Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

「愛してる」って言ってみなくちゃ伝わらない。

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字余り。

すみません、恋の相手はまたまた「無意識」です。

昨日書いたお話ではは、まさにこの「無意識を言葉に転換する」っていうことの尊さを語りたかった。

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同時に、言ったそばからすぐに!堂々と!矛盾するようだけれど、「無意識」の世界はことばにするのがとても難しいと感じている。無意識が持つ、存在やその奥の気配のようなものまで内包している、摩訶不思議な世界を言葉にしてしまうと、「うーん、言いたいことはなんとなくわかるんだけどさ。。。」みたいな感じになってしまう。

しかし、それが「無意識」への愛のアプローチなんだろうなって私は思ってる。

 ことばにしないと伝わらない。

 でもことばにすると、ちょっと違っちゃうかもしれない。

 だからって言わずにいたら、やっぱり伝わらない。

 勇気を出して「愛してる」って言ってみる

 何によろこんでるかよくわかんないけど、うれしかったみたいだよ!

。。。こんな感じ、伝わりますでしょうかね。。。?こういう逡巡やら疑問やら疑惑やらをはらみつつ、それでもまあ、よろこんでるなら、、、いっか。っていう感じの大人のコミュニケーションが、無意識とわたくしたちの間には求められるんじゃないかっていうわけである。

。。。OK!別の表現にトライしてみる!

すんごいわけわかんない抽象画の世界。お好きな方、或いは画家はいらっしゃいますかね?カンディンスキーとか、ポロックとか、ミロとか?とにかく何が描かれているのかまったく不明!っていうART作品。

そしてまた唐突に私の偏愛を語らせて頂きますと、私はわりとイヴ・クラインが好き。作品っていうよりも、彼の青の世界が青々としすぎて美しすぎて!イヴ・クライン、この青の色が好きすぎてご自身で「インターナショナル・クライン・ブルー」っていう顔料を開発してしまった、っていうそれだけのエピソードでもう好き。この顔料、十数年前?以上?に、私もどこかのミュージアムショップで手に入れました。今でも持ってる。真っ青な顔料。ちょっと自慢。ちょっと見るだけでうれしくなるくらいの青。

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話が飛びました!「無意識」のお話でした(すみません、好き、が起動すると好き、を止められない性質で)。

この抽象画を無意識の世界、に例えてみる。何が描かれているのか、ちょっとよくわかりません、、、っていうこの世界観こそが無意識の一面を現わしているように思う。そのキャンバスに描かれているものは、よくわからない。絵のタイトルを見てみる。「空間」。。。やっぱりわからない。なにそれ?

けれど、じっと絵をみていくうちに、何が描かれているか理解はできないけど、なにかこう気分が落ち着いてきたり、心の中にリズムのようなものが生まれたり、胸がちょっときゅっとなったり。いいかんじじゃん?うわー!キレイ!とか、なんじゃこりゃー!って気分がわっと上がったり。

自分がどうしてそんな気分になったのかって?それは絵の内容と同じくらいよくわからない。でもそんな気分になった。そんな時の絵画(無意識)とわけわからない自分(わたし)との関係性が似ているように思う。

映画でも壮大な景色でも、うつくしい何かでも。そんなものを見た時。かんたんにその心のうちを口にしたら、自分の感じていることが損なわれてしまうような、そんな気持ちになることがある。そのくらい、純度が高い感覚が自分の中にあって、ことばでは表現が難しいのだ。

またしても唐突ですが、映画館出たすぐあとに「ねーねー!あのシーンさ!まじすごかったよね!!あのシーンどう撮ったか知ってる?〇〇がさ!」っとかってね。急にわーっと畳みかけられるのはキライ。ちょっとお茶飲みながら、いろいろと反芻してからの、おもむろにハイテンションで語り始めるのが私流です(いつも私のハイテンショントークを聞いてくださっている皆さま、ありがとう~!)。

そう。無意識をことばに転換するっていう作業?もちょっとそんなところがあるのだ。自分の見た夢を、ただストーリーとして語っても、夢そのものが持っていたであろう気配まで相手に伝わらない。その気配に似た体験や、そこから発生する想像力がどこかにないか、自分のなかにそれを探しにいく。そうすると、夢から触発される何かが見つかったりする。それが自分の日常生活のことだったり、で、「あ!あの夢ってこういうことかも!?」っていうひらめきは、こういう時によく落っこちてくる!

ただこの無意識ってやつ、時折、複線の複線、みたいのを張ってるときがあるから只者じゃない。そんなときは、この自分の中に探しにいく作業が何回も積み重なって、一体どういうことだろうか。。。。という日々が続き。そしてある日突然「え?」みたいな驚きと共に閃いちゃったりすることがある(このカタルシス、一度感じていただきたい!)。

 

映画/夢の余韻を自分のなかで反芻しているとき=「でもことばにすると、ちょっと違っちゃうかもしれない。」

んー!やっぱりこの映画、ここが超よかった!って語りたい!=「だからって言わずにいたら、やっぱり伝わらない。&勇気を出して「愛してる」って言ってみる」

私:それでね!私はここがもう超凄いと思った!/友:あーWarumiさん、なんかめっちゃ楽しそうね~。ああ、そーゆーのWarumiさん、好きそう!好きそう!=「何によろこんでるかよくわかんないけど、うれしかったみたいだよ!」

こんなかんじ!

だから無意識を全部ことばに転換せず、雰囲気ごとそのまま置いておくっていうこと。

そして、敢えてそれをことばに転換して表現するっていうこと。

この両方が無意識とのトークには必要ですねっていうお話でした。

そして、絵画を見た時にその印象とか気持ちが人によって全然違うように、その表現はもう、ひとりひとりみんな違う。表現は違うんだけど、ああ、言ってることわかる気がするよー、うんうん、あそこのシーン、すごかったよね!っていう繋がり?みたいなものが感じられる。

この無意識のトークが大好きだなって私が思うのは、その繋がりが感じられることに感動するからかもしれない。

(つづく)