Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

逃げる時は、大きく逃げるに限るのだ。

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海つながりで、またひとつ、記憶が蘇ってきたので今日も思い出話にお付き合いください。

夏の狂乱のCambridge英検も終わり、秋からOxfordのビジネス専門学校に行くことにしていた私は、その間の夏休みを激しく満喫することにした。

前に書いた仲良くなったスイス人たちを訪ねてスイスに行き、それからフランスを南下してプロヴァンスコートダジュール♡(ヴァカンスっぽいでしょ!そういうをしてみたかった!)で、好きなだけ絵画を見て、アーティストの足跡を訪ねるのだ!

学校近くの旅行会社で格安のエアチケットを手配してもらって(あの頃はまだインターネット予約、とかなかった~便利な時代になりました)ほとんど何にも決めない旅に出た。試験も終わって、ものすごい解放感と共に旅立ったのである。

まずは仲良しになったクラスメイトを頼ってジュネーブローザンヌに向かった。ジュネーブローザンヌも派手さはないけれど、とにかくレマン湖沿いの風景がすばらしかった。湖沿いのこれらのまちをつなぐ電車の旅は、ほんとにほんとにすばらしい。

そして、イーストボーンで一緒に過ごした友人たちと、彼女たちの土地での再会。なんかちょっとした錯覚のような奇妙な感じもあり、ちょっと笑っちゃう感じもあって、端的に言って嬉しくてドキドキした。さあ、ヴァカンスとやらのはじまりなのだ☆

折しも季節は夏!レマン湖を望むなだらかなブドウ畑は、太陽の光に透けるような緑色で、遠くに臨む湖面といっしょにキラキラしていた。

輸出に足る量を作っていないそうなので、あまりスイスの外ではお目にかかることもないが、スイスワインはなかなかイケた!もっとも舞台の演出も整いすぎていた。レマン湖を見下ろしながらのフレッシュなスイスワイン!そしてチーズとサラミ。。。嗚呼、あの日に帰りたい。。

何でも夏の時期は、ぶどう農家が畑の中に自家製のワインを飲ませてくれるスタンド的なものをオープンするのだそうだ。ドライブの途中、彼女たちが行きつけのスタンドに寄ってくれた。そこでは時間がゆーっくり流れていった。遠くの虫の羽音がかすかに耳元で鳴っていて、、、白昼夢のように明るすぎる光が注がれた中でのワイン、というものをご想像頂きたい。とにかくサイコー。道理でヘップバーンもフレディさまも、この場所に安住の地を求めたわけである。納得。

この時のローザンヌも感慨深い思い出がある。仕事にいく友達を見送りがてらまちに出かけた私は、ガイドブック片手に何気に「アール・ブリュット美術館」を訪れた。

www.myswitzerland.com

ここでの出会いは衝撃だった。震えるくらい。ちょっと広めの家を美術館にしました、というくらいの空間に、凄まじいエネルギーを放つアート作品が所狭しと詰まっていた。ほとんど人もいなくて、しーんとしているのだけれど、その中に異形のものたちが息づいている。

この後とても興味を持つことになったヘンリー・ダーガー。ほの暗い美術館の一角に薄いパステル調の女の子たちが戦う絵があった。まるで遊びに行くかのような、ぽわん、としたお顔で大人と激しい戦闘を繰り広げるペニスを持つ少女たち。

www.artpedia.asia

神さまの声聞いてから、その後毎日お祈りのように神さまを描き続けたひと。宮殿のような巨大な家を飽きることなく描き続けたひと。一見もう、何がなんだかわからない縄の集積がざくっと階上から降りて来ていると思えば、何か怨念のように塗り付けらた色、色、色。

 

ショックだった。創造がそのまんま形をしている。描いてやる!っていうそういうのもない。ただなにか物凄くおっきなエネルギーみたいのに突き動かされて出てきちゃったもの。そしてそれを受け入れて、、いや、自分の一部としてただただそれを作り続けた人たち。それがとても大変な毎日であっても。

人の目、というものがことごとく排除された世界だった。運命とかそんな甘い感じとも違う。たぶん私にとってはそれがショックだったのだと思う。今思い返せば、だけど。人の目からの視点で自分にまつわるものを整え続け、自分を自分以上に見せることに血道を上げ続けたのに、それでもたいせつだった人に拒絶されたことで、その頃の私は大分参ってた。

これも後で思えばだけどね。とてもここには居られない!っていう思いがつのって、私は逃げたんだと思う。いきなりイギリスになんか行っちゃって。

私はわりといつも逃げるのが得意なのだけれど、それにしてもこの時の逃げ、は大胆だった。今もほんとに心から思う。参っちゃった時には大きく逃げるに限るよって。

何故って、逃げている途中でこんな風な出会いやことが、往々にして起こるのだ。そしてその「こと」は、その後何年もかけてそのインパクトと価値をアップデートし続けていく。そしてその「こと」も私もその度に、ほんのちょっとづつ変わっていく。気づかないくらい。でも気が付くとずいぶん遠くまで来ている。

後ろめたくて、もう戻って来られないかもっていう泣きたい感じ。それを引きずって逃げる。でもしょせん私たちはお釈迦様の手のひらの存在なのだ。逃げても尚、その「こと」との対峙は必ず起こってくる。だから安心して逃げたらいいのだ。

 

逃げるは恥だが役に立つ、って、ほんとにほんとなのである!

