Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

マジック・マジック・マジック!!

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自分の目で世界をみる

 

詩が僕の行く道を照らしてくれる

燃え盛る蝶のように

エンドレス・ポエトリー

 

はっきりとは思い出せないのだけれど、あれは1か月くらい前のことだったか。SNS上に「ホドロフスキーのサイコマジック」という映画の情報が流れてきた。ホドロフスキー、、、!そうだった。もう何年も前になるけれど「ホドロフスキーのDUNE」という映画がちょっと気になっていた。その頃は忙しさに紛れてそのままスルーしてしちゃってたな、と思い出しながら「サイコマジック」の予告編をクリックした。

 

。。。やばい!!これ、見なくちゃいけないやつだー!

 

ホドロフスキーが何の人だかよくわかってないけど、とにかくなんか絶対すごそうだからもう、観る!観る!観る!と自分の中で何かが突然盛り上がった。でもそこで「DUNE」を思い出した。なぜか?よくわからない。最近はそういう思いつきみたいなことをなんでかな?って思わずに、そうなんだな、って思うことにしている。

で、Amazonプライムさまで検索してみると、「DUNE」と「エンドレス・ポエトリー」という映画がリストにあることを発見した。GOODです♡今、時間だけはたっぷりある私は、早速「エンドレス・ポエトリー」から見始めた。息をのむ、ってほんとにそう、文字通りなんだ。映画を観ている間中、ほんとに息をするタイミングがわからなくなるくらい、完膚なきまでにこの映画にノックアウトされた。

youtu.be

なんかね、これ観る前、ホドロフスキーって自分の中では妙な前衛芸術のひと、っていう勝手な思い込みがあってね。映画もさぞ面妖な感じなんだろ?とちょっと身構えて見始めたんだけれど、とんでもない間違いだった!ご、ごめんなさい、ホドロフスキー

「リアリティのダンス」(これはまだ観ていない)に続くという、この映画はアレハンドロ・ホドロフスキーという(嗚呼、彼をなんと表現したらいいのだろう??)彼の人生の前半までを、あふれるようなホドロフスキーのインスピレーションから湧き出るARTで彩った映画だった。主人公を演じているのはホドロフスキーの本当の息子で、その父役も別の息子。。。時々、ホドロフスキーご本人も登場するのだが、まあそんなことは今はどうでもよい。

絵を見れば、その画家の目となってこの世界を見られるように、この映画もそんな感じで、私はあっという間にホドロフスキーの世界をみる目の中に入った。そこから見る日常って、、なんて魔法がいっぱいなんだろう!!もちろん、私の経験とホドロフスキーの経験はまったく違うのだけど、何て言ったらいいかな、、、そのホドロフスキーの中に入り込んで映画を観ながら感じるさまざまは、全然他人事じゃないのだ。まるでホドロフスキーが横に座っていて、言葉も交わしていないのに、お互いにアイコンタクトするだけで、ああ、私たちはこれ、を共有している、、、と切ないほどリアルに思える連続がとまらない。驚いた。ホドロフスキーの映画と自分の体験が、時空を超えてどこかで同時多発的に出会ってる。なんてこと!こんな映画をこれまでスルーしちゃってたなんて!

エンドレス・ポエトリー」の興奮冷めやらず、ではあったが、いちにち置いて「ホドロフスキーのサイコマジック」に自分を進めた。あんまりすごい体験だったから、ちょっと自分のなかでいったんこの体験を咀嚼したかった。

youtu.be

サイコマジック。ホドロフスキーオリジナルの心理療法。「エンドレス・ポエトリー」を観たあとで、彼の人生を思いながら観るこの「サイコマジック」は本当にリリカルでうつくしくて、胸が躍って、私は何度か泣いた。この映画に映るいろんなひとのからだそのものがとにかく美しすぎて、生きていて、ああ、わたしたちはここに生きているのだ、と、ホドロフスキーの中のわたしが叫んでいた。この生きている、っていうリアルさを生きているはずの私はつい置き去りにしてしまう。ここに顔があってここに目があって、、それだけでまるで世界のすべてを把握しているかのようにして、それが私、とか言っちゃってる。ああ、なんてそれが間違っているんだろう。。。このからだを忘れて、まるで対象物みたいに扱って、健康管理、なんて言っちゃって、嗚呼。その前にからだそのものの存在、その神聖さとうつくしさを感じるこの感覚を取り戻さなくちゃ。

「自分の目で世界をみる」

そうだ、表現はわたしたちそれぞれに固有のものだ。わたしたちは無意識の奥底にいくつもいくつもの、ものがたりを、象徴を共有しながら、それらをどのようにでも表現できる自由がある。こんなにいっぱいその自由がある。そしてそれは全部違う、人の数と同じだけ違うんだ。わたしが人生をどう生きるかってことは、わたしがどう表現するか、と同義だ。その表現を、表現のもとにあるべきこんなにうつくしいからだを忘れて、人生どう生きるべきか、なんてなんてナンセンスなんだろう!?

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そしてとどめは「ホドロフスキーのDUNE」だった。やっぱりこれを観なくちゃ完結しなかった。

「サイコマジック」を見て、すぐ向かったこの映画はもう、感動と抱腹絶倒が交互にやってきてわたしったらもう大変な騒ぎになった。そしてその大騒ぎがこの数日のわたしのちょっとした気の迷いを、爆笑しながら蹴散らかしてくれた。

「and then So What? AND THEN SO WHAT!!??」

人生における、または映画の世界における失敗、とされる体験。あっけらかんと、そしてまた心底悔しそうに「SO WHAT??」と叩きつけてくるこのホドロフスキーのおじいちゃん!なんて魔法なんだ!

この映画はもともとホドロフスキーが撮るはずの超大作「DUNE」を、もろもろの大人の事情で別の監督(デヴィッド・リンチ)が撮ることになり、結局ホドロフスキーが完成させることはできなかった、という軌跡を追ったものだ。そもそもホドロフスキー、この映画を10時間の大作!にするおつもりだったらしい。そして最高の映画を撮るために絢爛豪華なスタッフや出演者を集めまわって!。。。その頃のことを思い出しながらエピソードを語るホドロフスキーが本当に楽しそうで、顔がぱーっと明るく光ってて、話を聞いているこっちが幸せな気持ちになる。この世の大人の事情度外視で「私の世界の見方はこうなんだ!!」って見せてくれたかったんだね、と、彼をぎゅーってハグしたくなった。

失敗ってそれで失われるもの、奪われるものが大きすぎて死んじゃう、みたいなイメージが私の中にもまだたくさんあったのだ。こんなに自由なつもりでいても、まだ私は失敗、の持つイメージに勝手に囚われていた。

でも、本当の失敗の意味が、自分に、世界に、あなたに、あらゆるところに!いつ、どこで、どんな風に芽を出すか分からない種を仕込むことなんだって。ホドロフスキーのおじいちゃんはそれを自らの体験と情熱で教えてくれた。人体実験これに極まれり!である。ナイスなおじいちゃんすぎるじゃないか!

わたしも後に続かなくちゃって思った。魔法をつかって、種をばらまこう。ホドロフスキーが彼の人生のながい時間をかけて確立して、種をまき続けた彼の「サイコマジック」。私も僭越ながら、わたしのマジックをまっとうしようじゃないか!

嵐のようにやってきたホドロフスキーのおじいちゃんは、こんな風にわたしにもすごい魔法をかけてくれたんだ。

 

(つづく)