Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

怒りがあなたにくれるもの

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こちらでも以前、怒りについてちょっと触れましたが、今日は「怒り」の感情が持つ可能性についてフォーカスをしてみたいと思います。

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突然ですが、最近怒ってますか?

自分が怒ると、または、怒っている人を見るとどんな気持ちになりますか?

「怒り」という感情のおもしろいところは、「怒り」が得意な人とそうじゃない人が結構はっきりしているっていうことだと思います。

前者のイメージは、例えば人の話を聞きながら既に眉間にしわがよっちゃう感じ。はあ?なんだそりゃ??と、そこから自分の感情に、特に怒りに、火がぱっとつきやすい感じ?

一方後者のイメージは、怒った人を見たり、自分がちょっとでも怒りの感情を感じたりするのと何かいやーな感じになるイメージ。

もしこのどちらかに自分が当てはまるかな、という方。おめでとうございます!それって自分の中に何か新たな鉱脈を探し当てられるかもしれませんよ♡というお話。

これはもう、よく言われていることなので既にご存知だと思いますが、怒りという感情は二次感情と言われています。二次感情。これは怒りというのは仮面のようなもので、仮面の下に本当の感情が隠されていますよ、という意味。あなたが何かに怒りを感じた時、実は、その怒りの下に彼の本当の感情があるってわけです。

だからよく怒っちゃう、という前者の方。或いは身近に前者タイプの方がいらっしゃる方。あなた/その方はとてもシャイな方なんだと思います。

いやいやいやいや、そんなこたあない!って思われるかもしれませんけどね、実はシャイなんですよ。だって、本当は自分の感情を隠すってことがものすごい得意ですからね!

一方後者の方。あなたはもしかしてシャイ中のシャイ。二次感情である怒りまで隠したいってどれだけ奥床しいのか。本当の感情→怒り(仮面その1)→その怒りを隠したい(仮面その2)!という三重構造です。ね?それってシャイ中のシャイでしょ?

そう。だから前者後者の方、共に、仮面の中に隠された「本当の自分の気持ち」にちょっと思いを馳せて頂きたい。

「怒り」って、実は再演なんですよね、リバイバル公演。昔やった演目をもう一度上演するっていう感じ。同じ演目を同じよーうに何度も何度も上演しちゃう。これが怒りの劇場のからくり。

自分の中にある怒りのストーリーのあらすじって、いつも一緒なんですよね。きっと怒りの数だけそのストーリーってもう、たっくさんあるんですけれど、ばさっと言ってしまうと、悲劇系。本当はそうしたかった/されたかった思いが、遂げられなかった!という悲劇ストーリー。

で、この悲劇のストーリーが、何かのトリガー(きっかけとなるもの)を介して、所かまわずじゃじゃーん!と上演されちゃう。特に前者の怒りを表出するのが得意系の方。自分の中に「悲劇劇団」ってのがあってね、がんがんに運営しちゃってます。「ああ!〇〇劇場に行けば、悲劇ストーリーを見られるところだよね!」って自他ともに認定されちゃってる感じ。上演ストーリーは必ず「そして誰もいなくなった」ばりに、とにかく誰も救われないってやつです。悲劇オブ・ザ・悲劇。

一部のコア&マニア化したファンを除いて、まあ、そんな悲劇を見続ければね。くらーい気持ちになりますよね~。その悲劇を見すぎちゃって、もうそういう演目は見たくありません!ってなっている方、或いはもう、演じすぎちゃって悲劇に自分を占領されちゃったって方が、後者の方なのかもしれません。もう、悲しいストーリーを見るのは耐えられないって感じ。

でね。まあ、悲劇劇場で悲劇ストーリーを繰り返し上演してももちろん良いんですけどね。コアなファン以外あんまり見に来てくれなくなる。自分もだんだん耐えられなくなる。で、この場合、コアなファンって自分のことなんですよね。だから怒り劇場は自作自演?って感じ。自分で演じてその自分を見てる。ね?よほどコアなファンじゃないとちょっと見続けるのは難しい。悲劇を見過ぎちゃった方っていうのは、そのコアなファンも辞めちゃいました、、って感じかな?演じる側、見る側が一体になってるのが、この悲劇劇団の特徴です。

でね。その悲劇ストーリーの中の、最も悲しい目に遭ってる登場人物ってのが必ずいるんですよね。この人物を救ってあげるっていう新たなストーリー、新たな展開をですね、してみませんか?っていうのが今日のお題なんですよね。

その悲劇の中で、最も悲しい目に遭ってるっていうのが、実は「本当の自分の気持ち」ってやつなんですよね。ほら、だいたい悲劇のヒロイン?って、継母にいじめられたり、危険な目に遭わされたり、ひどいことがいっぱい降ってくる役柄じゃないですか?もう見てるこっちがはらはらしちゃう。「本当の自分の気持ち」もそんな感じで、ずいぶんとやられちゃってる。ですからね、その悲劇のヒロイン(本当の気持ち)が救われるプロットを考えてみて頂きたいんです。

やり方としては、まずは怒りを感じた時、その下にいる悲劇のヒロインを探す。探し出せたら、次にそのヒロインの本当の気持ちを聞いてあげる。だいたいつらい、とか悲しいんじゃないかなって思いますよ。なんたって継母にいじめられてるんだからね!それでHAPPY!ってちょっと変態劇。

で、よくその気持ちを聞いてあげた上で、どうしたらその悲劇のヒロインが幸せになるか、自分もその悲劇のヒロインになった気持ちで考えてみる。王子さまを登場させよう!とか、ここは一発頓智で解決しよう!とか、魔法をかけてあげよう!とかね!ここは、出来るだけ楽しんで頂きたいところ。

で、それを悲劇のヒロインに教えてあげるために、自分で演じてみせてあげるってすごくいい。ほら、こうやって演じるんだよってね。教えてあげる。シャイなあなたは人前で演じるなんて無理無理無理ってお思いかもしれませんけど、ほら、演出だし。役柄を演じてるだけだからね。そうやって、自分で役者と演出家の両方をやりながら、ぜひ、新たなストーリーをつくってみて下さい。ポイントは必ず、救出劇に仕立て上げてあげるってことでしょうかね。