 

(ああ、結局海の話まで行きつけなかった。続きはまた明日)

あの頃、イーストボーンの海辺を歩いていた。

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このところ、「無意識」への愛に押されてちょっと「お役立ちたい」モードが優勢になってた!(あぶないあぶない。遊びをせむとや生まれけむ、でいくのである)。

ってことで、しばらくChill out Timeで人生の振り返り?思い出話などもちょいちょい、お送り致します。

今日はちょっと人生の巡り合わせ、というか、なんか長くそれなりに生きていると人生ってぐるぐる循環しているなあ、という思いがわいてきたのでそんなお話。

遡ること何十年。思い立ってイギリスに飛んで行っちゃったことがある。半年の間、ボーンマスイーストボーンという海岸沿いのまちの語学学校で、まずは英語のお勉強をはじめたのだ。

英語。

学生時代、これが私はもう、大の苦手でね。。。私の高校生時代を知る人がいたら、後年私が英語を使って仕事をすることになった、なんて聞いたら何かの冗談だろ?と言うってくらい英語が苦手だったんですよね。それなのに!何を思ったかイギリスに行くって自分で決めちゃうんだから、人生っていうのはほんとによくわからない。

で、英語。勉強っていうものは、英語に限らずコツコツするもんだろうと思うけれども、英語はその最たるもの。単語だって文法だって、まずはちゃんと覚えてないと、とっかかりがなくて何もわからない。しかーし!そのコツコツが私にはできない。なんでもコツコツと積み上げていくっていう成分がね。欠落してるんですね。まあ、未だにそうやって自分にラベリングしちゃって、色々なことから逃げまくってる!ってのはちょっと内緒にしておいていただけるとありがたいんですけども。

ちょうど世はミレニアム!だった(覚えていらっしゃいます?)。あの時はミレニアムが未来で、その未来がキター!!って思っていたけれど、あれから20年。嗚呼。もはや、もう、何の未来なのかよくわからない。

「Millennium」を歌うロビー・ウィリアムズもきらきらしてたなあ。

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ああ、これもなつかしい!「Let Me Entertain You」!

youtu.be

イーストボーンにいたのは、ちょうど冬のおわりから夏前(夏にCambridge英検の試験なんてもんがあったのだ。。。)の、そりゃちょっとお勉強するなんて無理なんじゃないの?っていうくらいのベストシーズンだった。ジューン・ブライドの意味は、6月のヨーロッパにいけばすぐおわかりになられるとおもう。とにかくめちゃめちゃ気持ちのいい季節なのだ。

砂浜海岸が延々と続くボーンマスと違って、イーストボーンは石がいっぱいのぺブル・ビーチだ。歩くと石がキュルキュル鳴って、ちょっと愉快な気持ちになる。ちょうどこの夏の時期、イギリスは夜の21時頃まで明るい。貧乏学生だった私は、当時仲が良かったスイス人の女の子たちと、近くのSainsbury'sっていうスーパーで安いワインとチーズとか仕入れては、英語のお勉強そっちのけで海岸でわいわいとお酒をかっくらっていた。

ところでスイスってのはちょっと面白い国だ。ジュネーヴ/レマン湖を中心とするフレンチパートと、チューリッヒやベルンを中心とするジャーマンパート(あ、ハイジの村はこっち)と、あとちょっと下の方?のイタリアンパートに主にわかれていて、ひとくちにスイス人っていっても顔立ちから、性格やら雰囲気がもう全然違ったのだ。

スイス・ジャーマンの子たちはやっぱりドイツの雰囲気があって、お勉強を生真面目にするし、やっぱりドイツ語と英語は似ているから英語もあっという間にうまくなるし、優等生!って感じの子が多かった。若い子が多かったからかもしれないけれど、純朴な子が多くて、幼いころ「アルプスの少女ハイジ」が大好きだった私は、最初のうちは彼らにその面影をみて、プチコーフンしたりしたものだった(すぐ慣れしまいましたけどね!)。

一方、スイス・フレンチやスイス・イタリアンの子たちはまあ、ラテンの血をひいているからか?楽しいことが大好きで、クラスに来るのは時間ギリギリ。夜はエンドレス。お勉強よりは「あのお店のパスタはまあいける」って話の方に熱心、というまことにゆるく好ましい風情だったので、私はすぐにこの子たちと仲良しになった。

もちろん個性はいろいろだから、全部が全部そうなわけじゃないんだけど、お国柄ってひとくちに言ってもあの小さい国の中でも色々違うんだね~っていうことをその時に知った気がする。

仲良くなったそのスイス人や日本人の友人と、語学学校がご親切にプランする、インターナショナル・ナイト的アクティビティを物色しては、おもしろそうなものにせっせと参加していた。イーストボーンの海にはピアがあって、ここでディスコ・ナイト!みたいなのがあると、もろもろを発散しに繰り出していった。Robbie Williamsさまにも、ここでずいぶんとEntertainして頂いたもんだった☆

当時お世話になっていたホストファミリーはゴリゴリのクリスチャンだった。とってもいい人たちなんだけど、なんかこう、大声で笑ったりおばかな話なんて出来ない雰囲気だったし、おうちそのものが小さかった(なんでも、いつぞやの戦争の時にイギリス人兵士の宿泊施設を住宅にリファービッシュしていたらしい)から、私は毎晩のように外出していた。「お友達がいるっていいことですよ、アーメン」と、ホストマザーも呆れながら最初は誉めてくれてたけど。後日、私があまり羽目を外しすぎたもんで、そのホストファミリーから「出てってちょうだい!」と退去命令をくらったのはまあ、ご愛敬。

今思っても不思議なのは、最初は英語なんてほとんど話せなくて、どうやって、何のコミュニケーションを取っていたのかってことだ。お互いつたない英語で、試験が終わってからの仕事、将来のこととか、あのサンドイッチショップの男の子がかわいいとか、恋愛で悩んでいるとか、そんな他愛もない話をずーっとしていたのだ。

