Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

「結果」にまつわるエトセトラ。

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それは若い頃、新入社員の頃会社の上司からよく言われたセリフ。

「とにかく結果を出せ、結果が全てだ。」

「大人の世界は子どもの世界と違って、プロセスなんか誉めてはもらえない。」

「だから結果を出すしかない。認めてもらいたかったら、方法はそれだけだ。」

このフレーズを聞く度に、ひえ~!大人の世界って厳し~!って思っていた。そういうの、好きじゃないなあ、、、と思いつつも、まあ大人の世界ってそうなんだね、と思っていた。それに疑問を持つこともないままに。

会社では毎月の営業会議があった。予算未達の月は、もちろん会議の前にとっくにそんなことわかっていて、とにかく会議がユウウツだった。会議準備のために電卓を叩きつつ、目標予算をクリアできていないことにどう言い訳をしようかと、言い訳のことばっかり考えていた。

会議中、今月は〇〇万円の未達です!すみません!って言うだけじゃ許してもらえなくて、どうしてなんだ?って問い詰める切れ者の課長の前で、どうして予算を達成できなかったのかという説明をしなくちゃいけなかった。何をどう説明しても、彼らから見れば結局仕事っぷりが甘い、ということに尽きるのである。言われるまでもなく、それは自分でもよくわかっていた。

今思えば、だけど、あの頃から私は予算をクリアする、みたいなことに真剣になりきれなかったのだ。いや、利益を出すために真剣に努力しよう、工夫しなくちゃって気持ちだけはあった。けれど、身体が全面的についていかない。結局、自分でも納得いくような努力行為は出来なかった。出来なかったけれど、最終的には帳尻を合わせて、上司が言う所の「結果」というものを何とか示し続けた。可もなく、不可もなく、まあ一応なんとか達成しましたって感じ。自分でも手応えはなかった。

それが営業目標であっても、私にとって目標ってのは、実に気が重いものだった。目標予算を生き生きとして追っている先輩や同僚はおかしい人たちだと思っていた(そうは言わなかったけど!)。数字をクリアすることに、あんな風に取り組める人たちがいるんだってことが、ちょっと信じられなかった。

思い返せば、私にとっては会社の営業目標と、学生の時に試験でいい点を取ることって、ほとんど同じことだったみたいだった。学生の時は、試験や単位はなんとなくやっているうちに、そこそこでクリアするってことが自分のデフォルトになっていた。ものすごく優等生でもなく、落ちこぼれでもなく。まったく勉強しないわけでもないけど、猛勉強はしない。まあまあ、そのくらい点数があればいいんじゃない?合格っていうライン。まあ、どっちかっていうと要領だけで世渡りしてきた感は否めない。

で、ですよ。大人になって随分と経ってから「あれ?これってなんかちょっと?」って違和感を感じるようになった。発端は、自分で好きなはずのことをしても、どうも気が乗らない、というのを発見したことだった。

試験の点数や営業数値だったらまあ、気が重くてもそうおかしくもないかもしれない。だけど、本当は自分が好きな筈のこと。それは文章を読んだり書いたり、絵を見たり描いたり、歌ったり、旅に出たり、とかそういうことなんだけど、それですらある日「気が重い」と感じている自分を見つけてしまった。明らかにやれば楽しいのに、どうにも始めるのに時間がかかったり、やり続けることがつらく感じてしまうのだ。

あれ?ほんとは好きなことじゃないのかな、、、と思ったこともあった。まあ、いくつかの趣味はそういうこともあったかもしれない。好きじゃない、というよりも、義務感でやっている感じ?

そう、義務感。

なぜ好きなことに対しても、義務感みたいなものが降ってきちゃうのかって考えたんだけど、やっぱりね。どうもこれは幼少期の思いぐせが残っているんだという結論に至ったのだった。

私の父親は、ちょっとしたことに動揺する性質である。強面で若い頃は瞬間湯沸かし器そのものだった。ちょっとでも自分が思ったようにならなかったり、うまくいかないことがあると、だいたい母親を責めていた。責めるって、たぶん父としては責めている感覚はなかったのだと思うのだけど、それを目の前にしている私からしてみれば、充分責めたりなじったりしているように見えた。

それは例えば、母親が行きたい、といったお店が休みだったり、車の運転中、父が「こっちだろ?」と母に聞いた道がいっぽん間違えてたり、とか、ほんとにそんな些細なことだった。そんな時、あー間違えちゃったね~あはは!お父さん、違うよ~ドジだね~(笑)みたいな展開には絶対にならなかった。

「だから言ったじゃねーか!」と父が声を荒げ、母は不機嫌になって黙るか、キレるかどっちかだった。子どもとしては、それが目の前で繰り広げられても、まあ大したことはないよって気にも留めてないというふりをしていたと思う。車の中の空気がそれ以上深刻にならないよう、けんかに新たな火種を提供しないよう、私は関与しませんよ、という呈で、おし黙って車の外を見ていた。

そう。この結果が思ったようにならない場合、理不尽に責められるってのが、私が幼少期から「結果を出さなくちゃならない」時に感じる感情の源だった。結果というものは、自分じゃなくて他者が設定するもの。そしてそれを設定した他者は、設定した通りの結果にならないと、ものすごく怒ったり、怒鳴ったり、不機嫌になるって決まっていた。

それだけではない。なじられたかわいそうな母。不機嫌になって空気を凍り付かせる母をそこから救出しなければならない、という仕事もまた私が負うものだった。少し大きくなると、母の代わりに父に「うるさい!」と怒鳴り返したり、「いい加減にしろ!」と言い返して役目を果たした。

そう、私は「結果」から自分が連想するものすべてに、父と母の両方の面倒をみなければならない、という設定をいつの間にかしてしまっていたようだった。

「結果」というものは、他者の思い通りでなければならない。父をがっかりさせてはいけないし(母を怒鳴るから)、母を救わなければならない(母が不機嫌になって雰囲気がめちゃくちゃになるから)。これが私が結果とか目標とか、とにかく何かを目指すって時に身体に出現する、あの何とも気が重い感じと直結していたのだった。

そしていつ何時も「結果」をいつも求めてやまない父にも、ほとほと嫌気が指していた。ドライブの行き先だけじゃなくて、子どもの成績や素行まで、なんでもかんでも「結果、結果」と求めてくる父に、自分でやればいいじゃん!って何度言ったことか。それでいて、彼らが一応満足する「結果」を出してあげるってことは辞められないのだった。