怒りのエネルギーってものすごくパワフルなんですよね。だからシャイに見えても、実は、あなたの中には北島マヤがいる。普段地味な彼女もほら、演じるってなると、ものすごいことになるでしょ?(あ、またしても年代が異なる方、申し訳ありません。。。)

怒りが得意な方、或いは怒りに感じやすい方って、だから、実際のパフォーマンスもとっても得意だと思う。何でも良いんですよ。例えばカラオケ行ってものっすごい歌を歌ったり、絵を描きなぐってみたり。そうやってね、出来れば「今私、自分の中の悲劇のヒロインを救出中です!」って思いながら、ぜひ、実際に自分も何かパフォーマンスをして頂きたい。で、何かパフォーマンスしたあとに「今日はこの悲劇のヒロインを救ってやったぜ!」ってね、もうじっくり感じて頂きたい。これがコツです。そんなあなたは悲劇のヒロインを救出できるヒーローだから。自分のこころのなかで、喝采を浴びながらヒーローの役柄を満喫してください。

シャイな方(怒りについて何かを持っている方)はね、これ、ものすごくヒットすると思います。北島マヤが大女優になれたように、あなたも大女優?ヒーローになれる可能性がある。何ならそのポテンシャルしかない。これがシャイなあなたに「おめでとうございます!」と申し上げた理由です。

ですからね。怒りって邪険にしないでね、怒りを感じたら(その後で良いので)その中にあるあなたの悲劇のヒロインを、まず見つけてあげてください。救われないで待ってるヒロインを救出出来た時、ものっすごい感動的な演目が上演出来て、自作自演どころか、お客さんイッパイ来ちゃう。そういうすばらしい可能性に満ちた感情が「怒り」なんですよ~というお話でした。

 次に怒るのが、ちょっと楽しみになってきませんか?

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「変わりたいけど変われない」とお嘆きの貴兄に

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日常、ふとした時に「あー!また同じことしちゃった~」とか「嗚呼、なんて成長がない。。。」とかってね。とかく自分のことを責めがち、というか、ちょっと厳しい目で見てしまう傾向がある人って、少なくないんじゃないかなって思う。

当たり前だけど、自分との付き合いは自分が一番長いわけだから、自分の行動や発言のパターンは自分がよーくご存知なのである。だから「またやっちゃった~(涙)」って思いがちなのもムリはないのである。

人って、なんとなくそういうことをやりがち、言いがちな自分っていうのを「これが自分です」と思って、それを拡大解釈していくと「自分の性格」とか「自分の特質」っていうことになる。要は何かあった時に「そういう風に考える自分」「そういうことを思いがちな自分」っていうのを、私は引っ込み思案です、とか、私は割と戦闘的なタイプです、という風に解釈をしていくわけだ。

それってこのフクザツな世界を生きていくために、とっても便利なもんだなってね、思うのである。仕事とか家のこととか、毎日やること、考えなくちゃいけないことはたっくさんあって、自分がどういう傾向のある人なのか、とか、会社のあの人はこういう傾向の人なのか、なんて考えているヒマも余裕もない。

だから自分はこういう人、あの人はああいう人、という看板みたいなのがあった方が、日常生活は圧倒的にスムーズである。ああ、自分はまたこれをやってしまった→自分は意思が弱いから仕方ない。とか、ああ、あの人またあんなこと言ってる→あの人は〇〇な性格だから、あんなこと言うんだな。とかね。そんな風に思うことって、実は自分にとって混乱が少ない方法ってわけ。それに対して落ち込んだり、怒ったりすることはあっても、「自分がこういう風に世界や自分やあなたを見てますよー」という大前提はそのままでいられるからだ。

っていう「大前提」がベースになるのが、今日のお話です。今日は自分が変わりたい、って思っている方に向けてお伝えしたい。

あー自分が変わりたい、自分を変えたい、と思う時って、だいたい人って自分にちょっと絶望感がある。冒頭に書いた通り、「あーまたこれやっちゃったー」とか「言っちゃったー」と、忸怩たる思いでいっぱいになっている状態なんじゃないかな、って思う。

で、なんでそういう風に自分の事を思ってしまうかっていうとですよ。先ほどの「大前提」という話を持ち出させて頂けば、それって「自分に対して混乱が少ない方法を選んでいる」ってことなんですよね。

え?どういうこと??って思われましたでしょうかね?

「〇〇出来ない自分」「〇〇なことをしてしまう/出来ない自分」っていうね、そういう自分の看板を掲げておくことは、日常生活を送る上で混乱が少ない。それは自分が他人に対して「あの人は〇〇な人だ」と思うのと同じ構造である。〇〇な人に対しては、こういう風に言っておけば/やっておけばいい、っていう自分なりのお作法、態度を持つことが出来る。なんなら既に持ってる。で、自分の中にある、そのお作法に則って、そのように言ったりやったりすると、〇〇な人は自分が思った通りの反応をする。で、ほらね、やっぱりね、あの人〇〇なんだよね、というお作法が正しいって証明されて、強化されるって仕組み。

だから、時として自分の中のそういった考えを覆すようなことに出くわすと「え!?意外!あの人、そんなことしたの?」みたいにびっくりしたりする。このね、「びっくりする」のが人ってね、あんまり好きじゃない、キライなんです。なぜって?だってそうだったら、自分の中にせっかくある「お作法」が使えなくなっちゃうじゃないですか?それまで、あの人の行動とか発言とかね、色々把握してスムーズにコミュニケーションが出来るように、お作法を確立しているのにそれが違う、ってなったらね!

あんなデータもこんなデータも取って、大方針を決めたのにそれが有効じゃないってなったら。がっくりしちゃう。今までのあれはなんだったんだよ!ってなる。

そう、そうやって自分コンピューターは大混乱。え?あの人、そういう面もあるんだったら、今まではこう言ってたけど、こういう風に言った方が良いのかな、とか、いやいやそんなわけはない。あの人は〇〇なんだから、そんな風に言ったらだめだって!とかね。そんな風に思い悩まないといけなくなる。それって超・めんどくさい。またいちからデータ取り直しかよって、ちょっとイラっとする。

でね。自分が変わりたいって思っている方。「自分を変えたい」という状況の時にね、このイラっとするめんどくさい構図が、そのまま自分の中に出現してるんですよね。

乱暴な言い方をしてしまうと、自分の知らない・意外な面を見るよりも、〇〇な自分に絶望している方が、実は自分的に圧倒的にコスパが良いんですよ。

だって、ほら、いちいちまたデータ取りにいかなくて済むし。もし自分が〇〇な自分じゃなくなっちゃったら、〇〇な自分じゃないことを言わなくちゃいけなくなったり、しなくちゃいけなくなったりね。ほらもう、考えただけでめんどくさくないですか?

