Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

青い鳥はおうちにいたのね。

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「はい、じゃあなたの長所を5つ挙げてくださいね」

「仕事はあなたの強みを生かせるものを選びましょう!」

こういったことをリクエストされる研修的なものを会社なんかで経験された方も多くいらっしゃると思う。大概、たくさんの質問に答えてどのタイプの点数が高い/低いとか、初対面のひとと一生懸命ワークしあって、自分の強みとか、性格とか、自分の傾向、なんてものを確認する作業だ。

自己理解、とかね。方法のひとつとして有効だと思う。ほんとに思ってる!

なのでこれは超・超・個人的な「感想」なのですが、私はね、これ、占いとおんなじだなって思ったのね。「わー当たってるーーー!」的な?感じ?占いとかそういうのもひっくるめて大好きな私な私が、そういったワークも占いも、どちらも受けまくって得た感想だ。

いえね、診断もちゃんとエビデンスもありますし、ファーストインプレッションで他人はあなたの情報の多くを読み取れるんですよ。占いをばかにするんじゃない。

ええ、それ、とっても正しい。それが間違ってるとか、それじゃだめ!とか言ってるわけじゃない(ちなみに占いは大好きすぎて、現在もろもろお勉強中です)。私がここで自分の経験として申し上げたいのが、それがね、どれだけ自分が「納得」できたか?そして「そうですけど、それが何か?」って言っちゃえるくらい当たり前じゃん、そんなの!って思えてたかどうか、ってことだ。

何十年もの間、私はそうやって他者が作った判断基準、或いは判断、診断、アドバイス?それで自分ってものを理解してきた。他者からみた自己像もたいせつだ。人間はそもそも他者との関係性の中ではじめて存在するものだから。仏教的に言えば、あなたがいなければわたしもいない、ということになる。確かに凡夫の私には、知らない方との関係性までは想像し得ない=存在しないってことになる。

けれど、ふ、と振り返って思ったのだ。他者の視点を介さない自分ってのは一体何なんだ?どこにいる?と。

例えば性格診断やワーク以外にも、他人からあなたにはこんな素晴らしい能力があって、こんな魅力もあってetcetcと並べて頂いても、私はそれをずっと自分のことのように思えなかった。思い込もうとはしていたけれど、うすい皮膜いちまいくらいの、しかし絶対破れない拒絶感があった。

どうして?って、私には小さいころからの訓練で自分や他人の長所と短所が私の中に同時に浮かんでしまう、という癖?があるからだ。よく言うでしょう?優しいのと優柔不断なのはいっしょ。意志が強いというのと頑固というのはいっしょ。その物事の両極が私には誉め言葉といっしょに立ち上がってきてしまうのだ。要は誉められれば誉められるほど、私には短所を数え上げられてる、と錯覚してしまうシステムが内蔵されていたというわけだ。じゃじゃーん!

もうひとつある。「はあ??あなた(診断)になんて私のことが全部分かるわけないでしょう??」というこれは、前者よりも強烈な拒絶感だ。いわゆる中二病というやつですね。当たり前だ。他者が私を全部わかるためにそんな診断をしているわけではない。もちろんいい年をした私は頭では分かっている。しかしこの拒否感からくる他者への威嚇が、常にからだの中にある感覚として存在するのは否めなかった。

まあ、簡単に言ってしまえば、わたしはとってもめんどくさいものを自分のなかに持っていて、それが自分への理解や、自己に向かうさまざまなベクトルをよってたかっていじり倒しているっていうそういうことです。

そういう人間にとってね、自己理解だの自己肯定感だの自己充足感、とかね。けっ(失礼)って感じだったわけですよ。何言っちゃってるの?と。

同時に、例えば就職のときの面接で「私はこんな有能です♡」ってアピールするのも、もちろん技術的には問題なく出来る。しかし自分で熱心に面接官に話しつつも、「え?まじで?」って心の中では違う声が同時進行で聞こえてきちゃう。まあ、大人の方便ってやつね、ってもちろん頭ではわかってはいるけれど、自分が嘘つきみたいで、その後で人知れず軽く落ち込んじゃったりしてもう、面倒でかなわなかった。

私はこれを心理学や仏教や瞑想、というもので解決したかったのだ。いや、解決できるって思ってた!しかし心理学って問題解決できるんだと思ってた。で既に語ったように、いいところまで来ていた気がするのだけれど、どうしてもブレイクスルーが出来なかった。そこに私を心底納得させる「納得感」が足りなかった。そしてそれを見なかったことにはできないって思った。もう、ウソやふり、はたくさんだったのだ。

 

そんな私への救世主となったのが「琵琶」だった。

ああ、驚いた!

博物館からの帰り道、それ以外にも繰り返し繰り返し自分の前に立ち現れてくる琵琶や飛天のイメージを反芻し続けているうちに、私の中で確固とした「納得感」が生まれてきたのだ。それはどんなに他者からすごいよ、と言ってもらってもなお、信じられなかった自分が!その自分の中に生じてくる疑念が、ぜんぜん浮かんでこないという奇跡!

私が琵琶から得た納得感。それは自分の生きざま、というか私の存在そのものについてである。

私はもともと、天才とか職人とか、ひとつの道の求道者という人たちに強いあこがれを持っていて、自分もなんとかしてそういった「何者か」になりたかった。でも、どうしてもそういうひとつのものを突き詰めて達成できない自分がいた。いろんなものに手を出しては、あれもこれも違うな、と後退し続けていたように思っていた自分。それが、私の破れない皮膜のような否定感を強烈にサポートしていた「自己像」だった。

琵琶を手に舞う飛天の像の氾濫を思った。シルクロードのかーんと響くような青く澄み切った空や、その下を往来するキャラバンを心に思い浮かべていた。以前見たジブリの「かぐやひめ」の月からのお迎えのワンシーンも浮かんで来た。

。。。そうか!私は前座担当なんだな、と、何と表現したらよいのだろうか、一瞬、からだを撃たれたように、そんな理解がそのイメージから落っこちて来たのだ。

「はいはーい♡これから真打登場でーす!その前にちょっと楽しんでってね~♪」と、場をつなぐ担当だ。これからお出ましになられる真打(神さま?お釈迦さま?)の紹介をしつつ、場をあたためておかなくちゃ!琵琶持ってるんだから音楽でみんなをノリノリにあげて、真打登場の瞬間は最高潮♡でバトンを渡したい♪

これが最初に湧いたイメージだった。このイメージがあまりにも気に入ってしっくりきたので、この後もひたすら意識的にも無意識にも、琵琶や飛天や天女や弁天さまを追い続けた。日々そのイメージに触れていたくて、弁天さまの地に引っ越しまでした。

その後も思いがけない出会いが続き、私の納得感はさらに深く、そして自分というものへの見方が自由になってきた。そうやって来る時も来る時もイメージを反芻していくうちに、ふ、と思い至ったのだ。なんだ!青い鳥ってそういうことか!ずーっと欲しくて欲しくて探し続けていたものは自分のすぐそば、どころか自分の中にあった。探すべきは自分のなかだったのだ、と。それは天邪鬼の私がようやく自分、というものを思ったとき深い納得感を感じられたられた瞬間だった。ようやくスタートラインに立つことを選べたのだ!

そして同時に、私はこの私の中に面々と流れている無意識のちからのすばらしさと不思議さを再確認したのであった。

よって身分違いの恋?も併せて、ここからスタートするのである。

 

つづく