そう。これじゃあね。そりゃ「結果」ってものが伴う、と自分が思っているものをやるのが重くて重くてたまらなくなるだろうよ、ってことに、とうとう気が付いたのだ。私にとって「結果」ってものがね。自分じゃなくて他人の世話をすることだってことになってたし、「結果」ってものは出したら、だいたい他人から文句言われるもんだっていう設定になっていたのだったからだ。

そりゃ、困りますよねー!確かにこれは気が重い。無理もない。

ってことで、それを気が付いた時から設定を自分軸に何度も修正をして、今に至るわけである。今でもまあ、結果を出すことに苦手意識は免れないのだけれど、若い頃よりはだいぶましにはなったように思っている。たまには癖が発動しちゃうんだけれど、そんな時は「結果に責任負う必要ないよ」と自分に声をかけてあげることにしている。

なのでね。何かこう、気が重ーく感じることがあるっていう言葉とかね、態度。そんなときはちょっと自分のルーツから洗ってみると、なんで自分がそんな風に思っちゃってるのかってことがね、わかるってことがあるんですよね。

それで人生バラ色になるわけじゃないけど、設定し直すってことは、ひとつひとつ自分がラクに生きるためのよいトレーニングなんですよね。自分にもいいし、まあ、親のあれこれを恨まなくするためにも、設定し直しってのは必要なものだなって思う次第である。

 

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明恵上人が好き。(その2)

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そう、島にお手紙を書いちゃう明恵上人。ほんとうに、なんというかもう、色々ぶっ飛んでいるお方なのである。

それはもちろん、ブッダへの憧憬と仏道成就への強い思いにも反映される。

捨身飼虎(しゃしんしこ)。このイズムを夢の中でも、現実世界でも明恵上人は実践しようとしてしまうのだ。飢えたトラに自分自身を与える、というブッダ(の過去生)に倣うように、自分を何度か傷つけようとしたり、自分の身体を与えようとしたりする。そしてその最たるものが、自分自身の耳を切り落とす、という行為である。

ja.wikipedia.org

明恵上人がお若い頃、修行のために座り続けた際に常に前にしたのがこの「仏眼仏母」の像だ。wikiの画像を見るとちょっと暗い感じだけど、なんのなんの。昨年、大阪で実物を見る機会があったのだが、この仏絵と対峙した時に私は驚いた。美術館のガラスを通してなお、この御仏の像が真っ白に発光しているように見えたからだ。後から図録を見ても全体のトーンは茶色の筈なんだけれど、今でも自分のこころの中の印象は光のように真っ白である。お母様を思慕した明恵上人が惹かれたこころを、ちょっとだけ分かったように思った。その白い光みたいなものに照らされて、包まれるような思いがする仏様の像だったから。

そんなわけで予想していたよりずっと大きく感じたこの仏絵を前にして、明恵上人が若い頃、耳を切り落としたことを思った。今の私たちの常識とされていることで考えると、そういう「自己犠牲」っぽい行為は誰も救わないよ、ということかもしれない。だって死んじゃったり、自分の身体が損なわれちゃったら、人を救うどころか何もできなくなるじゃないですかね。

でも明恵上人の行為は、そういった「常識」みたいなものからかけ離れている世界観の中で為されたものだ。それがどんな世界観なのか、正直私にはわからない。しかしそのことが、これも私にはわからないような境地にリーチする、ひとつのきっかけにもなったのである。

河合先生がそれを心理的、宗教的な文脈で解説されているのだけれど、それもおおおお、と納得の分析なのだけれど、私は何よりこの圧倒的なやっちゃえ〇〇、みたいな明恵のエネルギーにとにかく憧れる。

だからって耳を切り落とすとか、そんなことをしたいとか、ぶっ飛びたい、とかそういうことではない。そうではないのだけれど、何かにのめりこむように一心に自分のこころをひとつの対象にぶつける、というのはなかなか出来そうで出来ないことだ。

信じることのすさまじさや、信じることで起こるミラクルをすごいなあ、憧れるなあ、と思いつつ、でも、その代償を思ったり、現実的な価値観で考える時、私は素直に「私もそうしたい!そうしよう!」とは思えない。だからこそ私は凡夫でここにいられるわけだけど、でも、異世界に瞬間ワープしちゃって、この世界の観方ががらっと変わる、みたいなことって、自分が出来ないからこそちょっといいなあ、、、ってずっと思っている。

私が小さい頃から持っている、ちょっと不思議に憧れるみたいなところを、体現して下さっているの方っていろいろいらっしゃるのだけれど、仏教界ではこの明恵上人が私の一押しなのだ。何しろ、ものすごくピュアで、でもきっとそれだけじゃなくて、同時にピュアの対極のものも持っていて、両方抱えて平気でいるっていうそういうお方のように思えるから。それは、私がそうありたいな~と思う究極の理想みたいなものなのかもしれないなって思う。

そんな明恵上人のことばのなかで有名なものに「あるべきようは」というものがある。これについては様々な解釈があって、たくさんの解釈がされている。私にとっても、このことばの真の意味とは?と考えると、いつも果てしない思いのなかに放り出されるように感じる。今なおこうだよね!ってことってわかってない。

わからないながら端的に言ってしまうと、月は月のように、政治家は政治家のように、母は母のように、それぞれ「あるべき」姿を「追及する」という態度がたいせつですよ、ということらしい。

ちょっと前に「ありの~ままの~」っていうのが流行りましたよね。私はちょっとそれ、どうなのかなあ、、、?と思ったことがあって。っていうのも、この「ありのまま」って、何を以って「ありのまま」って言ってるのか私にはよくわからなかったからだ。

確かに、今まで何かを自分の中に押し込めるように生きてきた人にとって、その枷が外れ、自分の中にsometingを発見するっていうカタルシスは素晴らしいものだと思う。

でも、それが「ありのまま」なのか?というと、うーん、どうなんだろうか?それってただその抑圧してきたものを理解したってことで、それ後の自分が「ありのまま」っていうことでもなかろうよって、どうしても思ってしまう。

特に若い頃には何かの理想像を求めて、それを「自分らしく生きる」みたいなことばで表現する。でもちょっとそこで考えてみたいのは、その「自分らしい」自分って何だろうね?ってことだ。

