」って見えるかもしれない。私もそう思っていた。

けれど、どうやら私のこの注意力散りばめ癖ってものが、私の経験と自信を奪っていたってことに、私は気が付いてしまった。なぜかっていうと、ああかもしれないし、こうかもしれないし、ってあらゆる準備していると、私の場合、その準備の質がとても薄く、ぼんやりしたものになる。だからどこにヒットされても、対処出来たような、出来なかったような、なんか現実感がない感じがあった。

これはきっと人によって全然違うんだろうと思う。あれこれ準備したことで、そのどこかにヒットすれば「ナイスヒット!」と、自信を深めていかれる方は確実におられると思う。

けれど、私は正解や優先順位ってものを予測するのが滅法苦手。それは、正解できなかった時、優先順位が外れた時に、自分がとてもショックを受けるってことをわかっていたからで、だから「どの可能性もあるわよ♡どこに当たってもいいわよ♡」ってことにしておいたのだ。しかし「どこに当たってもいいわよ♡」なんて言いつつ、私はその結果を正視出来なかった。結果がわかるのは怖いことだから。結果が出た時、それが当たりだったのか、外れだったのかもよくわからないようにしておけば、少なくとも自分のショックは和らげることが出来るから。

そうやってその場その場の自分を守ってきたつもりだった。確かにその場の自分は守ることが出来たのだけれど、その代わり、何かが完了した、という大事な感覚を見捨ててしまっていた。結果を受け止めないことで、ものごとを終わらせる、という所作を避けた。

この「完了をして来なかった」ということが、なんと!「意図することってどういうことなんだろう。。。」という問いに多いに影響を及ぼしていたことに、からだの使い方を教えてもらいながら、気が付かせてもらったのだ。

良くも悪くも未完了ばかりを、いくつもいくつもじゃらじゃらと引きずり続けて、これからのことを意図するなどとても出来ない。気が重くなるのも当たり前だ。また自分のお荷物を増やすだけだ。そしてそれが叶ったのかどうかって、どっちでも解釈できるようにまたうすい準備をするだけなのに。っていうこの堂々巡り。

こうやって、私は意図が出来ない自分のからくりってものに、今、ようやく近づけている感じがある。そうか、逆だったのか。ちゃんと完了してこなかったから、意図も苦手なら、それを叶える方法もぼんやりするわけだ。

ってことで、私はそれから盛大に数日をこのぼんやりモードで過ごしている。急に変えるとリバウンドがあるって自分のことを承知しておりますので!まずはぼんやりの自分の言い分を聞いてあげている。このぼんやりモードの私が充分だよって言ってくれた時「完了モード」に切り替えて実験しよう!と思っている。

それで「意図する」って行為がどうなるかが、ちょっと楽しみ。

 

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やってみないとわからないねってことがわかる魔法

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こころと身体、そして臨床心理の勉強をはじめる前から、私の興味は「人のこころって何?」ってことだった。小さい頃から、こころってものが私の手に余るようなものだったから、と言ってもいいかもしれない。

何に対しても「うまくやる」、そして出来れば「余裕も見せたい(裏で頑張ってるって悟られたくない)」ってのが、私のMission Impossibleで、だから小さい頃はほんとに大変だったんだろうな~って思う。ほんと、おつかれ、おつかれ。

で、なんで「うまくやる」ってことにそんなに頑張っちゃうのか、おまけに「余裕」なんてものを見せることまで必要なのか、ってことを、見事に解き明かしてくれたのが、こういった学びの成果で、それはとってもエキサイティングな体験だった。私はあまり推理小説は好きじゃないのだけれど、たぶん、推理小説ファンが上質な謎解きを真剣に楽しんでいらっしゃる感じと似てるんじゃないの?って勝手に思ってる。

その謎解きって自分のことだけに留まらず、母がなぜずっとあんなに不機嫌だったのか、父がなぜあんなにいつも自慢話ばかりするのか、なんてことも、実に明快に理解した。それが彼らだけのせいじゃないってこともわかったし、世の中には似たようなことをする人たちが職場なんかにいて、だからちょっと困ったことになってるってことも知った。

私はそれを手に取るように理解できる素地、才能を持っていたらしい。そういった家庭で育ったこと、自分のなかにあるものは、まるで教科書の事例みたいで、理解しようなんて努力しなくても、直感的にわかってしまう。英才教育の効果ってこんな感じなのか!って感じ?(違う英才教育を羨ましく思うけれど、それは選べないからね!)