英語ってね。まあ、これは日常使う英語っていう意味ですけど、結局語学は語学なので、日本人なら日本語の能力と比例するんだな、って後で思いました。要するに、日本語を使っているとき聞き上手な人は英語のリスニングの方が得意になるし、おしゃべりな人はスピーキングがまず得意になる。そしてコミュニケーション能力と英語の能力っていうのは、またちょっと毛色の違う話なのだ。(私ですか?もちろん未だにリスニングが苦手です。)

そして、全然違う国/環境で育って、違う教育を受けて、違う食習慣があっても、悩みどころやぶつかりどころはそう、変わらない。親子の問題、友達、恋愛、将来への不安、みたいなものって共通してあって、ことばではうまく言えないんだけど、今、あなたの言ってることわかりすぎるくらい、わかるよ!みたいな瞬間はたくさんあった。確かに悩みのテーマや質は違えども、その問題を抱えている時に感じている感覚や感情っていうものは、意外にストレートに伝わってくるものなのだ。

 

今日久しぶりに海岸沿いを散歩しながら、ふと、その時代のことが頭をよぎった。あのスイス人の子たちは元気にしているだろうか。

そしてあの頃、私は最初の人生のエアポケットにすっぽり入りこんでいたのだった。何十年か前のイギリスの海辺のまちで、その後の人生がどうなるかなんてまったく知らずに、やっぱり毎日のように海岸沿いを歩いたり、海辺で騒いだり、ひとりぼーっとしたりしていた。

ああ、また同じ季節を過ごしてるんだな。

こうやって人生は螺旋階段のように、時々同じ風景を見せてくれる。長く生きているとそれがサインのように見えてちょっとおもしろい。そして、あの時のイーストボーンの海辺を歩いていた私はそれからまた10年後にまたイギリスに舞い戻って働くことになるなんて夢にも思っていなかった。

今、またここで海を見ながら、これからきっとまた、夢にも思っていなかった場所に出向いて行くんだろうなって想像したら背中がプルっとした。

相変わらずの無軌道ぶりで、相変わらず振り回されてたいへんだけど、でもきらいじゃないところがちょっと楽しくて、ちょっと困ってる今日この頃である。

 

今さらですが、ベビー・グルートがかわいすぎる件について

唐突にまたすみません。。この3月?頃でしたか。世の中がまだこんなにコロナづいていなかった頃、例によっておうちであれこれ動画を見てましたらね。

ベビー・グルート

が、いたわけです。この子ね。

marvel.disney.co.jp

私はどうも「ハリウッド」のなんやかや、が昔から好きでなくて!(ねずみ王国とかもね。。)おまけにアクションとかヒーローものにもまったく興味がわかない性質で、ってことでマーベルの映画なんてほっとんど見たことなかったんです。

でも、この「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」のオープニングを見てもう、このベビー・グルートのかわいさにノックアウトされちゃってね。もう、とにかく見て見て♡(身近な友人たちにはさんざんリンクを送ったのでもう、わかったよ!っていう人も多いかと思いますが、そう言わずまた見て!)

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あ!この下はネタバレを含むので、最初から予備知識なしに映画を観たい方はご注意ください☆

 

そして、ご覧になりたい皆さまは、オープニング以外のかわいいベビー・グルートもどうぞ♡どうぞ♡

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最初はベビー・グルートが気持ちよさそうにダンシングしちゃってるのがかわいすぎて、もう何十回も見ちゃったんだけど(結局ちゃんと映画も観ました)このね、オープニング!凄すぎやしませんかね!このベビー・グルート世界(天国)とみんなが戦ってる世界(地獄)が共存してるみたいな感じ。

なんかねーこれみながら、あああーこれってほんと、無意識とわたしたちの現実世界との構図そのまんまかもなーって私、思っちゃいましてね。

無意識はきまま~なかんじで、もう、のりのりで踊っちゃってるわけですよ(そのベビー・グルートのお顔がかわいすぎる~)、私たちの現実世界の象徴みたいな戦闘シーンバックにね。コロナはじめ、現実の世界はもうこわいこといっぱいですからねー。心配しなくちゃいけなかったり、戦わなくちゃいけなかったり、自分たちの居場所を守らなくちゃならなかったり。日々の私たちはめっちゃそれに大変で忙しいわけです。

でもベビー・グルート。そんなのまったくお構いなし。他の人が戦って、時に守ってもらってるのなんてものともせず、のりのりで踊りまくって、戦いに忙しいガモーラに「Hi!」なんてのんきにご挨拶しちゃってるわけ(なんてかわいいんだ♡)。そう!だからね。私とか「もうだめ。。。もうおしまい。。。」なんて、この浮世のあれこれに超シリアスに落ち込んでいるのに、無意識界隈ではもう、のりのりで無意識が踊っちゃってる、みたいなことが多分。。よく起こってる。。はず。。

で、このベビー・グルート、お話できることばは「I'm Groot」だけ。全てのセリフがこれ。なので、アライグマ?のロケットがその時々に、この「I'm Groot」の意味を通訳をしていてそれがなんとも微笑ましくておもしろい。上に貼ったこの動画も、ヨンドゥが持ってきてほしいフィンのことをベビー・グルートにあれやこれやと伝えてるのに、全然伝わってない感じ!まるで無意識が、私のエゴの言ってることなんて全然ワカラナイヨって言ってるみたい。

