Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

あなたの神話をきかせてください。

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ホドロフスキーのおじいちゃんに背中をどん!と叩かれて、それで私は身分違いの恋を全うすることを、もろもろ納得尽くで決心したのだった。

これまで出会ってきた人、これから出会う人。とにかくこのわたしと何かのご縁を持った人と私は「無意識」を介しておはなしがしたいのだ。そして無意識の中のどこかでその人の何かと出会いたいのだ。これが私の今、もっともやりたいことなのである。

ここに引っ越したての頃、キネシオロジーのお勉強がご縁で、以来とても仲良くしている友人が訪ねて来てくれた。いつものように私たちはまた、とりとめもなくいろいろな話をした(いや、だいたい彼女が私の話をにこにこと聞いてくれているのだけれどね!)。ひととコミュニケーションをするって何を求めてるんだろう、どういうことだろう、、というような話に差し掛かったその時だった。うなずいて聞いてくれていた彼女の中に、何かが起こっていて、そして彼女の顔がぱっと明るくなった。同時に私のからだの深いところで、がちっと一瞬、何かが出会ったのがわかった。お互い「きゃー!♡」って言っちゃったんだけど、それがもう、なんていう体験って言ったらいいんだろうか!

いや、別にすんごいお涙頂戴的?感動ー!ってな会話をしていたわけじゃない。それに私たちは何年も前にロサンゼルスで1か月近く缶詰状態でお勉強をして以来、時々にいっしょに出かけたり、いろんな話をし続けていたのだ。

それでもなお、この時の会話の一瞬の感覚はわたしには鮮烈だった。もうよく知っているはずの彼女なのに、知らない彼女の一部に出会ったようだった。その彼女がもうかわいくてかわいくて(もともとすっごくかわいいのだけれど!)なんだろう、毎日書いていてヘンタイを公言するようだけど、ぎゅーっとハグしたくなっちゃったのだ。

私はいろんな人といろんな話をするのがとにかく大好きだ。だからこれまでも、出会った人たちといろんな話をもうたくさん!たっくさん!してきた。それが個人的なお友達であっても、勉強仲間、仕事の仲間や相手先、お客さまであっても。

特に旅行の仕事をしていた時には、一期一会的な出会いも少なくなかった。それでも旅行先や異国の地で思いがけず深い話をすることにも恵まれたように思う。そしてそのお客さまも、そして異国の各地にいる同僚も、本当にいろいろな人がいた。その後、全然畑違いの業界で今度はたくさんの研究者に会う機会があったのだけれど、そこでも私は知らなかった世界や、そこで生きている人たちのいろいろを知った。心理にまつわるお勉強をきっかけに出会った、それはたくさんの人たちも。

経験を積めば積むほど、そして、年齢を重ねて自分がいろいろな体験をすればするほど、その人のやっていることや背景や存在の匂いのようなもの。そして、嗚呼、きっとこの人はこんな気持ちなんだろうな、というような勘がどんどんよくなって、それは実際の会社の中でも、そしてカウンセリングの練習をしている時にも威力を発揮した。

今でもそれは相当楽しい。きっと死ぬまで私はこうやってたくさんの人とたくさんの話をし続けるんだろうと思う。いや、ぜひしたい♡

それでも、だ。それでもなお、私の中でまたそれとは違う「話し方」もしたいという願いが止まないのだ。それはホドロフスキーのサイコマジックのように、そしてここで彼女と何かが交錯した時のあの感覚を、会話の中にぶちこんでいきたい。そこに魔法をかけて、一瞬の出会いを出現させたいのだ。

「無意識」の会話(嗚呼、もっといい表現はないかしらん~!もっといい表現が落ちてくることを祈ってる!)。言語化できないのが無意識の世界であるとするならば、私のやりたいことはいささか矛盾しているのかもしれない。しかし、私もいくら身分違いの恋を全うしたいとは言え、相手(無意識)の全てを要求しているわけではない。ほんの一瞬の無意識の中での邂逅。これで充分だ。

そこにはおぼろげながら、しかし確固としたあなたの、そして私の一部が流れている。その流れに出会うとき、私は、あなたと私がほんとうに生きている、ということを実感する。そして、その実感、納得感、にはもはや何の説明もエビデンスも要らないのだ。まっすぐ「そうだ」と確信が持てる一瞬。そして誰の言葉でもない、外からやってきた思いでも反応でもない。自分のなかから湧き出てきたことば、あなたの生きる表現。これがあなたの、そしてわたしの本当の姿の一部であることを、にっこり笑って保障してくれる。

その、あなたが「これが私なのです」という、あなたの言葉で語られるあなたに会いたい。そのほんの一瞬の出会いを、私に体験させてもらえないだろうか?

 

人はなぜ追憶を語るのだろうか。

どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。-だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪痕を残してい行った事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。

北杜夫「幽霊」

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嗚呼、北杜夫についてもまたいつか、あつくるしく語らねばならないけれど!私の中学生の時からのバイブルのひとつ。この「幽霊」という小説の冒頭。私はこの文章が好きすぎて、無意味に一時期丸暗記していた。新卒の就職試験のときなんて、この本をお守り代わりに持って行ったもんだった。

さっきふ、と思い出して、久々にこの本を引っ張り出してきたのだけれど、嗚呼、こんなに昔から、、、と感慨深いものがあった。ひとの神話に惹きつけられた、その自分にまた出会いなおした。

一時期、私はこの「神話」をトラウマ的な甘くて、切ない個人の経験、として捉えていたのだけれど、それもまったくそうだと思うのだけれど!今日改めて、神話、と北さんが書いた意味を感じてみた。反応だけではない、その人の心の奥底に流れるものがたり。経験だけでは語り得ない、気配のようなもの。そして、神話を介してまた、人は自分や他者と出会うことが出来るのだろう。その意味で、それは神話でなければならない。

そう「どの個人にも心の神話がある」のだ。無意識のなかに「姿を失うように見える」ように流れているものがたりを、私は感じてみたい。そして蚕の気持ちも!

さて、どうやって?

(つづく)