例えば仲間内や会社、学校で何か揉め事や、問題が起こった時、関係している人の意図や感情を想像することに、さほど難しさは感じない。他人の意図や感情が透けて見えるって、時にうんざりすることはある。それでも、他人のこころを想像できるってことは、他人がなぜそんなことを言うのか?やるのか?ってことがわかる手がかりみたいなものだから、それで私が助かることはたくさんあった。

だから私は私の手の届く範囲では、人のこころってものの動きを想像したり、理解することが出来るようになったんだなって思っていた。今でもそう、思ってる。完全に理解することもないし、想像は妄想だっていう前提で、そう思ってる。体験だけじゃなくて、理論や知識を積み上げることが出来たのは私の大きな強みだ。

でも、私の深いところでそれでは道半ばなのだよ!って思いが、なぜかずっとあって、今もまだあるのだけれど、それが「出来ると思うよ」っていう自分とそりが合わない。

理解はしているし、想像することも出来る。それを他人に伝えることも出来る。けれど、それが自分自身に対しては使えていないような感覚があって、それが決定的に私の自分への信頼を揺るがせていたらしい。本当は出来てないのに、出来てます!って言っちゃったよ、あーあ、どうする!?って自分に迫っちゃうみたいな感じって言っていいかもしれない。

これもね。どうしてそんな風に思っちゃうのかってことについても、いかようにでも、何通りも説明出来るのだ。それもそう、間違った解釈じゃないだろうなって、そういう確信はある。

出来る、出来る、出来る。でも出来ない。この堂々巡りは、一体いつになったら決着するんだろうって思ってた。これ以上、何を経験すれば、何を学べば良いんだろうってちょっと途方に暮れる感じもあった。

自分のことを語りながら、ここで他所さまのことを申し上げるのは憚られる。けれど、この世の中ってこんなにお困りごとが沢山あって、いろいろ大変なことになっている方がいっぱいいて、だから、そのお困りごとをまるごとぐわっと飲み込んじゃうビジネスがたくさんある。安っぽいセオリーやトレーニングをうたい文句に食い物にしようっていう、そんなサービスもたくさんある。貧困ビジネスとそう変わらないじゃないか!って思ってることが度々ある。

チープなのはまだいい。それは一見してわかりやすいから。でも、こころを扱う界隈には、自分が習得した技術を使って、意識的に、または無意識に人をコントロールしている人ってのも残念ながら一定数いて、それが私が「カウンセラーってクライアントと対等じゃない」ってところに反応してしまうところなのだ。

もちろんカウンセラーだってそれを生業にする以上、収入は必要。でもこころを学んだことで、他人をコントロールしてクライアントを依存させていく様を見るのは耐えられない。

そう。それでわかったのだ。出来る、出来る、出来る、出来ない。は、自分がそうやって無意識にクライアントをコントロールしちゃうんじゃないかっていう恐怖、嫌悪と、そんな恐ろしいこと、やっぱりやらない方が安全だよねっていう堂々巡りだったのだ。ってね、解けなかった謎が最近、ちょっとわかりかけてきた。

おまけに、私にはお母さんみたいな受容力も時に有り余るくらい出て来ちゃうのだけれど、正反対のかなりとがったところもあって、それで(特に若い頃に)他人を傷つけてしまったっていう記憶の負い目もあるんだな~って。

だからなかなか踏ん切りがつかなかった。他人に関わっていくような仕事が、果たして自分に務まるんだろうかっていう疑いが晴れなくて、だから、出来る、出来る、出来る、出来ない。のまわりをくるくるまわっていたんだと思う。

その他人への負い目と自分への疑いが、自分にOK!やって良いんじゃない?やろうよ!って許可しなかったんだなってね。おまけに「うまくやる」っていう癖がまだ抜けてなくて、やるからには最上のものをご提供しなければ!っていう、プレッシャーまで自分にかけてたんだな~って。

なんだ、ここまで三重苦か。

そういうことが、最近こう、毛糸がつるつる~ってほどけるみたいに、自分のなかでほどけるようにわかってきて、それは理論とか知識とかっていう感じでもなく、自分のなかからぽんって、産まれてきた自分への理解だった。

このブログを書き続けているのも、ここに辿り着くための軌跡を、自分で再確認するためだったのかな~って思ったら、そうか、ものごとってやってみないとホントのところはわからないっていうセオリーが身に染みている。

そしてそんな自分のためだけにやっていること、書いていることをちょっと気にかけて下さったり、読んで下さっている方の存在が超励みになるってことも、やってみなかったらわからなかった。

実はこのブログ、煩悩の数!108記事まで書き続けようって思って始めたのだった。自分でも自分が何を言いたいのか、何を伝えたいのかってことを自分でも掴みあぐねていて、100記事くらい書いたら何か見えるかなって思ったのだ。

間もなく108に到達する今日の今、なんでこんな風に書いているの!?って自分でもよくわからない。もしかして、これがやってみないと何事もわからないっていうことみたいだよ!!って、妙に腑に落ちたことをお伝えしたいだけなのかもしれない。

理論とか知識、英才教育も誠にお役にたっているのだけれど、行動するってことは自分の足でしか行けない場所に連れて行ってくれる魔法だったらしい。

だからっていきなりものすごいことを行動する必要はないんだなってことも、なんとなくわかってきた。

この魔法をちょいちょい、これからも使っていきたいって今はそう思っているってこと、これが今日書きたかったことみたい。

そう、やってみなければわからない。書いてみなければわからないってこういうことなのね。

 

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