監督がそれを意図していたかどうかわからないけれど、このアライグマ的ロケットは、めちゃくちゃ「トリックスター」の役どころで、わざとはちゃめちゃなことしちゃったり、お口は悪いし(私はシンパシー感じまくり)ね!なかなかのキャラなんだけど、彼が唯一ベビー・グルートの言ってることがわかるっていうのが、また深いじゃないですか!やっぱり、ちょっと世間からはみ出ているくらいの意識じゃないとね。ベビー・グルート(無意識)の言ってることは理解できないんだよね。このロケット、外見もアライグマみたいで明らかに人間じゃない。それがなんとなく無意識ってものの人となり(笑)?や本質を語っているようでもある。そして、小さいころから謎の疎外感、を感じてきたわたし自身にも「まーそーゆことだから、あきらめてね☆」ってひとつのこれも解なのかな。「どうせアライグマみたいなもんだし。。」とうれしくひねくれる裏腹な私なのでした。

で、この「~:リミックス」はシリーズの2作目らしいんだけど、1作目よりも、この映画の中ではこの、はちゃめちゃなロケットが「自分ってこんなことしちゃうんだ。。。」なんてね、自己分析しちゃったりしてるわけで、同時に悪態付きながらも、このベビー・グルートのお世話をやいているのをみると、なんかこう、少年の成長譚をみているようで、ちょっとうるっとします。私も見習わねば!

もともとベビー・グルートがかわいすぎて見始めた映画だったんですが、このロケットのトリックスターっぷり然り、そして主人公のクイルの父親捜しからの父親殺し!その父親が息子を使って理想を実現化しようとするところ(父親?の名前がエゴ、ってんだからもう、まんまですね)とか、ガモーラとガモーラの妹ネビュラとの姉妹の確執(より、能力の高い方が親に愛されるって思っちゃう)とかね。だって、この姉妹の親もひどいんだよ。ネビュラをほとんど機械の体にしちゃうんだからね、その方が強くなれるぞ!って。そんな心理的な(特に親子関係)背景と複線が満載で、ま、まさか、まさか、私はこの映画で3回くらい号泣しました。びっくりした。こんな宇宙のヒーローもので、こんなに泣くと思わなかった!

ってことで、ベビー・グルートがかわいすぎるので映画を観たら、また無意識!のメタファと親子関係のあれこれが満載な映画でびっくりしたよっていうお話でした☆

あと、絶対音楽好きな監督?スタッフ?がいて、もう映画への音楽の使い方が秀逸なので、それにしびれました。めっちゃかっこいい。冒頭のELOの「Mr Blue Sky」と映像の当てがもう!センスが良すぎ。こういうのは大好き☆この曲も大好き☆気分がぱーっとなること請け合い♪もう、この曲が流れると私のあたまの中でベビー・グルートが躍り出しちゃう♡

ってことで、ご興味持たれた方はぜひ!映画もご覧になってみてください~♪

 

「無意識」といっしょにこんなことをやっていきたい。

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ということで!

今日まで綿々と「無意識」への愛を語ってきたのだけれど(お付き合い、ありがとうございました!)、ここでもういちど、私がこれからやりたいなーと思っている雑多なことを書いておきたい。書いておかないとね。すぐ心変わりするし!(まあ、変わるのはあり!)無かったことにしよう♪(無かったことにするのはなし!)と思いがちな自分のための叱咤激励です。

 

  • 「無意識」の可能性を自分の丈で追及する活動

自分、友人、そしてこの実験に参加してみたい♪と思ってくださった人たちといっしょに、寝ている時の夢や、起きている時にキャッチする象徴的な何かの軌跡を追う、という実験活動をやっていきたい。これはほんとに、伝言ゲームみたいな、かるーいゲーム感覚でやりたいな、と思っている。1対1で、はもちろんゲームみたいなものだから、グループでその人の見た夢とか気になるシンボルについて壮大に連想ゲームをする!っていうのもかなり楽しそうだと思ってる!ゲームに参加したいな、と思った方はぜひお声がけ下さい♪

 

  • 「無意識」からやってきたメッセージを日常の生活に落とし込むバディ活動

ゲーム感覚で遊んでいるうちに、または夢などの痕跡を追っていくうちに、これは自分にとってたいせつなメッセージだ!と思わせられるようなことがきっと出てくると思うんですよね!そういったテーマ性があるメッセージについて、カウンセリング的な対話を通じていっしょに追跡する活動。そして、それが自分の行動や思考、思い、みたいなものを変容していく先まで見届けるバディ(仲間/相棒)な感じの存在でありたい。バディを引き受ける際には、無意識を言語化するよき通訳者でありたいと思っている。

ちなみに、会社員(主に旅行/サービス業)だった時代が長いので、働く人の大概のお悩みについては色々精通しています。臨床心理の大学院の修論は「職場の人間関係ストレス/メンタルヘルス」がテーマ。最近産業カウンセラー資格も取得しましたので、そのあたりのテーマはお任せください。普通のカウンセリングももちろんOKです。

 

  • 「無意識」からやってくる、その人となり、その人個人の神話をいっしょに探るバディ活動

これは「これが自分だー!!!」と疑いようもない発見を自分の中から探し当てるトレジャーハンティングを一緒にやっていくバディ(仲間/相棒)活動。これはちょっと時間がかかるかもしれない。それか、意外に一瞬で、わ!と発見できてしまうかも?。その人の神話/ものがたりを共に気長に追っていく。お宝が発見できたときには、いっしょに何か作品のようなものをつくりあげられたらいいな、と思っている。こちらも同じく、無意識のメッセージのよき通訳者でありたい。何もないゼロ地点スタートのところから、一歩を踏み出すところを応援するのが、私は得意です(いつの間に、その気になってた!みたいなかんじ☆)。