その「自分らしい」を目指しちゃう、その行為こそが、自分の自我を満足させる夢のような自分、というパラドックスに陥りやすい罠なんじゃないかなーって。だから、ありのままじゃなきゃだめなんだ!ってさまよっちゃうのも、ちょっと違うし、だからって何もかもを自分らしい=自分ファーストの視点だけで考えるってのもなんかちょっと違う。いや、自分を満たすことはもちろんたいせつなことなんだけど、やり方を間違えるとただの放埓にしかならないかもよって意味で、だけど。

そんな中で、この明恵上人の「あるべき姿ってなんでしょうね、、、」とこの問いかけってものすごくいいなって思ったのだ。あるべき姿なんてものは、時と場合、そして瞬間瞬間で常にうつろっているものだと思う。そして何より大事なのは、「なんでしょうね、、、」って自分が考えるってことだって、この歳になるとほんとうにそう思う。

そう、自分がどうあるべきなのか、あろうとするのか、なんて疑問ってのは果てがない。昨日の判断はもしかして、今日は違うのかもしれない。だからですね。歳をとればとるほど、何かを言い切るってことがどんなに難しいことかって、身を以って知るんですよね。

それにしても、常に何かを問い続けるってのも、これは達人/変態じゃないと難しいのかもしれなくて、だから私たちのまわりには、お作法、とか、お約束、とか一定のルールがある。もちろん明恵上人ご自身も、ものっすごい細かいルールを弟子に示したりしていた。

そのお作法、とか、ルールってね。一方、なんでそのルールがあるのか、なんでそのルールを守るのかってことを考えるためにあるのかもしれない。そして、それを考える時には、自分視点で考えることってやっぱり大事だよね、って思う。

特にこんな世の中では、とかく他人の決めたルールにいいとかわるいとか、どうなの!?ってなりがちだ。その前に、自分ルールを自分で決めて、日々検証していくってことが、私が正気を保つ上でのヒントになるんじゃないかなって思っている。

そういうの、私な好きでも得意でもなかったけどね。どうやら人生ってそういうコツコツ的な感じのもので構成されているみたいなんですよね。。。

だからこそ私の中では今も尚、明恵上人がアツいのかもしれない。好きじゃないと、そうですよね!って素直に言えないですからね。ってなわけで、私は明恵上人が大好きなのである。

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明恵上人が好き。(その1)

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何年か前の夏のはじめに、京都の高山寺に行った。目的は「明恵上人」。

私が「明恵上人」という人物を知ったのはかれこれ17~8年前。河合先生のこの本を読んだことがきっかけだった。

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵上人、という方は平安末期の1173年生まれ。奇しくもあの浄土真宗の祖である親鸞聖人と同じ年のお生まれである。

一般的には親鸞聖人の方がメジャーでしょう。日本史を学ばれた方なら、鎌倉仏教のところで出てきた親鸞の名前をご存知の方も多いかもしれない。同時期の僧侶であったにも関わらず、残念ながら明恵上人については一般的にはあまり知られていない。

その理由のひとつに、明恵上人というお坊さんは、特定の宗派に属しきれないお方だった、ということが挙げられるんじゃないかと思う。例えば曹洞宗、とか、臨済宗、とかですね。仏教には宗派ってものがある。それぞれに悟り、とか、極楽、と呼ばれるところの「境地」に辿り着くための道は、宗派ごとに異なるのだ。ちゃんとその道を辿れるように宗派ってものがあるって言ってもいいのかもしれない。

で、明恵上人。なんでまた宗派に属しきれないお方だったかっていうと、ひとことで言えばユニークすぎる。ひとつのカテゴリーにはまりきれないお方。Extraordinaryって感じ。

何がそんなにユニークかっていうと、明恵上人って仏道を邁進する、というよりも、ブッダに、そしてこの世界の森羅万象のあらわれ、というものに恋しちゃった、仙人のようなお方なんじゃないかって私は勝手に思ってる。そのエピソードも結構ぶっ飛んでるものが多くて、私にとってはインスパイアの宝庫とも言うべき存在なのだ。

明恵上人の何がユニークかって、まず自分の見た夢を詳細に、そして長期にわたって記録していたという点。19歳の頃から夢を書き始めたと言われているけれど、それから60でお亡くなりになるまで、夢の記録と時にその解釈を書き残し続けた。

なんで夢を書こうって思いついたのかな?と不思議に思っていたのだけれど、河合先生によると、当時の仏教界では夢というものが大切に扱われていたとのこと。見た夢から何かを受け取るってことと、その夢を見る事自体が修行のひとつだってことだったらしい。確かに夢で神さまに会った云々、っていう宗教的な体験したって話もよくありますよね。

だから明恵上人が夢を記録しようって思い立ったってことはそう、不思議じゃないかもしれない。しかし心理学も何もなかった時代、夢で見たことを現実を使って完結、成就させようとした明恵は、仏教人としても、その生き方にしても異色中の異色の存在と言えるだろう。明恵上人にとって、人生の主題、そして仏門を極めるということとは、そのまま「夢」を生きるってことだったのだ。まさに河合先生の本のタイトル通り「夢を生きる」僧侶である。

しかし「夢を生きる」ということはそう簡単なことじゃない。明恵上人のように、夢と現実の皮膜が薄く、常に夢の世界と現実世界を行ったり来たりすることは並大抵ではないのだ。と言うのも、夢にはそれだけの底知れないパワーがあって、人はその夢のパワーの恩恵に預かることが出来る反面、下手をすると夢に飲み込まれて溺れてしまうという恐ろしい面も持っているからである。

あのユング大先生も、私たちが今、恩恵に預かっている、膨大な成果を得る以前、無意識の奥底までふかーくダイブする必要に迫られた。そこから生還されたからこそ、ユング心理学が存在しているけれど、無意識にダイブするということは、深海に潜るのといっしょで、無意識の奥底まで潜るのは自分を危機にさらす行為にもなり得る。潜った後は水上に上がって来なければ死んでしまうように、また意識界にちゃんと戻ってくるってことがどれだけ大切で、且つたいへんな精神力を必要としたことかと思うと、ユング同様、明恵上人とはまことに稀有な方だと思う。

さてそんな明恵上人の夢には、いくつかのテーマがある。そのうち最もエキセントリックで私が大好きだ~!と思うのが、ブッダ、仏を思うそのこころの強さである。帰依、というよりはもう、恋?と見まごうかのような強烈なパワーを持つその思いたるや!私はこの明恵上人が、もう、やったらめったらにない純粋さで、仏を求めるこころの熱さにいつもやられる。喚起されるところが半端ない。