ってことでですね。「また私、同じことしてる。。。自分を変えたいのに。。。」って思っている方、安心してください。実はもう、変えたい自分っていうのは自分の中にある自分なんですよね。〇〇な人が意外な一面を持っているように、自分の中にも変えたい自分は既にある。

「またやっちゃった!」っていうのは、そのデータを「やっちゃった方向」に取りに行ってるだけなんですよね。なんで?って、そっちの方が慣れてるから。営業だって、既にお得意様のところに行った方が楽じゃないですか?そこにいけば成果はあがる(=データは取れる)し、何より既に知ってるお客さまの方が、営業に行くのも気楽ってもんだ。

「やっちゃってない!」って方にデータを取りに行くのはね。気が重いんですよね。それはキライなあいつのイヤじゃなくて、すごいな!って思う面を見るのが気が進まない(だってあいつは〇〇みたいなクソな奴だから)のと、やってることは変わらない。そのまま嫌ってた方が対応がラク

ですからね。自分が変わらない、とお嘆きの貴兄に。自分が変わらなくて絶望しちゃうのは=めんどくさいってことですよ、とお伝えしたい。ええ、めんどくさいだけなんです。それが自分への絶望ってものの正体です。

仕方ないな、、もう。めんどくさいけど、データを取りに行く場所を変えるよ!って思い至った時点でね。変われます。いやもう、その時点で変われてます。データを取る場所が変われば、え?こんな自分もいるの??っていう違うデータが必ず取れます。そのデータが取れれば、自分は一時期大混乱になるかもしれない。でもその大混乱こそが、自分が変わるってことです。

だからね。自分を変えるって、自分の性格とか悪いところを直すっとかってことじゃないんですよね。ただデータを取りにいくところを変えればいいだけ。その途中、嗚呼やっぱり私は変わらない!って絶望しかけたら、ああ、自分はめんどくさいって思ってるんだな、と、ちらっと思って頂けたらですね。自分のその気持ちの持っていき方を、ちょっと変えられるかも。

ってことで、安心して違うデータを取りに行きましょう。その時点でもう、自分は変われている。私はそう思います。

 

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アドバイスの功罪

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例えば、何かがうまくいかなくて困っている、とか、どっちを選べばいいかわからなくて悩んでいる、とか。そんな時、欲しいものに「アドバイス」があるんじゃないかと思う。

自分では対処ができない、判断するのムリー!という時、適切なアドバイスをもらうことはとても助かる。迷っている時に「こうしたらいいんじゃないの?」と背中を押してもらうことで、空回りしていた自分の気持ちや、スタックしていた状況が動き出す。

今、このアドバイスというやつが、あらゆるところに溢れている。新聞や雑誌。何かの広告、フリーペーパー、そしてもちろんあらゆるネット上に、いちにちとして「アドバイス」を見ない日はない。

それは効率的な仕事の方法だったり、お金の稼ぎ方だったり、恋人をゲットする方法だったり、ダイエットだったり、まあ、いろんなお悩みがあって、そのお悩みを解決すべく、その道の権威とされる人たちのアドバイスが日々、てんこ盛りである。

ある意味、こういった情報が安価に、または無料で手に入る時代というのはすごいなあと思う。以前にも書いたけれど、今、私たちがアクセスできる情報の量は数十年前とは比べ物にならない。なんともありがたい時代である。

お手軽でありがたいのだけれど、しかし、このお手軽にアクセスできるアドバイスの「罪/負」の側面について、思うことを書いておきたい。

まずひとつは、アドバイスはコントロールと表裏一体の側面がある、という点である。まずもって、アドバイスを受ける前提に「何かに悩んでいる自分」がいる。この悩んでいる、という状態は、外界からの情報にとても反応しやすくなっている。当たり前だけど、自分で処理できない何かに悩んでいるわけで、本人はその解決をしたいのだ。そこをめがけて「これが解決方法ですよ」と、解決方法が提示されたら。誰だって喜んでその方法に乗ってみたくなる。その悩み、そのものに悩んでいる場合には。

あなたをコントロールしたいという欲を持っている人にとって、悩みを抱えているあなた、というのは恰好のターゲットである。悩んでいる人にアドバイスをすれば、その人はアドバイス通りに行動してくれるかもしれない。悩んでいる人が何かのサービスや商品に多額のお金を払ったり、何かの教えに従ってくれる。古典的だけど、でも、毎日こういった事例は枚挙に暇がない。

こういった例は、実は日常生活の中にたくさん存在しているように見える。例えば、自分の思う通りに子どもを育てたい親、教師、会社でやたらに口を出してくる先輩、上司。「あなた/お前のためを思って言うのだけれど」という言葉をもし耳にしたら、本当にお気を付け頂きたい。決めつけたくはないが、このように言ってくる人のアドバイスは、あなたを自分の思うようにしたいだけの体の良いコントロールでしかない、ということが往々にしてあるからだ。

そして多くの場合、このコントローラーは、自分がコントロールをしているということに気が付いていない。本当の善意とか、熱意とかから、自分があなたを導いてあげている、という神々しい使命感を感じておられるだけなのである。それが人をコントロールすることなのですよ、ということにお気付きでない。

それがコントロールかどうか見分けるのは実は簡単だ。あなたがそのアドバイス通りにしない場合の、そのコントローラーの反応を見れば一目瞭然。その通りにしないあなたにいら立ったり、圧をかけてくるような場合はその人はコントローラーである可能性が高い。その後あなたがそのアドバイス通りにしたら急にゴキゲンがよくなった、という場合、コントローラー確定!と言っても良いだろう。

コントローラー達は、あなたのお悩みが解決するということは二の次なのである。これがアドバイスの負の側面のひとつだ。彼らはとにかく自分の影響力を行使したい、それだけのモチベーションで行動する。だからこの手の人たちのアドバイスにはぜひ、ご注意を頂きたいところである。

