Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

「無意識」とお話しするとわかっちゃうんじゃない?と思ってるふたつのこと

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連日、「無意識とのトーク」についてあつく語り続けておりますが、みなさま、お元気でいらっしゃいますでしょうか?

最近はいろいろ夢想!みたいなものが湧いて出ては消え、またどこからやってきては去り、みたいな毎日を送っている私である。この可能性や未知に満ち満ちた「無意識とのトーク」について、いろいろなおもいがやまない。そのひとつふたつのまだ、たまご、みたいなお話を今日は書きたいと思う。

夢やイメージを追って、無意識の一端にアクセスするとでは一体自分にどんなことが起こってくるのか。

ひとつは、「あー私それ気になってたんだよね!(例)」と、自分でもびっくりしちゃうようなことに気が付くようなやり方ってないかなーっていうこと。問題って額にしわ寄せて考えてもね、手詰まりになっちゃうとつらいじゃないですか。その点、夢とかイメージって結構おちゃめ☆で、なんか、こう、とんちを仕掛けてくる、みたいなことがあってほんと、かわいらしい!(愛は盲目!)

何年か前、タイのテーラワーダのお寺でお坊さんをしておられるプラユキ師に、夢解きについて教えて頂いたり、実際の自分の夢についてお話をしたり、というありがたい機会を頂いたことがある。プラユキ師は、私たちが普通に想像する日本のお坊さんとはだいぶ違った雰囲気を持つお坊さんである。とてもチャーミングな語り口だけど、お話をしていると、ひょいっと問題?の核心に触れ、あれれ?という間にその問題への自分の見方や対処方法に変化が起こってくる、という体験を何度もさせて頂いた。また、瞑想なんてからきし苦手だった私が、唯一!続けられた「手動瞑想」という手を動かしながら、その時々に思い浮かんでくる思い、考えにOK!をしながら、瞬間瞬間に手放していく、瞑想を伝授しておられる。私にはとてもよかった。

ご興味がおありになる方は、プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」をご覧ください。

で、そのプラユキ師と自分が見た夢についてお話した中で、印象的だった思い出がある。こんな夢を見た。その夢のなかで私は料理をしていたのだが、間違って自分の小指を鍋の中に入れて煮込んでしまった(あ!心優しい人、だいじょうぶです!夢だから、血も出なければ痛くもなかった!)。で、わかっているのに、なぜかその自分の小指入りのスープ(だったと思う)を普通に食べていて、その時、口のなかで自分の小指がぐにゃっと(ああ、ごはん中の人、ごめんなさい~!)崩れ、わー小指食べちゃったよ!この食感、気持ちが悪いよ!という、なんだかよくわからない夢。一体これ何の夢??と自分でもまったく見当がつかなかった。

この夢のお話をプラユキ師としたときである。いくつかのやり取りがあった後、師が「Warumiさんにとって、小指ってなんなんですかねぇ」と尋ねられた。私は、うーーん、、、小指、、、と考えを巡らせた。数秒後に、あ!と思いついたのは「指切りげんまん」のことだった。ほら、小指で「指切りげんまん!嘘ついたらハリセンボンのーます!」ってやるでしょう?あれです、あれ。で、師に「指切りです!。。。約束?」と答えた瞬間、自分の上にその答えがわ!っと降ってきたのである。

それは、何年か前にとてもたいせつな約束をある人としたのだけれど、その夢を見た時には、私はその約束をした時の自分を脱皮し、新しく道を模索している時期だった。以前の私にはとても大事だったその約束が、その時の私にはもう必要がないものだ、と、理解するのに時間は要らなかった。

その時のことを思い出すと今でも不思議だ。プラユキ師の問いの後に、私は、瞬間的にその約束のことを思いだした。そしてもう、それが必要のないものだと改めて気が付かされた。更に。もうその約束は必要ないって本当はわかっていただろうに、それを見ないようにしていた自分(たぶん、それこそ無意識的に)のことが、さーっと1本の線でつながったのである。実に鮮やかな瞬間だった。

夢からイメージを追いかけると、顕在意識の自分の理解が追いつくことがある。そんな私の経験である。この、サポートがありつつの、でも自分自身でそれに気が付いていく、というプロセスは私にとってかなり強烈な体験となった。これをもっと身近なところでできないだろうか、というのが夢想のひとつである。

そしてもうひとつ。それは何回かに渡ってこのブログに書き綴ってきたように、私にとっては「琵琶」「シルクロード」「飛天」というようなイメージ。「無意識とのトーク」を起点に、その中に自分、というものを浮かび上がらせる、ということ。これをご縁のある方たちといっしょにやりたいな、というもの。

例えば「私何がしたいのかー」「私にできることってー」みたいな問いに、ふん!と不敵に笑うかのような回答をぶん投げてくるのだ、この無意識ってやつはもう!結構ツンデレだと思ってる。(あ、私の勝手な無意識へのイメージなのであんまり気にしないでください☆)

なんかこう、自分の価値とか、自分の向き不向きとかて何ですか!?みたいな、そういう問いそのものがちょっと気恥ずかしくなるような。圧倒的に「そうだろうよ!そうしかないだろうよ!」と畳みかけてくるかのような、自分の存在そのもの!みたいな、納得感を、そうだろ?きまってるだろ?とばかりに、この無意識とのトークはあぶりだしてくるのだ。

これは、私の経験上、なので、みなさんと同じかどうかはわからないのだけれど、「小指の夢」みたいのは、瞬間に答えがばばばっと落っこちてくる感じがある一方、こちらは、ヘンゼルとグレーテルがパンくずを追って道を戻ってきた、みたいな感覚がある。じわじわ系である。ほんとにそんな傾向?みたいなものがあるのか、ぜひ、お伺いしてみたいよう。

そしてこの自分への深い理解、というか、信頼、みたいなもの?(適切なことばが見つからない)は、それを使う、というよりは、それが私を守ってくれているものだ、と、私は今、つよく、つよく、そう思っている!

よく才能とか、強みとか言ってますがね。それを「使う」って発想がちょっとなんか失礼な気がしません?(そんなの私だけ?)私はそれよりも、私が私であるってことを、その深い理解&信頼みたいなものが、ぎゅっと守ってくれてるって考えるほうがなんか、しっくりくるし、なによりうれしい!使う、とか自分の一部だからなんかいや。大事にしてない感じがしてしまう。あー、そうなんだ!私のこと、守ってくれてたんだ、ありがとーーー!って素直に言える感じの方が好き。

だから、この自分の理解っていうか信頼みたいなものを、自分の芯のようにどーんと自分のなかに立てておく。それだけで、ああ、私は大丈夫だっていう、そんな気持ち?気持ちっていうか、安心感みたいなもの?で、日々のさまざまから人生のあれこれまで渡っていけそうな、そんな気がする。

そして、この自分の中に芯みたいなものを立てておくっていう、このインスピレーションみたいなもの?。それは、諏訪さまのいらっしゃる諏訪神社に行ったあとに、私の中にばーんといきなり展開してきたから、ちょっとびっくり!なのであった。

(つづく)