その思いは明恵がほんの小さい子どもの頃から持っていたものらしい。当時4歳のかわいいさかりの明恵に、明恵の父がそんなにお顔が綺麗ならお上に仕えさせようか、なんてからかったのだ。それを聞いた明恵。「自分は僧になるのだ!」と火箸でそのかわいいお顔を自ら傷つけようとしたというのだから驚きである。たったの4つで、ですよ?後付けエピソードなのかもしれないけれど、万が一そうであっても、そんなエピソードがつくくらいの仏の道をいくのだ、という強さと純粋さをお持ちの人物だったということだ。

そしてそれは仏門を目指す、というよりも、とにかくブッダその人への思慕なのである。境地を得たい、とか恐らくそういうことじゃないのだ。とにかくブッダそのものへの憧れの思いがやまないのである。憧れすぎて、隣のお寺の仏像宛に手紙を書いたくらいなのだ。そしてその最たる思いが「ブッダの国天竺に行きたい!」という思いである。もう、なんだろうか、憧れのスターの聖地に行きたい、というファンの熱い気持ちに通じるものがあるじゃないか。

結局その天竺(インド)行きの夢は、明恵自身が見た春日権現のご宣託の夢や、おみくじによって諦めることとなるのだけれど、でもね。あの時代、日本に伝わったお経を読んで、そこまでブッダのことをひとりの人として立ち上げたイマジネーションの豊かさってすごいと思いませんかね?私たちがこの時代になってVRの技術を手に入れたというのに、はるか昔、明恵上人の中にはもう、VR的世界が広がっていたのだ。それってものすごくビビッドで、リアルな世界だったんだと思う。でなければ、遣唐使だってたいへんな時代に、天竺に行きたい!なんて想像もできないじゃないかと思う次第である。

明恵上人のこのイマジネーションって、これも私が大好きで参っちゃうところなんだけれど、自分のこころを向ける相手がもう、節操ないくらい自由だったってところだ。先ほども書いたけれど、仏像にお手紙を書くなんてのは序の口。これもぶっ飛んでるけれど、なんと「島」宛にもお手紙を書いて、お弟子さんに届けてね、なんてお願いしちゃってるのである。

島にお手紙。。。なんというイマジネーション!これが、明恵の無意識の底に潜る力の凄さを物語っているのだけれど、河合先生曰く、それだけじゃない、と。この島にお手紙を書いて、島を人と同じように見立てることを通じて、仏教の教理をお弟子さんに示しているのだ、というのである。これが現実世界と無意識を軽々と行き来している方の態度と思うと、私は興奮してもう震えちゃうのだ。

(つづく)

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境界線は神出鬼没な方がいいというお話。

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「人間関係」について、何かしらうまくいかない感じがする時。もしかしてそれは自分と人との間にあるらしい「境界線」が硬直しているからかもしれません。

これも最近は色々なところで言われていますから、人と人との間の境界線、という言葉をご存知な方は多いんじゃないでしょうか。でもこの境界線。普段の生活の中であまり意識している方は少ないかもしれません。概念としては知っているけど、何それ?それってどんな線??って感じ。

いきなりですが、子どもの頃、何かキタナイものに触った子に向かって「えんがちょ!」とか「透明バリアはーった!」って言ったとか言われたことってありますかね?

こっちからは私の陣地だから入って来ないで~!っていうおまじない、宣言。あれが「境界線」ってものをイメージしやすいものかもしれません。その線からこっちは私のもの、だから入ってくるにはちゃんと私の許可が要りますよ、っていう架空の線ですね。

この「境界線」がちゃんと機能している時は、相手と私がちゃんとわけられている。だから私は私で、相手は相手ってのが安定して成立してるんですね。

ところがこの「境界線」ってやつは当たり前だけど目には見えない。そこにあるような、ないような。誰から見てもわからないし、扱いには誠にやっかいな代物?です。でもどこかには、ひかれているらしい。

例えばあなたの友達がとてもつらい経験をされた場合。その話をあなたが聞いている時、きっとあなたのこころはそのつらい話に反応していると思うんですよね。ああ、そんなつらいことがあったのか、、と、聞いているうちに、自分もどんどんつらい気持ちになってくる。なんならちょっとうるっときてしまったりする。

この時に「境界線」は、ぐぐっと自分寄りに迫ってきているのかもしれません。線のすぐそこまで相手の思いが流れている感じ。もしあなたが人の気持ちに敏感な方である場合、既に境界線を突破して、ご自分のこころの中に、相手の思いが流れ込んできている可能性もありますね。

で、そういう状態になると、時として話し手は「ああ、自分の気持ちが伝わっているのだなあ」と感じられる。そうすると、話をする側、聞く側、共に同じ景色を見るように感情を共有している、という美しい関係性がそこに立ち現れるというわけです。

ただこの境界線。話を聞き終わった後もまだ、自分寄りにぐっと引き寄せられたままの位置にあるとしたら。どんなことが起こると思われますかね?

例えば。話を聞いた後も、もう、その話し手のことがいちいち気になって仕方なくなるかもしれません。相手の一挙手一投足に自分の全神経が向かって開いている感じ。だからその話し手が全然違うことで話たり、笑ったり、悲しそうだったりすると、もう、それが自分事のように感じられてたまらなくなる。

そんな相手の気持ちを感じ続けているうちに

・(話し手が)笑っているのはきっとこういう理由があるからだよね、わかるわかる!

・(話し手が)泣いているのは、こんなに辛い目にあったからだよね、わかるわかる!