もうひとつ、私がアドバイスに対して怖さを感じる側面がある。それは、そのアドバイスが、あなたの未来の行動を決めてしまう暗示となってしまうことがある点である。先ほどお伝えした通り、悩んでいる人はとても揺れやすく、無防備な状態であることが多い。そこに、ある意味鮮烈、的確なアドバイスがされた場合。恐らくアドバイスを受けた側は、納得してアドバイス通りの行動をとるだろう。まあそれが、言ってみればアドバイスの「功」の部分でもあり、それで問題が解決したり、進捗したりすると大変ありがたいわけである。

しかし、このアドバイスする側の影響力があまりにも強い場合。アドバイスに呪われるかのように、自分の人生がアドバイスを超えることが出来なくなる。どういうことかと言うと、そのアドバイスに自己暗示的に従ってしまい、その影響力を過剰に受けた結果、現実をそのアドバイス通りの展開に変える力を、人はどうやら持っているらしいのだ。

アドバイスをもらう→その通りになる→ますますアドバイスを信奉するスパイラルが現れる。アドバイス範囲内でしか物事を考えなくなる、他人軸の人生のはじまりだ。そのアドバイスはまるで麻薬のように効いて、自分の悩みを解決してくれるが故に、自分軸でものごとを考えることを放棄してしまう。かくしてあなたの人生は他人のアドバイス通りのものになっていく、というわけだ。アドバイスの言葉の持つ力を、過小評価しない方がいいかもしれない。特にあなたが憧れていたり、この人の言うことは絶対だと思う人からの言葉は、たいへん大きいパワーを持つのである。

アドバイスは時に、自分ではどうにも動かせない状況を変える魔法になる時もある。だからこそ、だけれど、その負の側面にも自覚的でありたい。

自覚的であるためのひとつの方法がある。それは、自分の悩みに対し「なぜ自分はこれに悩んでいるのか」という問いを持ち続けることだ。うまくいかないことを、うまくいかせたい、そのこころは一体何なのか。なぜ自分はそれをうまくいかせたいのか。恋人が出来ないという悩みを、自分はなぜ今抱えていて、なぜそれを解決したいと思っているのか。実は、お悩み解決以上にこの悩みの背景や、悩みの持つモチベーションを見つめる、という行為はあなたの人生にとても役に立つ。そして、人生の新しい意味をもたらしてくれるかもしれない。

悩みをきっかけに、自分がどんな人生を、どんな展開を望んでいるか、ということに思いを馳せる。そうやってあなたが、ご自身のお悩みに対峙することで、ああ、自分はこんなことを望んでいたのか!ということに気が付くかもしれない。そういった意味で、悩みというものは、自分の人生を展開していこうとする起爆剤となり得る。今、何かに悩んでいることがあれば、だけど、解決方法を探す前にその悩みそのものにも目を向けてみて頂けたらうれしいな、と思う次第である。

 

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大きな主語の下で語られているもの。

f:id:Warumi:20200729052450j:plain最近、SNSを流し見していると「主語の大きさ」がどうにもこうにも気になってきた。大概は「我々日本人は」とか「私たち国民が」とかそんな感じ。主語が大きいと言っても「我々地球人は」とか「我々宇宙人は」にはならないのが、個人的にはたいへん残念に思うところである。

もとい。それの何が気になるかっていうと「えっと、私たちって一体どこまでの人たちのことを言っているのかな?」って、ちょっと気になってしまうからだ。

まあ、色々ね。これまで言い古されていることは色々あるんだと思う。

例えば

「私たち日本人ってほら、他の人と一緒じゃないといやなタイプじゃないですか~?だから私たちって書いておくとみんな一緒って感じで穏便です。」

こうやって書くとき、主語を「私たち日本人」ってしておくと書きやすい。読んだ方も、そうね~私たち日本人ってそうよね~と同意しやすい。

或いはこんな感じのもあった。

「ああいう行為は私たち日本人には耐え切れないくらい、ひどいふるまいです!」

非難されていたのは確かにそりゃないよね、という行為だったのだ。しかしなんでまたそこで主語が「私」じゃなくて「私たち日本人」ってなるんだよ、と私はね、気になってしまったのである。

その気になった時、思い浮かんだのは幼い頃のキラーフレーズのこれ。

「だってね!クラスのみんなこれ持ってるもん!持ってないのは私だけだから買って!」

で、これも定番の突っ込みが親や先生から入る。曰く

「みんなって誰?」

ってやつだ。

「〇〇ちゃんもー、〇〇くんもー、それからそれから」

と言い分を聞くと、大概は「みんなが持ってるんじゃないじゃないの!」と、親に反論されて買ってもらえない。確かにまあ、かなりの数の子どもが持っていることもあるけれど、それにしても、親には親の「買わない」事情があるから、こういうやりとりになるんだろう。

そうやって子どもの頃は「みんなって誰?」と頻繁に突っ込まれたものだった。しかし大人になった今はどうだろうか。いや、突っ込む人は一定数いるのだろうけれど、前述の日常的な会話の中で

「その日本人、というのはどの範囲で仰っているのですか?」

と聞いたら、なんてめんどくさい人!と言われてしまうだろう。会話も気まずい感じになるかもしれない。これまた日本人にあるまじき「空気の読めない人」確定である。

ってことは、だ。「私たち日本人」ってのは、それが書かれた&言われた時点で、書き手/話し手が、読み手/聞き手に「同じ日本人であること」を期待しているのかもしれないなあ、と思った。

道理で天邪鬼の私が反応するわけである。大人げないが、見ず知らずの方のコメントについて、既に自分も「同じ日本人」だとカウントされるのは、いささか不本意に思ってしまうからである。

しかしまあ、その程度であれば、心の奥で「私はその日本人に入っていませーん」とつぶやけばよいのだろう。個人的には日々そうやって流している。

しかし流そうとするたびに「みんな持ってるもん!」という言葉が頭の中に響く。自分が思うところの「世界の真ん中の集団」に入っていたい、というあの欲求。もちろんおもちゃやゲームも欲しいのだけれど、それ以上に「持っていない自分はだめ、許せない」という無邪気な自意識のことが浮かぶ。