何をしたらいいのか、これは私が進むべき道なのか、よくわからないという時。そんな時には、いきなりその対象を探すよりも、まず自分のなかに一度ダイブしてみるのが、近道だと思います。急がば回れ

 

  • 「無意識」からやってくる「4つの柱」をたてる。その4つの柱でその人オリジナルのお守りをつくる活動

前回こちらで語ったのだけれど、無意識からのあなたを守ってくれるキーワード、象徴から4つの柱をたてて、1年間?のお守りにしませんか?というこれも実験活動。何か問題があったり、つらいことがあったり、人生いろいろだけど、その時にはこの自分の4つの柱に立ち返って守ってもらえるんじゃない?って思ってる。これも私から「あなたの4つの柱はこれです!」というのではなくて、その4つの柱をあなたが発見するまでいっしょに探して、立てる、というところまでの伴走をします。

これも思いつきレベルだけれど、一年に一度、お正月の初詣的なかんじで柱を立て替える(再確認する)みたいなことって、なんとなくお守りっぽくていい感じがしている。

 

  • 私の体験紹介&ご相談活動

これまで私自身が体験してきた様々な心理療法、ボディワーク、仏教心理学的なエッセンス等をもとにしてご紹介していきたい。また、そういったものを「受けてみたい」「興味がある」という方に臨場感あふれる情報をご提供したり、ご相談に乗ったりもする活動。

 

今のところ、ぱっと思いつくのはこんな感じかな?

他にこんなことをしてもらいたい、というようなリクエストがあればぜひ、お寄せください。

これまで主に「無意識」への愛を中心に語ってきたけれど、これからはこの「無意識」への愛に目覚めるまで、私がどんな経験をしてきたかについて書いていきたいな、と思っている。リストの最後にも書いたけれど、まーとにかくこの十数年、いろんなことに首を突っ込みましたので!何かの参考になればこれ幸いです。

そして今は主にまわりの友人にお願いしている「夢」や「シンボル」から何が飛び出てくるか、という実験結果についても折に触れて書いていきたいと思っているところであります。

と、いうことで引き続きよろしくお願いします☆

 

Warumi、諏訪さまの地で柱に出会う。

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で、話は諏訪さまである。

諏訪さま、と言いつつ、いきなり先にこちらの正剛先生の動画をご紹介するのであるが、なぜならば、諏訪さまとこの動画のコンビネーションで私の勝手理解がおっこちてきたからである☆

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そもそも、諏訪さま(友人に倣って、諏訪の神さまを私も諏訪さま、と呼ばせて頂いております)は、かの有名な「御柱祭」のあの諏訪大社のことである。彼女の諏訪さま愛をずっと聞いている折、いつか連れて行って♪とお願いしていたのが叶い、私たちは旅に出かけた。

旅はほんとにいい。こんなコロナの時だから余計そう思う。ふだんとは違う空気感、目に入ってくるものがまったく違う異国感。まちかどでふと目に飛び込んでくる住所表記が好きだ。全然見慣れない道や住所のなまえ。あー!今ここに来ているんだ!って思ってさらに嬉しくなる。私は思いつきで、どこかいぱーん!と出かけていくってことをしないと、こう、体の中にそれこそ澱のようなものがたまってしまってかなわない性質である。今はかなりの試練の時なのである!

諏訪の旅は楽しかった。ひさしぶりにその友人とふたりでユカリさんキネシオロジーとアロマを使ったカフェキネシ、という手法をつくりあげ、活動されている。ご興味がある方はこちらをどうぞ☆)にも会えたし、そしてまだ雪が残る八島湿原にはじまって、諏訪の信仰の原点、ともいえるいくつもの場所に案内してもらった。

その日はとってもお天気がよくて、陽が雪にキラキラ反射して、空気がぱりっとしていて、ちょうど冬から春がどうもー!って出てきたばっかり、みたいな日だった。山の上にある湿原の空は、まるで生き物みたいに動いていて、手を伸ばすと届きそうだけど、でも本当に伸ばすとするっと逃げちゃうようにくるくると変わる。

しばらく八島湿原のわきを歩いて(息があがった!)そのとどのつまりに、旧御射山神社があった。かわいらしい大きさのそのお社は、その後ろの木立にたいせつに守られるようにそっと存在していた。空から吹き降ろされてくる風に揺られる木立の下で、お祈りをしている友人がかわいらしくて、私はちょっと離れたところからその光景を眺めてほーっとしていた。今でもその光景と風、光が自分のなかにふっと浮かんでくる。

そして翌日は諏訪大社の下社のふたつ、秋宮春宮に連れて行ってもらった。なんでしょうねーもう!春宮さまと秋宮さまを語るその友人の口調に(それぞれ、違う個性がおありになるのだ)私は神社以上に癒されて、サイコー気分の参拝だった。それぞれの神楽殿や拝殿のまわりをふたり楽しく歩いた。

そしてそれぞれの拝殿の近くに、それはあった。そう、「柱」である。それはほんとに木の柱(あまり加工していない)というか、丸太のような大きな木がどーん!と拝殿の横にそびえ奉られていた。そして私は初めて知った、、、この御柱は文字通り、「御柱祭」でだーーん!とあの山肌の坂?を落とされるあの木!「御柱」なのであった。わしゃわしゃ氏子のみなさんが乗りこなされている、あの巨木である。私は勝手に、御柱祭のあの木は神社のお社の一部として使われているものだとばっかり思っていたが、その「御柱」はなんと拝殿のまわりをとり囲むようにして四方にたっているのである。私にとってはちょっと衝撃の新事実であった。