ってね。どんどん自分の想像力がふくらんできます。あまりにも自分のその想像力が真に迫ってる故に!「そうなんだよね!わかるわかる!」って錯覚してしまう。本当は、もしかしてあなたが感じている「わかるわかる」と、話し手の気持ちは違うのかもしれないのに。

錯覚することそれ自体に、何ら害はないと私は思います。誰だって同じ経験をしている人なんてひとりもいないわけですからね。むしろ想像力と錯覚を以って「ああ、こんなのって辛いよね」と思えることって、人間にある素晴らしい能力なんじゃないかと思う。

が!しかし!ここで問題になるのは、これを使って自分や相手をコントロールの対象にしていってしまう、という点に尽きるんじゃないかって思うんですよね。

コントロール?なんで?って思われるかもしれませんが。が、このコントロールって色んな形があります。例えば「私はあなたがとってもかわいそうな目にあったってわかってあげたよね。だから私に何かを返してほしいです!」っていう思うこととか。

いやいやいや、そんなわけないですー!私はただ共感して話を聞いただけですー!ってね、仰る方多数かと思います。そうなんですよね、この「何か返してよ」って意外と自分にはわかりづらい欲じゃないかな、と思います。そして仰る通り、全ての人がそう思っているわけではない。

ただあなたが、ひょっとしてこんな感情をその話し手にちょくちょく感じているとしたら:

・ひどい目にあったという話を別の友達にもしていて、それを見たら、ちょっとおもしろくないって思っちゃった。なーんだ、誰にでも話すんだね。

・あんなに親身になって話を聞いたのに、私のつらい話は聞いてくれないんだね!

・ひどい目にあったって言ってたけど、私が経験してきたことと比べたら全然だよね!ちょっと甘えすぎなんじゃないの?

これも程度の問題ですから、大なり小なりこんな感情を持つことはあると思います。でも、もし繰り返しこんな思いを話し手に感じているとしたら。それはもしかして、あなたの境界線の置き場所が、ちょっと自分に寄りすぎたままになっているかもしれません。そしてそのことこそが、相手をコントロールしたい、という欲になるわけです。

心理学には「投影」また「取り込み」という概念があります。

「投影」・・・自分の中にある感情等を認めずに、自分の中に押し殺したままにしている場合、その感情をそのまま相手に「投射/映して」相手がその感情を持っているってことにしてしまうこころの働き。例えば「大声で泣き叫ぶ」ことが大人げない、そんなこと決してしちゃいけないって自分に強く禁止している場合、「大声で泣き叫ぶ」他人を見ると、それをものすごく嫌だと感じたり、だめな人!って思うこと。

「取り込み」・・・「投影」とは逆に、相手の中にある感情等がまるで自分の事のように感じられ、それは相手ではなくて自分のものだ、としてしまうこころの働き。例えば憧れの人がいたとして、その人の言葉や態度、恰好まで似せて自分のものにしようとする行為、働きのこと。

先ほどの例で、境界線がどこかで置きっぱなしのままになっているとですね。このように自分ではない、相手の何かが自分の中に乗り移ったようになったり、相手を自分のもののように思ったり、という現象が現れるわけです。これが「コントロール」の現象ですね。

これの何がだめって、苦しすぎること!だって相手はコントロール出来ないし、乗っ取られたら自分がなくなってしまう。どちらにしてもとてもつらい状態になります。つらくなるから、ますます相手から多くを望むようになったり、或いは自分を与えすぎたりしてしまう。で、それが思うように自分に還って来ないから、またつらさが増す、という悪循環。

ってことで「境界線」ってのはですね、このつらいコントロール現象を起こさせないように、とっても大事な働きをしているんですよね。これがあるからこそ自分と相手の区別がついて、自分がつらくならないようにしてくれている。

じゃあ、その「境界線」ってどこにひいたらいいの?真ん中?でもどこが真ん中なの??って思いますよね。だいたい見えないものをどこにひけと?というご質問については、私は「神出鬼没で参りましょう!」とご提案したい。今そこにあったと思ったら、あれ?もうあっちにいっちゃった、ってな感じ。

例えば、さっきつらいよね、って涙を流しながら話を聞いていたけど、今はもう、ランチのメニューのことしか頭にないって感じ。それって節操なくないですか!?って思われるかもしれませんが、きっと健康な境界線ってそういう感じくらいがいいんじゃないかなって思います。ポイントはつらくない、ってこと。

だから、さっき泣いたカラスがもう笑った、くらいに、境界線をこっち側に引き寄せたり、あっち側にやったり、ということを手品師並みに出来るってのが、らくちんな人間関係にベストなんだと思います。

他人の感情に巻き込まれやすい方には「境界線」をあっちこっちに出没される技を身に着けるってのを、ぜひお勧めしたいです。

よかったら今日からちょっと試してみて下さいね。

 

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自分の思い込みにたまにはじっくり時間をかけてもいいかも。

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自分の特質?の中のひとつに、コツコツと積み上げるってことが苦手っていう成分がある。

同じこと、ルーティーンを続けるってことがまあ出来ない。繰り返し、というのが死ぬほどキライなんですよね、わたくし!

で、このブログをこうやって書いている理由のひとつに、この自分の特質みたいなものって本当にところどうなのさ?と自分で自分に迫っている、というか、まあそんな感じもあるんですよね。

というのもですよ。割とよく言いがちな「私って〇〇じゃないですか問題」。これね、自分に対して「自分って〇〇じゃないですか」って言い切ってしまうって、ただ自分に対してめんどくさがってるだけかも?って、そんな風に思ったからなんです。

自分をひとつのカテゴリーに入れて、簡単に解釈できるようにしている。ラーメンも麺を打ち、スープをいちから作るのはたいへん。お湯を入れて3分、って感じで自分のことを解釈していることの方がインスタント、簡単。

インスタントラーメンも好きですけどね。時間だけはある今は、ちょっとめんどくさいな!って思いながら、麺でも打つか、、、とばかりに、自分の「私ってコツコツが苦手な人じゃないですか?」問題に向き合っているという、そういうわけです。

で、麺を打ってるうちに、あーそうなのかもーって最近思ったことが三つあって、今日はそのお話。

まずひとつめはですね。やる気とかコツコツとかってものを自分の性格とかにするってことの不毛さ加減。

やる気・コツコツってね、まあ、こうやって書いてみると明白なんですけど、性格じゃないんですよね。ただの態度。やる気があるからやさしい、とか、やる気がないから怒りんぼ、とかね。ね?こうやって並べてみるとナンセンスじゃないですか?