その無邪気な感じが、何の気なしに書き込むSNSやweb上に溢れている気配を感じて、ため息が出る。

その上にだ。「世界の真ん中の集団」を形どるラインは刻々と変わる。いや、そもそもそんなラインなど本当はあってないようなものなのだ。しかし自分のその無邪気さは、調子の良さへと姿を変えて集団のラインを簡単に行き来する。

その時に「私たち日本人」という言葉はたいへんに便利だ。私たち、という言葉の影に隠れ、まるで免罪符のように、今日の所属グループと明日の所属グループを変えることが出来る。自分の意見を変えることに無自覚であるのか、それとも変わった、ということを悟られたくないのかわからない。けれど、大きな主語は、その揺れ動いて行き来する自分の姿を隠すのにたいへん都合が良いんじゃないかなあ、と思ったのだ。

いや、変えるのは一向に構わないじゃないか。個人的にも変化は大好物だ。しかし、少なくとも、私自身は変わることには自覚的でありたい。

「私たち日本人」の主語に続くコメントを読む。いろいろな考えがあるんだな!と本当に勉強になる。そうか、そういう視点だとそういうように思うのか!と唸る時も多い。

しかし、そのコメントに続く、一見書かれたコメントに同意しているかのように見えて、何度読んでも「これは、、、同意なのか?」とわからなくなるリプライがある。意見そのものの内容よりも、コメントの一部である方が大切であるかのように、私には思えてしまうことがあるのだ。

たくさんの意見や考えが溢れているように見えるこのSNS上で、行われていることは、実は陣地(情報)取りゲームだったのかもしれない。それが、人間が持つ安全感を担保したい本能が成せる業なのかわからない。

そうやって人は何かを考えているようで、そして自分の意見を持っているようで、実は身の安全戦略をSNS上に繰り広げているだけなのかもしれない。その考え、主張、情報をここに書く、その底に流れているものは一体何なのだろうか。

私たち、と主語を書く時、だから私はそれに敏感でありたい。それが本当に自分のなかから出てきたものなの、私も自分に問いたいと思う。それはもしかして、自分の主張や内容そのものよりも、もっと大切なものかもしれない、と思う次第である。

 

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ミッドライフ・クライシス(中年の危機)。

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いきなりですが、このことばをご存知でしょうか?

ミッドライフ・クライシス。

どこかで耳にされた方も多いんじゃないかなと思います。日本語にすれば、所謂「中年の危機」(しかし、この日本語は。。なんかちょっと悲しすぎるのは、私がその年齢だから。。?)と呼ばれているもの?である。

ja.wikipedia.org

(「第二の思春期」ってのも、ちょっと恥ずかしい。。。何れにしても恥ずかしい響きは免れないのかしらん。)

40~60歳くらいの間にやってくる危機。wiki様にも書かれているけれども、この年齢に差し掛かる頃、ひとは何かに直面し、人生を見つめなおすこととなるらしい。そういう時期ですよ~ということだけならいいのだけれど、これは思春期同様、時期でもある以上に危機なんですよね。そういう意味では「第二の思春期」というのは正しい。っていうのも思春期のBoys & Girlsのように、衝動的な行動を取っちゃったりするのもこの時期の特徴なのである。

今までやったこともないマラソンやダンス、楽器なんかを始めた、くらいなら「おお!それはいいですね♪」と言える。もう一度学校に入りました!とか、本を書きました!YouTuberになりました!も素晴らしい。しかし、今まで車やキャンプなんぞに見向きもしなかった方が、急に誰が乗るのよ?というオープンカーやキャンピングカーを買っちゃって、家族や同僚をびっくりさせる。中には糟糠の妻を捨て、若い女性に入れあげた挙句離婚に至る、とか、いきなり妻が知り合いと駆け落ちをする、とか。

或いはそんな派手な危機の方が少ないのかもしれないけれど、ある日突然あらゆることに興味やる気をなくしたり。付随してアルコールの量が増えたり、眠れなくなったりもする。自分でもわけがわからずに当惑してしまう。こっちの方が断然多くの方が経験される危機なのかもしれない。

以前こちらの記事でも書いた通り、ユング先生曰く、人生は前半と後半に大きくわけられるという。恐らくこの「中年の危機」を境にして。

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前半は達成や獲得の時期である。「私」が、がんばる時期。がんばって勉強をしたり、それで進学したり、資格を取ったり。職に就いたら、今度はそこでも競争に勝ってお給料UPや、偉くなるためにがんばる。いろんな人やチャンスと知り合ったり、お金をためて家や車を買ったり。そう。そんな風にして、とにかく、私ががんばって積み上げる時期、山を登る時期なのだ。

そしてある時前触れもなく後半がやってくる。気が付くといつの間にか、山頂に到達していたらしい。自分が登ってきた道のりをふ、と振り返る。上から見ると、なんでこの道を登ってきたのか?と呆然とする。見れば見るほど、もっとましで楽そうな道がたくさん見えるからだ。ああ、あの時こっちを選んでいたら、とか、あっちの方が良かったんじゃないか、と後悔したりする。

それに、だ。これまでは「山頂を目指す」という明確な目標があった。それが、いつの間にか自分は山頂にいることに気づいてしまった。山頂を目指すというモチベーションがなくなった今、これからどうしろというのか?と狼狽える。どうやら残されているのは、下山の道だけのようだ。登り方は熟知しているけれど、しかし下り方がわからない。下界を見続けるモチベーションというのもよくわからない。さてさて。。。

ため息をつきながら、今度はまわりの景色を見る。すると。。。なんと、自分が登った山よりも更に高い山がたくさんあるではないか。あちらの山はこちらより、もっとお花がいっぱいだったり、何ならリンゴが生っていたりする。その山を登っている人のまた多い事!なぜ自分はこの山を選んで登ったんだろう、、、と落ち込む。でも、今さらあの山まで登りきる体力も気力もない。さてさて。。。

というように、こころの中がもう、大変な危機状態にさらされる時期。それが「中年の危機」という時期であり、危機である。

そして前回も書いたけれど、現代は出来るだけ高い山をまっすぐ、せっせと登る人がすばらしい、ともてはやされる世の中である。日本一とか世界一といあ。そういった高い山は誰もが知っている。でも、その険しい山を登れる人は限られた人だけである。