それも手伝ってか、旅を終え家に帰ってからも、私の中で八島湿原で揺れていた木立と、この4本の御柱のイメージが時折、胸に去来した。すっくりと立っているあの木。風になびく木々の枝葉。

そして(やっと!)話は冒頭に戻るが、この正剛大先生の動画。「立てる柱」!という言葉に誘われて見始めた私は、途中、ひゃーー!!となった。それは話が木の「依代」の話に差し掛かった時である。この柱がたっているところには何かがやってきて、またかえっていく、と正剛先生は仰るではないか。その瞬間私のなかで、それって「無意識」と「私」の関係そのものじゃないか!というひらめきに似たビジョンが落っこちてきたのだ。

神さま(訪ねてくる神さま)が、柱にやって来られる。これは「無意識」から「自分」へやってくるなにかメッセージのようなものじゃないだろうか。自分の中に柱をたててさえおけば、無意識の中からなにかがやってきて私に語りかけてくれる。無意識そのものは、ことばでは語り得ない底知れぬ存在なのだけれど、柱にやってくる神さま?は、何かメッセージのようなものとして、無意識のかけらを運んできてくださるエージェントのような存在だ。その神さまがメッセージもってやって来る、という行為が、まるで無意識の一部をことばへと翻訳する、という行為とだぶるように感じられたのだ。無意識のなにかを、ある神さまという象徴的な存在が、メッセージに形を変えて「こんにちは☆」と訪ねて来てくれるような。無意識の一部と私との出会い方ってこんな感じじゃないだろうか??

だから自分の中に柱はたてておこう、たてておかなくちゃ。私はそう、思ったのだ。

そしてそれはまさに個人の神話、のことなのだと、北さんの小説「幽霊」をまた思った。ひとりひとりの中に流れある神話のものがたり。それに触れようとするならば、自分の柱におりてくる神さまのメッセージをことばにすることだ。少なくとも私にとってはそうなのだ。そのことばの連なりはその人の神話となる。そしてそのことで、逆に他者ともつながれる。だって神さまは誰のものでもないし(だいたい無意識のなかからは無限の神さまが出現するのだ!)。そしてどんな柱をたてて、どんなメッセージを受け取るか、というのはその人の無意識の「翻訳」だから。翻訳=表現は違えども、無意識下でつながるイメージはきっとつながっているのだ。ふかーいところで。そうやって私たちは、表現は違えどもそもそも出会えるようになっているのだ。

そして私の中の柱は人生のその時々で変わるのだと思う。諏訪大社御柱祭だって7年に1回は御柱を新しく立て替えているのだ。その時に立てておくべき柱、翻訳は時が来たら変えればいい。否、むしろ変わり続けるものなのだ。そうやってこころの神話はひとつ、またひとつと産まれては、様々なストーリーが展開して重なっていく。そんな神話の連なりが、私たちひとりひとりの中に脈々と流れている。

柱をたてようじゃないか。それも諏訪さまに倣って4本!と私は決心した。そしてその柱、とは前回ここで書いた「自分の芯」のようなものである。

warumi.hatenadiary.com

そしてその自分の芯=柱もまた、無意識からやってくるものだ。そう。自分の柱/芯や、メッセージは無意識との無限の循環のなかからやってくる。やって来ては去り、またやって来る。正解はない。翻訳はその人その人の好みの問題だから、これだ!というものは自分できっとわかるだろう。

その柱をたて、神話をつくりだすこの日々の営みこそがホドロフスキーが体現しているところのマジック=魔法じゃないのかな、と私は思った。そうやって毎日、一瞬一瞬に何かの魔法がかかってる!

そう考えると、この毎日がちょっと違ったものに見えてくる。私たちはまだ神話のなかに生きているのだ。そんな風に考えると、ちょっとほんとに楽しいんですけど!(また私をヘンタイ呼ばわりする友達の声が聞こえてきそう。。)

 

(つづく)

「無意識」とお話しするとわかっちゃうんじゃない?と思ってるふたつのこと

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連日、「無意識とのトーク」についてあつく語り続けておりますが、みなさま、お元気でいらっしゃいますでしょうか?

最近はいろいろ夢想!みたいなものが湧いて出ては消え、またどこからやってきては去り、みたいな毎日を送っている私である。この可能性や未知に満ち満ちた「無意識とのトーク」について、いろいろなおもいがやまない。そのひとつふたつのまだ、たまご、みたいなお話を今日は書きたいと思う。

夢やイメージを追って、無意識の一端にアクセスするとでは一体自分にどんなことが起こってくるのか。

ひとつは、「あー私それ気になってたんだよね!(例)」と、自分でもびっくりしちゃうようなことに気が付くようなやり方ってないかなーっていうこと。問題って額にしわ寄せて考えてもね、手詰まりになっちゃうとつらいじゃないですか。その点、夢とかイメージって結構おちゃめ☆で、なんか、こう、とんちを仕掛けてくる、みたいなことがあってほんと、かわいらしい!(愛は盲目!)