だからやる気がでなーい!、コツコツできなーい!ってのは、ただの態度。私ってものの成分の所為でコツコツできないわけじゃないんですよね。ただしたいかしたくないか、いや、してるかしてないかの違い。

これももう、最近いろんなところでとてもよく言われてますけれど、やる気ってのは物事に取り掛かる前にはないんですよ!というパラドックスがね、どうやらあるらしいんですよね。そう、何かをやる前はやる気なんか存在してない。逆なんです、逆。やる気って、その何かに着手した時にだんだん大きくなっていくものだから、そりゃもう、やらないとやる気なんか出ない、というわけで、何かをやっていない時に「私やる気ないでーす」っていうのは、「私、いま呼吸してまーす」と同じくらい当たり前なことみたいです~ってことなんですよね。

で、ふたつめがコツコツ。こっちの解像度をもうちょっと上げると、コツコツってのもね。主観的な結果論なんですよね、今から過去を振り返ってああ、コツコツ出来てたなって認識できるもの。おまけにコツコツの定義ってのが、毎日、とか、一日何分、とかね。結構主観的っていうか、自分ルールの中で定義されてるものじゃないですかね?って話。例えば「一年に一回なにかをする」ってことがその人のコツコツ、だったらば、その人が何年か後に振り返ってみてああ、一年に一回何かが出来ていたなって思ったら、そりゃもうコツコツ出来てたっていう、極端に言えばそういうことかもしれないです。

だからコツコツ出来ないとかって、実は相当他人軸で自分を見てるなって思ったんですよ。それで、出来るーとか出来ないーとかってちょっと違うかな?ってね、思いました。

っていうのもほら、よく丁寧な生活♡みたいな特集記事で、毎日ヨガとかウォーキングやって、その後は朝はスムージー飲んでetcetcみたいな?ああいうイメージみたいなものがコツコツ、と一緒になっちゃってる。

そう、コツコツってイメージなんですよね。だからイメージ通りに出来ないと、ああ、やっぱり私、あんな風にステキ生活やステキ自分にはなれないんだーっていうね、なんでしょうね?超憧れのげいのーじんは自分とは違うのよ!っていう逆ギレ?みたいな感じになっちゃう。要は自分で勝手にイメージを作って、そのイメージ通りにならない私ってダメ出ししてるだけなんですよね。あらら~それって自作自演の匂いが。。

で最後、三つ目。これね、自分を大事にするっていうこととちょっと関係してくる。実は私、相当長いことこの「自分を大事にする」ってことの意味がよくわからない人でした。これ、ちょっと解像度が低すぎのフレーズだと思う(とフレーズのせいにしておく!)。

自分を大事にするってね、私のような人からすると、じゃあー自分を苦しめてるものをぜーんぶスッパリ切り捨てちゃって~自分の好きなこと?やりたいことだけ自分にさせてあげる♡ってことだったんです。

で、まあその解釈も間違っちゃいなかった。確かに自分の人生のある時期にはこの解釈が役に立った時があります。でもねー、それだけじゃなかったみたい。

突然話がまたすっ飛びますけど(ご容赦くださいませ~)、私、お伝えしている通り、もんのすごい飽きっぽいんですよね。わ!って盛り上がるけど、すぐ冷める。そんな特質成分があるらしい。で、だからね、コツコツ出来ないのも仕方ない!ってそう解釈してたんですよ。さっきの二つ目のまさにコツコツ出来ないイメージを、飽きっぽいっていうイメージにくっつけちゃってたっていうわけ。

でね!ここで「自分を大事にする」ってことが登場します。そう、飽きっぽい私を大事にするってどういう風に?って考えてみる。

そうするとね、飽きっぽいって実は、わ!って盛り上がってすぐ冷める、まずそういう成分で出来ているんだねってわかる。それはそれで認めてあげる。でもそれって飽きっぽいってラベルを貼ることじゃなくて、わ!って盛り上がってすぐ冷める人なんですね、っていうことを認識するってことですよ~って自分に教えてあげる。

それがわかったところで、次はHOW TO おもてなしです。わ!って盛り上がってすぐ冷めるお方(自分)をね、どうやっておもてなしするかって考えるってことが、「自分を大事にする」ってことだってね。(よかった、ようやく話がドッキングした)ようやく気が付いたんですよね。

そう!子どもの相手と一緒ですよ。わ!ってなってる自分に「ほら、これ好きでしょ?」ってその興味のあるものをいっぱい並べてあげたり、こんなのはどう?って聞いてあげたり。で、すぐ冷める自分には、あれれ?あなたが夢中になってたのってこんな素敵なものだったよ~ってもう一度見せてあげたり、あーそれはもう要らないんだね~ってお片付けしてあげたり。

こうやってね、そのわ!って盛り上がってすぐ冷めるお方(自分)にね、もっと色々お相手をしてあげるってことが、「自分を大事にする」ってことなのかーってですね。まあ、今さらにして気が付いたってわけです、ええ。ラーメンの麺打ってよかった。

ってことでですね。自分って〇〇だから~って、特にネガティブに捉えている何かがあれば、麺打ってみるのもいいですよ~というお話でした。めんどくさいからインスタントラーメンでいいや~って時もあってもいい。けれど、たまにいちから麺を打つように、自分の思い込みに向き合ってみるのも悪くないんじゃないかなって思います。

お時間あったらお試し下さい~☆

 

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Warumiの勘違いーいい人にならなくっちゃ編

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本日はお久しぶりの「勘違いシリーズ」第二弾です。

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で、このお話のルーツは小学校の時にかるーいいじめの対象になった時に遡りたいのですけども。

いじめって言っても、今問題になってるような凄惨なやつじゃなくて、せいぜいね。クラスの女子たちに口をきいてもらえなくなる、とか、遠足のグループ作る時に最後まで仲間に呼んでもらえない、とかそんな感じ。

(余談ですけど、あのシステム!ほんとにやめたらいいと思う。ご経験あります?何個かグループを作る時に、先にリーダーみたいなのを何人か決めて、そのリーダーがひとりづつ自分の仲間を選んでいくやつ。あれだあれ。そりゃ既に「お仲間」がいる子どもたちには良いシステムだと思うけどさ!こちとらお仲間いないの!最後まで選ばれないってのが露骨に可視化されるんだぜ!って申し上げたい。今でもそんなのやってるいるんでしょうか?)

もとい。まあそれでもね、小学生のこころはかなり揺れたり、傷付いちゃったりしたわけですよ。誰かに助けてほしかったな~。残念ながら親は頼りにならなかった。彼らはね、子どもがスーパーヒロイン(お勉強が出来て、クラスの中心にいて、先生に好かれてる)だと思い込んでましたからね。。(嗚呼!)そこに「私、いまいじめられててつらい」なんてつまりは言えなかったわけ。てか、彼らは毎日壮絶に喧嘩してて、そんな話が出来る雰囲気なんてなかったんですよね~。まあ、珍しくもないお話です。

で、本題の今回の「勘違い」なんですけどね。この時に(多分8~9歳くらいの時かな?)「私は人に好かれるような素晴らしくて清く正しい自分に、自分を改造しなくちゃいけないんだ!」って思っちゃったこと。頼れる人がいなくって、自分で答えを出した結果がこれだった~

これもねー!前回の勘違いのお話の時にも書いた通り「清く正しい」ってね。はき違えると自殺行為だよ、って子どもの時にね~教えてほしかったよね!って怒りたくもなるってもんですよ、ええ!