きっともうちょっと昔の時代。自分の登る山と他人が登る山をそんなに熱心に比べることってなかったんだろうな、と思う。でも今は「右じゃなくて左の道を行った方が楽らしい」とか「あの人はこの山を登ってるらしい」とか「あの山にはこんな素敵なものがあるらしい」とか「そもそも山って登らなくちゃいけないものなの?」とか、もう、ありとあらゆる情報が自分めがけて集まってくる。

ただ下山の仕方がわからない、と悩むだけじゃなくて、登りながらもいろんな選択の悩みがひっきりなしに自分を襲ってくるわけだ。今、歩いているこの道が、果たしていいのかどうか。まわりの景色も、まわりにいる登山者もそうなると目に入らない。ずっと「この道でよかったんだろうか。。。」という自問自答が胸を占める。登ってるだけでもつらいのに、心の中も忙しくてつらい。

現代におけるこの「ミッドライフ・クライシス」というものは、そんなわけで、以前よりももっと大変な時期になっているんじゃないかって、私は思うのだ。

自分が登り道で得られなかったもの。それを山頂から嘆いたり、或いは他の山を見て後悔したり。本当はもう、下山の道を模索しないといけないのに、そのために山頂から降りられない。大勢の人が登ってきて、降りていくのに、自分は降りる気にもなれず、さりとて他の山を目指すのでもなく、ただそこに座り込むしかない。

そう!山を下るのも相応の体力が必要だし、足腰に負荷がかかる。いつまでも山頂で泣いたり、後悔したりを繰り返すうちにあっという間に時間がたつ。身体も老いる。そうすると、ますます下るのが怖くなる(私なんて最近駅の階段を下るのだってこわい!)。

で、ですね。私、思ったんですよ。山にはね、やっぱりこの世のものではないようなもの達がいてくれたらいいんじゃないかって。なんかこう、人間の尺度でものごとを見ない、生きていないものたち。狐でも狸でもいいや(化けるほうね)。

なんかこう、化かされるっていうんでしょうかね。キレイなお姉さんでもいいし、かっこいいお侍さんでもいいし、ティンカーベルでも、セイレーンでも、木霊や精霊でもいい。そういうものたちに、導かれちゃうっていうか、連れていかれちゃうっていうかってすごく良いんじゃないかって。

気が付いたら、え!?ここお屋敷で、あんなに歓待されてたはずなのに、なんで私、枯葉の上で寝てるの!?とかでもいいと思うんですよ。あんまり不思議で笑っちゃって、それ、里の人に話したくなりません?自分こんな目に遭いました!みたいなね。

は?なんですかそれ?って思われた方ごめんなさい。でもね、このまっすぐな道一神教みたいになっている世の中で、中年の危機を迎えるって、自分に相当の負荷がかかるんじゃないかと思うんですよ。負荷が大きければ、その反動も大きくなる。最早いきなりスポーツカー買ったくらいじゃ収まらないかもしれない。収まらなくて、自分や人を傷つけるようなことをして、それまで自己責任って言われたら悲しくて、たまらないじゃないですか?

だからちょっとこの世とあの世のさかいめ、のようなところにいるような存在にね。目を奪われちゃって、連れて行かれちゃって、気が付いたら下山の途中だった!みたいなことが起こったらいいんじゃないかな!なんて思ったのでありました。

そんなことが起これば、また人生の後半の自分のものがたりも、ファンタジックな違う目線で描けるんじゃないかな、って思うんですよね。少なくとも私は、何合目の何メートル地点がどうだった、というよりも「狸にばかされてさあ!」という話を、着いたら里の人には伝えたい。それで「えー!そりゃもう、バカすぎるじゃ~ん!」みたいに一緒に笑ってもらいたい。そして山の方をみながら、ふ、と、あの存在は一体なんだったんだろう、、、って思いを馳せることもしてみたい。そんな風にして、気が付いたら「中年の危機」が終わってた、ってなったら最高じゃないかなってね、そんな風に思ったのでした。

理詰めのセオリー、エビデンス。それは本当は安心材料のために人が考え出したものだったはず。でも、いつの間にか私たちはそれに自分を当てはめることに疑問を持たなくなった。そんな時代、わたしだけに見えた〇〇、わたしだけが体験した〇〇、というものが実はとてもたいせつなものになるんじゃないかって思う。

下りの道に書く自分のものがたりは、せめて自分オリジナルなものであってほしいと願っている。

 

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一本道。曲がりくねった道。

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。。。すっかり忘れていた。世が世なら?今頃は、トーキョー・オリンピックが華々しく開催されていたはずの日々だったのだ。テレビのニュースでそれを思い出し、なんとも言えない気持ちになった。

本来であれば、オリンピックに出場し、活躍する筈の選手の方たちのコメントを聞きながら、しみじみ切ない気持ちになった。このオリンピックのためにあらゆる努力と犠牲を払って得たチャンス。これがこんな前代未聞のアクシデントで、宙ぶらりんの状態になるとは、去年の今頃、誰が予測出来ただろうか。無常とはまさにこのことである。

それにしても。まだ若い身空の選手の方々の立派さと言ったら。立ち居振る舞いやその物言いに、彼らの親世代のこちらとしては、恥じ入るばかりである。その立派さたるや、非の打ち所がない。

厳しい鍛錬を積んだ結果、そのような立派な風情になられたのかもしれない。幼いころから見知らぬ大勢の人の視線を浴びて育ったが故?の独特の、洗練された大人さ加減をも感じる。

ひとつの目標に向かって、一心不乱に努力する姿は美しい。まさしく非の打ち所がないうつくしさである。三日坊主である私にとって、努力をし続けるという行為そのものが既に神々しい。そして、その努力の合間合間のステージにおいては、勝てば栄光が手に入り、負けてもそこにはドラマが生まれる。色々テレビの演出もあるだろうから、ご本人の本当の意向は正直わからないけれど、好むと好まざるを得ず、まっすぐな一本道を邁進されておられるのは間違いないだろう。