何年か前、タイのテーラワーダのお寺でお坊さんをしておられるプラユキ師に、夢解きについて教えて頂いたり、実際の自分の夢についてお話をしたり、というありがたい機会を頂いたことがある。プラユキ師は、私たちが普通に想像する日本のお坊さんとはだいぶ違った雰囲気を持つお坊さんである。とてもチャーミングな語り口だけど、お話をしていると、ひょいっと問題?の核心に触れ、あれれ?という間にその問題への自分の見方や対処方法に変化が起こってくる、という体験を何度もさせて頂いた。また、瞑想なんてからきし苦手だった私が、唯一!続けられた「手動瞑想」という手を動かしながら、その時々に思い浮かんでくる思い、考えにOK!をしながら、瞬間瞬間に手放していく、瞑想を伝授しておられる。私にはとてもよかった。

ご興味がおありになる方は、プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」をご覧ください。

で、そのプラユキ師と自分が見た夢についてお話した中で、印象的だった思い出がある。こんな夢を見た。その夢のなかで私は料理をしていたのだが、間違って自分の小指を鍋の中に入れて煮込んでしまった(あ!心優しい人、だいじょうぶです!夢だから、血も出なければ痛くもなかった!)。で、わかっているのに、なぜかその自分の小指入りのスープ(だったと思う)を普通に食べていて、その時、口のなかで自分の小指がぐにゃっと(ああ、ごはん中の人、ごめんなさい~!)崩れ、わー小指食べちゃったよ!この食感、気持ちが悪いよ!という、なんだかよくわからない夢。一体これ何の夢??と自分でもまったく見当がつかなかった。

この夢のお話をプラユキ師としたときである。いくつかのやり取りがあった後、師が「Warumiさんにとって、小指ってなんなんですかねぇ」と尋ねられた。私は、うーーん、、、小指、、、と考えを巡らせた。数秒後に、あ!と思いついたのは「指切りげんまん」のことだった。ほら、小指で「指切りげんまん!嘘ついたらハリセンボンのーます!」ってやるでしょう?あれです、あれ。で、師に「指切りです!。。。約束?」と答えた瞬間、自分の上にその答えがわ!っと降ってきたのである。

それは、何年か前にとてもたいせつな約束をある人としたのだけれど、その夢を見た時には、私はその約束をした時の自分を脱皮し、新しく道を模索している時期だった。以前の私にはとても大事だったその約束が、その時の私にはもう必要がないものだ、と、理解するのに時間は要らなかった。

その時のことを思い出すと今でも不思議だ。プラユキ師の問いの後に、私は、瞬間的にその約束のことを思いだした。そしてもう、それが必要のないものだと改めて気が付かされた。更に。もうその約束は必要ないって本当はわかっていただろうに、それを見ないようにしていた自分(たぶん、それこそ無意識的に)のことが、さーっと1本の線でつながったのである。実に鮮やかな瞬間だった。

夢からイメージを追いかけると、顕在意識の自分の理解が追いつくことがある。そんな私の経験である。この、サポートがありつつの、でも自分自身でそれに気が付いていく、というプロセスは私にとってかなり強烈な体験となった。これをもっと身近なところでできないだろうか、というのが夢想のひとつである。

そしてもうひとつ。それは何回かに渡ってこのブログに書き綴ってきたように、私にとっては「琵琶」「シルクロード」「飛天」というようなイメージ。「無意識とのトーク」を起点に、その中に自分、というものを浮かび上がらせる、ということ。これをご縁のある方たちといっしょにやりたいな、というもの。

例えば「私何がしたいのかー」「私にできることってー」みたいな問いに、ふん!と不敵に笑うかのような回答をぶん投げてくるのだ、この無意識ってやつはもう!結構ツンデレだと思ってる。(あ、私の勝手な無意識へのイメージなのであんまり気にしないでください☆)

なんかこう、自分の価値とか、自分の向き不向きとかて何ですか!?みたいな、そういう問いそのものがちょっと気恥ずかしくなるような。圧倒的に「そうだろうよ!そうしかないだろうよ!」と畳みかけてくるかのような、自分の存在そのもの!みたいな、納得感を、そうだろ?きまってるだろ?とばかりに、この無意識とのトークはあぶりだしてくるのだ。

これは、私の経験上、なので、みなさんと同じかどうかはわからないのだけれど、「小指の夢」みたいのは、瞬間に答えがばばばっと落っこちてくる感じがある一方、こちらは、ヘンゼルとグレーテルがパンくずを追って道を戻ってきた、みたいな感覚がある。じわじわ系である。ほんとにそんな傾向?みたいなものがあるのか、ぜひ、お伺いしてみたいよう。

そしてこの自分への深い理解、というか、信頼、みたいなもの?(適切なことばが見つからない)は、それを使う、というよりは、それが私を守ってくれているものだ、と、私は今、つよく、つよく、そう思っている!

よく才能とか、強みとか言ってますがね。それを「使う」って発想がちょっとなんか失礼な気がしません?(そんなの私だけ?)私はそれよりも、私が私であるってことを、その深い理解&信頼みたいなものが、ぎゅっと守ってくれてるって考えるほうがなんか、しっくりくるし、なによりうれしい!使う、とか自分の一部だからなんかいや。大事にしてない感じがしてしまう。あー、そうなんだ!私のこと、守ってくれてたんだ、ありがとーーー!って素直に言える感じの方が好き。

だから、この自分の理解っていうか信頼みたいなものを、自分の芯のようにどーんと自分のなかに立てておく。それだけで、ああ、私は大丈夫だっていう、そんな気持ち?気持ちっていうか、安心感みたいなもの?で、日々のさまざまから人生のあれこれまで渡っていけそうな、そんな気がする。

そして、この自分の中に芯みたいなものを立てておくっていう、このインスピレーションみたいなもの?。それは、諏訪さまのいらっしゃる諏訪神社に行ったあとに、私の中にばーんといきなり展開してきたから、ちょっとびっくり!なのであった。

(つづく)

 

「愛してる」って言ってみなくちゃ伝わらない。

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字余り。

すみません、恋の相手はまたまた「無意識」です。

昨日書いたお話ではは、まさにこの「無意識を言葉に転換する」っていうことの尊さを語りたかった。

warumi.hatenadiary.com

同時に、言ったそばからすぐに!堂々と!矛盾するようだけれど、「無意識」の世界はことばにするのがとても難しいと感じている。無意識が持つ、存在やその奥の気配のようなものまで内包している、摩訶不思議な世界を言葉にしてしまうと、「うーん、言いたいことはなんとなくわかるんだけどさ。。。」みたいな感じになってしまう。

しかし、それが「無意識」への愛のアプローチなんだろうなって私は思ってる。

 ことばにしないと伝わらない。

 でもことばにすると、ちょっと違っちゃうかもしれない。

 だからって言わずにいたら、やっぱり伝わらない。

 勇気を出して「愛してる」って言ってみる

 何によろこんでるかよくわかんないけど、うれしかったみたいだよ!