というのも、その時の私の中にはこんなロジックがまかり通ってました。

みんなと仲良くしてもらえないダメな自分がいて↓

だからそのダメな自分を改造して↓

みんなと仲良くするどころか、あわよくばみんなに好かれて持ち上げられるような子になりたい!↓

だから「みんなに好かれる、清く正しいいい人」になる!

。。。。もう、子どもの頃の自分を目の前に正座させて「ちーがーうーだーろー!そっちじゃない!」と盛大に突っ込みを入れてあげたい。今そんな勘違いをしようとしている子どもがいたら、私は黙っていられないと思います。

いや私の場合確かにね。そういう態度や言い方じゃないほうがいいよってことは、山ほどあったと思うんです。私ってほら「上から目線」教育のエリートでしたからね。ちょっと想像してみて下さいな、そんな奴の態度って鼻につくじゃないですか?

だからね~今だったら私、その頃の私に言ってあげられる~「それって自分の気持ちの表現方法が違っちゃってるだけだよー!」ってね。

で、更に大切なのは「あなたがやろうとしている方向の『改善』って真逆で報われない努力だからね!」っこと。これは大声で言ってあげたい。

そうなんです。その時私が思った&目指したところの「いい人」ってねー!端的に言うと嘘つきになるってことだったんですよ。心のなかで邪悪なことを思っても、人を見下しても、そんなの思ってませんよ、見下してませんよって「良いところしか見えないようにする」っていう方向。

いやいや、ほんとのいい人になればいいじゃないですか?って思われるかもしれませんけどね~。これはまたふかーい話になるので、別の機会にゆっくり考えてみたいと思います。今回はまあ、乱暴に言ってしまうと、大抵の場合「いい人」ってのは他人から見た、いい人ってわけですよ。その人がどうであろうと、その人が「いい人」に見えたってだけの話。

例えばあなたが誰かに、この人いい人だな~って思う時、その人は「そうです、私がいい人なんです!」なんて言わないですよね~いい人ってのは本来そういうもんです。そしてそれは人が勝手に思うもんなんですよね。自分が目指すべき境地ではない。

ってことでね。小学生の私に話を戻すと、その時私は自分を矯正することに結構頑張ったと思います。矯正=自分が良いと思わないものを誉め、仲良くなりたいがためにおべんちゃらを言い、仲良くもなりたくない子にも自分からすり寄っていく。書いててあちゃー!って感じだけど、これはこれなりにたいへんな努力だったと思います。

まあ、結果ね、生活は見た感じ穏便にはなった。私を糾弾していた女の子が、その数か月後には逆にみんなのいじめの対象になる事件もあったりして。うーん、、、世の中って無常だわ~(平安貴族風に)って思う余裕も持てるようになった。

でもね~!見た感じ穏便だったけれど、自分が思ったような「いい人&人から好かれる人」になれていない自覚があった。それに自分でもとても不満でした。こんなに頑張って「上から目線」の自分を抑え込んでいるのに、費用対効果が割に合ってないじゃん!ってね。真剣に思ってました。だからそれ、真逆の努力してる証拠だよ!ってことだったんですけどね。

子どもの頃の自分には難しかったと思うのだけれど、変えるべきは自己表現の態度でした。自分の思ってることを相手にどう伝えたらいいのかってことだけだったんですよね。大人になってから理解したんだけど、「上から目線」なんてその人の本質じゃなくて、臆病者の態度でしかないよ、態度の問題だよってね。本当はそこをわかる必要があった。

でも私は「自分が外からどう見えるか」にばかりフォーカスして、自分の思いとか感覚ってものをぎゅーーっと押し込めてしまった。とにかく人から見てキレイでウツクシイこころの持ち主ですよってアピールすることだけに血道をあげていたわけです。

そりゃ叶わないよね~!でもね。それが真逆の努力だよってことをわかりはじめるまでに、それからずいぶんと長い年月がかかったように思います。成長するにしたがって、その「いい人に見える」ってのが、巧妙に変換、アップデートされたってことも理由かも。例えば仕事で有能だって思われること、だったり、人からいつも頼られるってことだったり、素敵な趣味をお持ちだってことだったり。もう、弊害でしかない!

で、本来私が持っているエキセントリックな魅力をねー、どんどん圧縮しちゃったんですよね。なんて言っても、エキセントリックだって黙っちゃいなくてね。狭いところに押し込められるのを嫌って、時々ぬっと姿を見せてきました。それって人をぎょっとさせちゃうみたいなんですよね!ほら、普段は「わたし、常識的なとってもいい人ですよ♡」体でいますからね、ち、ちがったの!?って、化け物の正体をみた、みたいに他人はショックを受けることがある。私は人から「わかりにくい人」って言われることも少なくなかったんですけどね。これがその理由のひとつだったんだな~って今では思います。

ってことでですね。私がここで申し上げたいのは、「いい人・出来る人・親切な人」だなんてもんは間違っても目指すもんじゃありませんよ、とお話。何十年の人体実験込みのご提案!

それを目指した時点で、本当の自分の魅力を押し込めちゃうし、だいたいそれを目指して態度ってバレちゃうんですよ。人から見たらバレバレ。あーあいつ、ウソつきだぜ!って見えちゃう。本人は努力しているのに、ウソつき呼ばわりされて、おまけに自分の本当に持っているものを殺しちゃう。費用対効果悪すぎ。

いいことなんてひとつもありませんからね~!