まっすぐな一本道の人生。境地を目指し、難関をクリアしていく人生。これがテレビで華々しく放映され、それを見る私たちは感嘆する。スポーツ選手だけではない。「情熱大陸」や「プロフェッショナル」に代表されるような、ひとつの道を究める、という人生のロールモデルを讃える番組はゴマンとある。そして(私はやらないから本当のところはわからないけれど)子どもたちから大人まで夢中のゲーム自体が、ひとつひとつの段階をクリアすることで次に進めるような設計になっているんですよね?なんだか、一億総まっすぐ教、みたいなものじゃないだろうか、今のこの世の中は。

そう、私たちはまっすぐな一本道、専門を極める人生の尊さを幼いころから見聞きし、その素晴らしさを刷り込まれている。幼いころから例えば、親からそのような人生を期待されるのだ。ちょっとピアノが弾ける、ちょっと絵が描ける、それだけでうちの親が数十年前に何と言っていたかと思い出すと、恥ずかしさに身震いする。学校では先生が、クラブ活動をしていればそこのコーチや顧問が、習い事の先生が、まっすぐな道を歩めと子どもたちに奨励する。

しかし。私たちの中のどれくらいの人たちが、実際、まっすぐな道を歩む人生を送れているというのだろうか。小さい頃から目指すところがはっきりとしていて、それに向かって歩める人がどのくらいいるのだろうか?

何度も迷いながら、未だにはっきりとした人生の目的などもわからずに、寄り道だらけの人生を歩いている。そんな方も少なくないのではないだろうか。学生の頃思った夢をつないで、社会人になり、それからいろんなことを経験しつつも、それでも一定の道を目指せた人は、逆にとてもラッキーな人じゃないかと思う。ツギハギだらけの偶発的人生を送っている私から見ると大変にまぶしい。しかし、私のような曲がりくねった人生を歩いておられる方も、同じくらい、いやそれ以上にいらっしゃるんじゃないだろうか?

よくテレビにも取り上げられる子どもの頃の卒業文集の「将来なりたい職業」。それさえも、本当に自分がなりたいと思ったものを、私は書けなかった。書けなかった、というより、自ら目指したい未来像がなかった。小学校卒業の折には、その時の担任の先生が期待している、彼が喜びそうな職業を書いた。自分がなりたいものなど、全く思いつかなかったのである。人の期待に応えることが、いちばん自然で大切なことだと疑いもしなかったから。まあ、私のようなこんなこまっしゃくれた子どもでないにしろ、あの時「大統領」だの「天皇」など無邪気に書いていたあの同級生たちは、どんな道を歩いて、今、何をしているんだろう。

そう。本当の意味で何かを自分で決めて選ぶ、ということをある年代になるまで、私はして来なかった。一見、我と気が強そうに見えるが故に!そして本当に割と大胆に決断するので、まわりの人から見ればまさか、私が自分の人生を自分で選択してなかった!なんて嘘だ~と言うだろう。

しかし瞬発力で選ぶしかなかった、というのが本当のところだった。決めきれなかったのは自分の意思がわからなかったからだなんて、自分でも気が付いていなかった。だから勢いでどうにかしていた。気が付いたのはずいぶん歳をとってからである。自分が自分を見事に騙していた。もうびっくり!である。

しかし、そんなからくりがあったことを知って尚、本当に何を目指すべきか、なんて未だにわからない。わからないまま手探りで歩いている。今もそうなんだから、きっとこの人生が終わるまで、そんな風に寄り道だらけのくねくね道を歩いていくんだろう。

オリンピック選手のようなまっすぐな人生を送れる人って、いいなーーと未だに羨望する。それに比べて、、、と我が人生の曲がりくねりぶりにため息もでる。ため息をつきつつ、でも前に進むしかない。

ひとつだけ一本道よりいいことがあるとしたら、それは、こっちの道の方が休憩スペースがいっぱいあったことだ。曲がりくねってるから、歩いているうちに迷いに迷って「もう知らんわー!」とそこに座り込んでしまうことができた。曲がってる道で座り込んでいても、まわりからはよく見えない。そんな感じだから、こちらからも、他人がどんなにまっすぐな道を邁進していようがよく見えない。

この歳になると、この道、休憩スペースのありがたさがちょっとだけわかる気がする。そしてThe Beatlesのこの名曲のシーンも。この歌詞の中に閉じ込められて、もし、まだ泣いている自分がいたら「こっちの道も悪くないよ♪」と声をかけてあげたいと思う。未だに「あなたの場所」はどこかなんてわかってないけどね☆

Many times I've been alone
and many times I've cried
Anyway you'll never know
the many ways I've tried

何度もひとりぼっちになって、その度に泣いた。
そんなこと夢にも知らないと思うけど、ものすごく頑張ってたんだよ。

But still they lead me back to the long and winding road
You left me standing here a long, long time ago
Don’t keep me waiting here, lead me to you door

でも、またこの曲がりくねった道に連れ戻されちゃう。
ずっと前にここに立ってなさいって置き去りにされたけど、
もうそのままにしないで。あなたの場所まで連れてって。

 

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つらい。けれど、後に宝となる生きづらさに思うこと。

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例えば自分の人生、出来事、運、性格のようなものの中に、既に自分は〇〇にはなれない、とか、縁がない、とか、ムリだ、と諦めてしまっているもの。そんな諦めが自分の中にあるように思う。

幼い頃は「〇〇になりたい」とか「〇〇がほしい」とか無邪気に願っていたはずなのに、アンラッキーなことに、その願いを叶えることが出来なかった経験がいくつか重なる。そしてある時、自分はそれを手に入れることが出来ないのだ、と結論付け、そしてその喪失感に傷ついてしまう。それ以上傷つきたくない、それ以上は耐えられないと思うから「〇〇は私のキャラじゃない、私には〇〇は要らない」としてしまう。

今日この本を読みながら、改めて自分の中に大きな諦め、みたいなものがあるメカニズムがすっと見えたように感じた。

サターン 土星の心理占星学 新装版

私は占星術は正直、詳しくはない。「しいたけ占い」あたりを読んで、毎週月曜に励まして頂いたり、大好きなSUGARさんのこの占いを読んでは、煩悶、悶絶したりするくらいのふつうの星占い好きである。

それでもユング占星術が重なり合っているところには、ピンポイントでとても興味があって、自分の星まわりをチェックしたり、ギリシャ神話を照応しては、うーん、とこれまた唸ったりしている。