。。。こんな感じ、伝わりますでしょうかね。。。?こういう逡巡やら疑問やら疑惑やらをはらみつつ、それでもまあ、よろこんでるなら、、、いっか。っていう感じの大人のコミュニケーションが、無意識とわたくしたちの間には求められるんじゃないかっていうわけである。

。。。OK!別の表現にトライしてみる!

すんごいわけわかんない抽象画の世界。お好きな方、或いは画家はいらっしゃいますかね?カンディンスキーとか、ポロックとか、ミロとか?とにかく何が描かれているのかまったく不明!っていうART作品。

そしてまた唐突に私の偏愛を語らせて頂きますと、私はわりとイヴ・クラインが好き。作品っていうよりも、彼の青の世界が青々としすぎて美しすぎて!イヴ・クライン、この青の色が好きすぎてご自身で「インターナショナル・クライン・ブルー」っていう顔料を開発してしまった、っていうそれだけのエピソードでもう好き。この顔料、十数年前?以上?に、私もどこかのミュージアムショップで手に入れました。今でも持ってる。真っ青な顔料。ちょっと自慢。ちょっと見るだけでうれしくなるくらいの青。

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話が飛びました!「無意識」のお話でした(すみません、好き、が起動すると好き、を止められない性質で)。

この抽象画を無意識の世界、に例えてみる。何が描かれているのか、ちょっとよくわかりません、、、っていうこの世界観こそが無意識の一面を現わしているように思う。そのキャンバスに描かれているものは、よくわからない。絵のタイトルを見てみる。「空間」。。。やっぱりわからない。なにそれ?

けれど、じっと絵をみていくうちに、何が描かれているか理解はできないけど、なにかこう気分が落ち着いてきたり、心の中にリズムのようなものが生まれたり、胸がちょっときゅっとなったり。いいかんじじゃん?うわー!キレイ!とか、なんじゃこりゃー!って気分がわっと上がったり。

自分がどうしてそんな気分になったのかって?それは絵の内容と同じくらいよくわからない。でもそんな気分になった。そんな時の絵画(無意識)とわけわからない自分(わたし)との関係性が似ているように思う。

映画でも壮大な景色でも、うつくしい何かでも。そんなものを見た時。かんたんにその心のうちを口にしたら、自分の感じていることが損なわれてしまうような、そんな気持ちになることがある。そのくらい、純度が高い感覚が自分の中にあって、ことばでは表現が難しいのだ。

またしても唐突ですが、映画館出たすぐあとに「ねーねー!あのシーンさ!まじすごかったよね!!あのシーンどう撮ったか知ってる?〇〇がさ!」っとかってね。急にわーっと畳みかけられるのはキライ。ちょっとお茶飲みながら、いろいろと反芻してからの、おもむろにハイテンションで語り始めるのが私流です(いつも私のハイテンショントークを聞いてくださっている皆さま、ありがとう~!)。

そう。無意識をことばに転換するっていう作業?もちょっとそんなところがあるのだ。自分の見た夢を、ただストーリーとして語っても、夢そのものが持っていたであろう気配まで相手に伝わらない。その気配に似た体験や、そこから発生する想像力がどこかにないか、自分のなかにそれを探しにいく。そうすると、夢から触発される何かが見つかったりする。それが自分の日常生活のことだったり、で、「あ!あの夢ってこういうことかも!?」っていうひらめきは、こういう時によく落っこちてくる!

ただこの無意識ってやつ、時折、複線の複線、みたいのを張ってるときがあるから只者じゃない。そんなときは、この自分の中に探しにいく作業が何回も積み重なって、一体どういうことだろうか。。。。という日々が続き。そしてある日突然「え?」みたいな驚きと共に閃いちゃったりすることがある(このカタルシス、一度感じていただきたい!)。

 

映画/夢の余韻を自分のなかで反芻しているとき=「でもことばにすると、ちょっと違っちゃうかもしれない。」

んー!やっぱりこの映画、ここが超よかった!って語りたい!=「だからって言わずにいたら、やっぱり伝わらない。&勇気を出して「愛してる」って言ってみる」

私:それでね!私はここがもう超凄いと思った!/友:あーWarumiさん、なんかめっちゃ楽しそうね~。ああ、そーゆーのWarumiさん、好きそう!好きそう!=「何によろこんでるかよくわかんないけど、うれしかったみたいだよ!」

こんなかんじ!

だから無意識を全部ことばに転換せず、雰囲気ごとそのまま置いておくっていうこと。

そして、敢えてそれをことばに転換して表現するっていうこと。

この両方が無意識とのトークには必要ですねっていうお話でした。

そして、絵画を見た時にその印象とか気持ちが人によって全然違うように、その表現はもう、ひとりひとりみんな違う。表現は違うんだけど、ああ、言ってることわかる気がするよー、うんうん、あそこのシーン、すごかったよね!っていう繋がり?みたいなものが感じられる。

この無意識のトークが大好きだなって私が思うのは、その繋がりが感じられることに感動するからかもしれない。

(つづく)