さっさと辞めて、いっしょに逆向きの努力をしましょうね~☆

 

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「お察し力」の副作用

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普段の生活の中で割とよく自分が感じる関係性には、一定の傾向があるように思います。

言葉はちょっと過激ですが、所謂「加害者」と「被害者」との関係性というものが、日常生活の中で自分のこころの中に割と頻繁に登場するというパターンがあるように思って、今日はそのお話。

加害者・被害者、なんて聞くとまるでそれは事件のようだけれど、本当の事件にまつわる話じゃなくて、自分のこころのスタンス/状態を表していると解釈頂ければ幸いです。

わかりやすく言うと、パワハラ上司が「加害者」、そのパワハラ上司にいじめられているA君が「被害者」の関係性のような感じ。パワハラ上司のせいで、A君がひどい目に遭わされている、ってこと。

で、こうやって人対人の中でこの関係性を見るとわかりやすいんだけれども、この関係性って、実は、結構繰り返されて強化されちゃうパターンでもあるんじゃなんじゃないかな、と思う。

例えば。あなたが道を歩いている時に前から、ものっすごい態度の悪い風の人が歩いてきた時。いかにも横柄で、絶対自分から道を譲らないってか、他人をどけても自分はまっすぐ歩くタイプのように見える。事実、こちらに近付いて来たけど、そのまままっすぐ突っ込で来そう。

そんな人に出くわした時の、自分の中に出てくる感情にちょっとフォーカス頂きたい。

あなたはその時、どんな感じ、感情をお持ちになられるでしょうか?

そんな時、あんまり関わりたくないから道を空けました、というように反応される方が多いのでは?と思う。いや、タイマン張るよ!って方もいらっしゃるかもしれないけれど、まあ、大抵の場合、めんどくさいことにならないように関わらないようにしようと判断される方が多いんじゃないかと思います。

で、道を空けた後のご自身ってどんな感じ、反応になりますか?へんな人!って思って道を譲った後、そんなことすぐ忘れちゃう方。或いは、へんな人!って思って道を譲った後、なんかムカついてきた、なんだあいつ??と腹が立ってくる方。まあ、時と場合によるよね、という方もいらっしゃるかもしれないけれど、こういった時の自分の反応のパターンに、ちょっと注視してみて頂きたい。

もし後者のように、自分が何か行為をした後に腹が立ってくることが多いっていう方。もしかして、ですけど、普段から「お察し力」高めの気遣いの人じゃないですかね?相手を見て、自分の発言とかポジションとかそういうのを調整する。で、相手に対して自分が合わせてあげることが当たり前になっていませんか?

この「お察し」能力。これって、これまで日本人の美徳というか、一世代、二世代前の世代においてはこれが出来ないとむしろダメ!っていう価値観ががっちり、きっちりあったように思う。とにかく察しながら一歩先回りの行動が出来ないとダメ!みたいなね。

この「お察し」出来る力。それって結構レベルが高い。それってまわりを色々見て、おまけに自分でこうしよう、ああしようと行動出来るからこそ発動できる能力なんだけれど、ひとつだけ問題があって、それがこの「お察し」力を発動した後に湧いてくる自分の感情なのである。

「お察し」した後に、腹がたったり、なんで私だけがいつも!?というような感情が現れがちという方。それってね、冒頭にお伝えした、自分を常に「被害者」のポジションに置いてしまうパターンをお持ちであるかもしれないです。

でね。被害者ポジションになること自体には、私個人的にはさほど問題はない、と思うんですよね。それって物語の役割みたいなものだから、この劇では被害者の役をやってますよ、で済んじゃう話だと思うんです。あ!念のため、これってもちろん本当の事件とか事故とは別のお話です!自分のこころの中の話ですので悪しからず~。

ただ、この被害者ポジションなんですけどね。ひとつだけ自分をそのポジションに置いてしまう副作用、というか弊害がある。それが「無力感」ってやつです。加害者は被害者に被害を与える「力」を持っている。だからその力で被害者をねじ伏せるというわけです。ってことは、被害者っていうのは、加害者に比べて弱い存在、と言ってもいいかもしれない。だから、この加害者・被害者の関係性がこころの中に現れた時点でね、人って、自分はこのことを解決する力がない、なんてね、どうやら自己暗示をかけてしまうみたいなんですよね。

だから、自分を被害者ポジションに置きがちなパターンをお持ちである場合、「自分には何の力もない」と、無意識のなかでつよーく思っておられる方が多いかもしれない。

でもそうやって顕在意識の中で思うのっていやじゃないですか?はっきり自分の中に「私はこの人/状況に何もできない」なんて思うのって相当いやだし、つらい感じ。救いがない。自分の人生を自分で生きてない感じさえしちゃう。

だからこそ、ムカつくんですよ。腹がたつんですよね。なんで私は無力なのさ?と。実はそれって相手じゃなくて、その無力な自分に向けられた感情でもあるんですよね。でもそのムカつく感情を、ただでさえ無力を感じている自分に対して向けたくないじゃないですか?武士の情け、というものがあるわけですよ。だからそのムカついた感情を、相手とか状況に向ける。かくしてなんだあいつ!?ムカつく!という感情が相手に向かって湧き出てくるわけです。

でね、そうするとまた自分が被害者ポジションになる→無力感が訪れる→感じたくないからもっと相手とか状況に怒る/責める、という無限ループがね、やってくるんですよ。もう無間地獄的。常につらい。自分を生きられない。だからまた相手や状況を責めてしまう。

ですからね。もしあなたが「お察し力」がとても高くて、自他共にそうだけど、それにハッピーじゃない、まわりや人にムカつくことが多いよってことがあったら、それは副作用が出過ぎの状態ですよっていうサインかもしれないです。

そのまま「お察し」し続けてしまうとね、どんどん自分が何もできない、自分では何も決められない、自分は何もない、という思いでイッパイになっちゃう。

本当はね、それって自分が無力な人間だからじゃないんですよ。逆なんです、逆!「気遣い」し過ぎているから自分が無力に感じちゃう。

まあ、急に「お察し」をやめるっていうのは難しい。これってある意味オートマティックに出てきてしまう態度だからです。やめろと言われても、ね。なかなか最初は難しいかも。だからまず、この気遣いと無力感のからくりがあるよーってことを知って頂けると良いなと思いました。で、「お察し」した後に相手にムカついたら「あ!わたし、今、自分を無力の人にしようとしてる!」ってね、自分に向かって言ってみて頂きたい。こういう地味~な繰り返しが結構ボディブローのように効いてくると思います。

即効性はないかもしれませんけれどね。一定の時間がたつとあれ?最近ちょっと気分が楽かも?なんてね、思われるかもしれません。魔法みたいにね。お察し力が高くて、お察しした後に相手にムカついちゃう傾向がある方、ぜひお試しください~。

 

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