今日たまたま、自分はここがつまづいてるなあ、、、と改めて感じたことについて色々思うところがあって、自分の「土星」についてじっくりと調べて考えた。

占星術に詳しい方は既にご存知かもしれない。が、この「土星」というのはその人の人生において、その人が制限や困難を感じる、ある種の生きづらさみたいなものを象徴する星であるらしい。この土星がどの位置にあって、他の天体とどう関係しているか、によってその困難の種類?がある、というあたりはThe 占星術だ。

しかしこの本の中では、あなたの困難ってこれじゃないですかー?ってことだけが述べられているだけじゃなくて、その困難を抱えてしまうメカニズムはこうじゃないですかー?とも書かれていて、それは、もろに心理の世界にかぶっており、誠に興味深いのである。

本によると、私のホロスコープはこの土星と金星の関係性がちょっと激しめ、だそうである。まさに幼少期に自分が得られなかったものに絶望して(!?)、「もういいです!私はそれ、ムリってわかりましたから、決して望みません!」とばっちり決意しちゃって、自ら幕引きをはかってしまっている。でも、その絶望感のもっと奥底には「ほんとうはこれが欲しかった。。。」という切ない願いが押し殺されていて、その押し殺されている願いがか細い声で「苦しいよう。。。」と訴え続けている。これはもう、自らの願い?に対する虐待のようなものだから、そりゃ苦しいよね、、、と虐待されている私の願いにほんとに気の毒だし、何なら申し訳ない思いでイッパイになる。

そして土星ってのは、私の人生においてこの構図を演出?している、ちょっと厄介な星だそうである。ひど言い方をしてしまえば、不幸製造&投影機の如く?か。

でもね。これは占星術を離れて思うのだけれど、これまでの私の思い込み上、これはもう、たいへんなギフトであり、ひとつの指標?みたいなものなのだ(そうは素直に言いたくない気持ちもありつつも!)。要は「ここにあなたが望んでいた、宝に化ける何かが眠ってますよ」と教えてくれるのが、この不幸製造&投影機のお役目なのである。

人ってどうやら、何のひっかかりもなく、苦労もしない、疑問を持たないことに対しては何の興味も持たないものらしい。まさに私も自分の生きづらさの根源に、自分と人との関係性、そしてその関係性によって引き起こされる様々なドラマ、という一大テーマがある。小さい頃から、このテーマに自分が何の苦労もなく、悩みもしなかったら、心理学を学ぶこともなかっただろうし、今こうやってブログを書くこともしていなかったと思う。良くも悪くもこんなに人の気持ちを察したり、汲むことも出来なかっただろう。

そしてそれはどんなに恵まれたように見える人の上にも起こりうることらしい。恐れ多くもゴータマ・シッダールタは何不自由ない身分に生まれ、ありとあらゆる富や幸せを手に入れられた。にも関わらず、その環境の中でなぜか「苦」について深く憂慮したことから、お釈迦様への道を歩み始められたわけである。お釈迦様にとっては、その恵まれた身分や環境こそが不幸製造&投影機だったというわけだ。

この不幸製造&投影機の存在を、人はどうしたって意識せずにはいられない。そして、気づいた後は、自分の中の眠れる&暴れる猛獣に「お前は猛獣じゃないんだ!目を覚ませ!」と忍耐強く対峙しなくてはいけなくなる。これが誠につらい作業であるから、どうも人はそれを環境や他人の所為にしがちである。

お釈迦様が悟りをひらくまでに長年修行をされたように、しかし、私たちも何らかの忍耐を以て、この猛獣を飼いならさなければならないようだ。それは、まさにお釈迦様が悟りをひらくための瞑想中、マーラがあの手この手でお釈迦様を悟らせまい!と頑張っちゃったことにも重なる。

ja.wikipedia.org

(怪物を送り込んできたり、色仕掛けにしたり、お釈迦さまを悟らせまいとマーラも頑張ったのである。)

そしてこのマーラを退けることが出来た時。人はどうやら、たいへんな宝・贈り物を得ることが出来るらしい。それは心のなかで押し殺されてた本当の願いが叶う、という形で。それはお釈迦様が「悟り」という願いを叶えたように。或いは「美女と野獣」の野獣が数々のベルの献身と愛によって無事、王子さまの姿に戻るように。そういった意味で、私たちはどうやら内なる野獣に忍耐強く接して、本来の願いの姿をこの人生に出現させるために、不幸製造&投影機を装備して来ちゃったようなのである。なんとまあ!!(もうちょっと人にやさしいシステムにしてほしかった。。)

私に限って言えば、だけど、たぶん自分のこころの中に虐げられている願いが、まだ猛獣に見えているんだろう。いや、これだけ長きに渡って虐げられれば、願いはそりゃ猛獣に化けて当然だ。正直、猛獣に対応するのは気が思いけれど、彼を猛獣のまま閉じ込めておくことは忍びない。この人生が終わるまでには、どうしても!この願いを王子の姿にしてあげたいと思う。それが私にとって願いが叶うってことであり、宝となるはずのものだから。

ご自分の人生や出来事、お悩みのなかに、もしも生きづらさを感じておられる方がいれば、ご一緒にいかがでしょうかね?どこかで一緒に頑張ってるよ!って方がいらしたら、私も相当励まされます。生きづらさのもとは色々。それは人間関係かもしれないし、愛情、家族、お金、仕事、出世、名声?ダイレクトに幸せ?あと何だろう?とにかく、それでつまづいて、それにずっと悩まされている生きづらさの根源のようなもの。それこそが、私たちの土星であり、魔物であり、そして宝となるはずのもの。もしかして人生の一大目標にしてもいいくらいなのかもしれない。

今はもう、ただの魔物にしか見えないけど、やっぱりそれが宝でした!って自分でも言いたいし、数多くの方のそういう体験や瞬間に立ち会っていきたい。魔物を退けるまでに相当大変な思いをしてしまうこともあるだろうから!お互い「ああ、それは大変でしたよね、本当にお疲れ様でした。実は私もね、」なんて、語り合ってみたい。あらゆる魔物や猛獣の姿を想像しつつも、そんなことを思ったいちにちでした。

 

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