対等ってなに?
そうなのだ!私は今さらながらに無意識に降参したのだ。無意識、そして、無意識の中に無限大に漂っているであろう、未知の世界、未知の自分、そして未知そのものに。それはまるで畏怖のような念を感じるまでに。
無意識とお近づきになりたくて矢も楯もたまらないしー。
ここのところずーっと無意識のことを考えているしー。
人と話すときも無意識のことばかり話してるしー。
これはもう、恋ですよね?♡それもかなり重度のやつですよね?♡ だってずっとずっと探してきた人に巡り合えた、みたいな感覚なのだから。
しかし、ここにきて私はちょっとびびってしまったのである。このわたくしごときが、フロイト大先生や、ユング大先生を向こうに回し、無意識のことを語ることができるのか、、、自分の体験だけで、という疑念が頭をもたげてきた。せっかく理想的で恋に落ちることが出来る相手が見つかったというのに!なんてことだ!
身分をわきまえた方がいいんじゃないの?という声がした。ユング大先生の本やお仕事の全貌も知らず、前に書いたような修行のようなトレーニングも受けず、無意識と恋に落ちる資格、貫く自信が自分にはあるのだろうか?
そしてもうひとつ、どうしても自分の中で折り合いをつけたい、と思っていることがあった。それは特にカウンセリング、という形を取る際のクライアントとカウンセラーとの関係性の話である。
これは臨床心理をお勉強する人が必ず知っておかなければならないことの最低ラインのようなものである。
まずもってカウンセラーはクライアントの伴走者たれ、という大前提がある。クライアントの前を行ってはいけない。クライアントの悩みや問題に、むやみやたらに答えを提示して、カウンセラーの思う通りの結果を出させるように仕向けてはならない。クライアントの会話そのままを聞くように努めること。クライアントの話にカウンセラーの価値観に基づくようなジャッジメントをしてはならない。
もちろんこの他にも「やっちゃだめよ」というルール、あるべき姿、という指針のようなものも山のようにあるのだが、それはすべてクライアントを守るため、そして心理療法の効果を最大限にするため、という大前提なのだ。そしてそのことにはまったく異存はない。
しかし、しかしだ。ここまでクライアントの立場を守る、というルールを並べてみても尚、だ。私にはカウンセラーとクライアントが対等である、って出来そうだよ♡とはどうしても言い切れなかった。
カウンセラーは色々とお勉強した上で、経験もたくさん積んで「すでに色々知っちゃっている人」なのだ。例えばだが、カウンセリング目標をクライアントと一緒にたてる上で、まったくカウンセラーがクライアント任せにして放り出すようなことはしないだろう。まずはカウンセラーの「見立て」という作業が必要で、そこにはカウンセラーの意図がどうしても入らざるを得ない。
そこを経験、存在感、その人なりの個性、共感性、という武器を以ってカウンセラーはクライアントとの関係に対等性、というものを担保し、この議論の次元を超えていく。そしてそれが真っ当なカウンセラーのあるべき姿、なのだ。
で、だ。大人の皆さまにはわたくしのこの暴言を黙認していただきたいのだが
「私にはそんなのむりじゃね?」
っていうのが、わたくしのまた超個人的に思ってしまったことなのであった。
いや、もう、このくだり、何度も繰り返すようで恐縮ですが、それが可能な方はたくさんいらっしゃるし、そのために不断の努力と配慮をなさっておられる方ばかりである、ということは重々承知の上です。しかし「わたしには」難しそう、出来そうにない、と感じた。
なぜか。
それは私がクライアントとして数々のカウンセリングを受けた私の経験から来るものがひとつ。そしてわたしのような未熟な性格を持つ人間がそんなスタンスのカウンセラーになれるとはとても!思えなかったのがひとつ。
いや、ほんとぶっちゃけですね。私がカウンセリングを受けていてカウンセラーの方と「同じ立場だ」ってことを感じたことは(例外はあれども)、ほぼないです。それがふつーだと思ってた。それはカウンセラーの方がどうの、ということではなくそういうものだと思っていたからだ。これがカウンセラーだからちょっと話がややこしいけれど、お医者さんが相手だったとしたらもっと当たり前である(精神的な立場はともかく、患者さんよりも病気について知らないお医者さんじゃ、ちょっとこわい)。
そしてもひとつは私の性格によるものだ。10代の少女の頃からわたくしは既に「反骨精神」の塊なのである。毎日のように、私の中二病をさらしているようでたいへん恐縮だが、とにかく偉そうな人とか、人を人とも思わないような人たちがだいっきらいなのだ。よってわずかでも何かに刺激をうけてしまうと、この反骨精神がむくむくと沸き起こり、あっという間にカウンセラーに反抗的になるという(書いていてお恥ずかしい限りで消え入りたい気持ちである)まあなんだ、そんな感じなのだ。こんなの書けば、精神分析界隈の方はすぐに「ははーん」と私が拗らせているものが何なのか、なんてすぐにわかっちゃうんですけどね!あーやだやだ。
だから、わたしが本当にやりたいこと、の延長上にある他者とのかかわり方、についてはなんとかして自分が納得するあり方を見つけたい、と、ずっと考えていた。「なんかARTみたいなものを介してだったら出来そうな気がするよ!」という根拠のない思いは浮かんではいたのだけれど、いまひとつこれ、というものに辿り着けずにいた。
そしてつい最近、そこでスタックしている私の前にホドロフスキーのおじいちゃんが鮮やかに登場して、ど派手なマジックを見せてくれたのである。
つづく