Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

Warumi、諏訪さまの地で柱に出会う。

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で、話は諏訪さまである。

諏訪さま、と言いつつ、いきなり先にこちらの正剛先生の動画をご紹介するのであるが、なぜならば、諏訪さまとこの動画のコンビネーションで私の勝手理解がおっこちてきたからである☆

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そもそも、諏訪さま(友人に倣って、諏訪の神さまを私も諏訪さま、と呼ばせて頂いております)は、かの有名な「御柱祭」のあの諏訪大社のことである。彼女の諏訪さま愛をずっと聞いている折、いつか連れて行って♪とお願いしていたのが叶い、私たちは旅に出かけた。

旅はほんとにいい。こんなコロナの時だから余計そう思う。ふだんとは違う空気感、目に入ってくるものがまったく違う異国感。まちかどでふと目に飛び込んでくる住所表記が好きだ。全然見慣れない道や住所のなまえ。あー!今ここに来ているんだ!って思ってさらに嬉しくなる。私は思いつきで、どこかいぱーん!と出かけていくってことをしないと、こう、体の中にそれこそ澱のようなものがたまってしまってかなわない性質である。今はかなりの試練の時なのである!

諏訪の旅は楽しかった。ひさしぶりにその友人とふたりでユカリさんキネシオロジーとアロマを使ったカフェキネシ、という手法をつくりあげ、活動されている。ご興味がある方はこちらをどうぞ☆)にも会えたし、そしてまだ雪が残る八島湿原にはじまって、諏訪の信仰の原点、ともいえるいくつもの場所に案内してもらった。

その日はとってもお天気がよくて、陽が雪にキラキラ反射して、空気がぱりっとしていて、ちょうど冬から春がどうもー!って出てきたばっかり、みたいな日だった。山の上にある湿原の空は、まるで生き物みたいに動いていて、手を伸ばすと届きそうだけど、でも本当に伸ばすとするっと逃げちゃうようにくるくると変わる。

しばらく八島湿原のわきを歩いて(息があがった!)そのとどのつまりに、旧御射山神社があった。かわいらしい大きさのそのお社は、その後ろの木立にたいせつに守られるようにそっと存在していた。空から吹き降ろされてくる風に揺られる木立の下で、お祈りをしている友人がかわいらしくて、私はちょっと離れたところからその光景を眺めてほーっとしていた。今でもその光景と風、光が自分のなかにふっと浮かんでくる。

そして翌日は諏訪大社の下社のふたつ、秋宮春宮に連れて行ってもらった。なんでしょうねーもう!春宮さまと秋宮さまを語るその友人の口調に(それぞれ、違う個性がおありになるのだ)私は神社以上に癒されて、サイコー気分の参拝だった。それぞれの神楽殿や拝殿のまわりをふたり楽しく歩いた。

そしてそれぞれの拝殿の近くに、それはあった。そう、「柱」である。それはほんとに木の柱(あまり加工していない)というか、丸太のような大きな木がどーん!と拝殿の横にそびえ奉られていた。そして私は初めて知った、、、この御柱は文字通り、「御柱祭」でだーーん!とあの山肌の坂?を落とされるあの木!「御柱」なのであった。わしゃわしゃ氏子のみなさんが乗りこなされている、あの巨木である。私は勝手に、御柱祭のあの木は神社のお社の一部として使われているものだとばっかり思っていたが、その「御柱」はなんと拝殿のまわりをとり囲むようにして四方にたっているのである。私にとってはちょっと衝撃の新事実であった。

それも手伝ってか、旅を終え家に帰ってからも、私の中で八島湿原で揺れていた木立と、この4本の御柱のイメージが時折、胸に去来した。すっくりと立っているあの木。風になびく木々の枝葉。

そして(やっと!)話は冒頭に戻るが、この正剛大先生の動画。「立てる柱」!という言葉に誘われて見始めた私は、途中、ひゃーー!!となった。それは話が木の「依代」の話に差し掛かった時である。この柱がたっているところには何かがやってきて、またかえっていく、と正剛先生は仰るではないか。その瞬間私のなかで、それって「無意識」と「私」の関係そのものじゃないか!というひらめきに似たビジョンが落っこちてきたのだ。

神さま(訪ねてくる神さま)が、柱にやって来られる。これは「無意識」から「自分」へやってくるなにかメッセージのようなものじゃないだろうか。自分の中に柱をたててさえおけば、無意識の中からなにかがやってきて私に語りかけてくれる。無意識そのものは、ことばでは語り得ない底知れぬ存在なのだけれど、柱にやってくる神さま?は、何かメッセージのようなものとして、無意識のかけらを運んできてくださるエージェントのような存在だ。その神さまがメッセージもってやって来る、という行為が、まるで無意識の一部をことばへと翻訳する、という行為とだぶるように感じられたのだ。無意識のなにかを、ある神さまという象徴的な存在が、メッセージに形を変えて「こんにちは☆」と訪ねて来てくれるような。無意識の一部と私との出会い方ってこんな感じじゃないだろうか??

だから自分の中に柱はたてておこう、たてておかなくちゃ。私はそう、思ったのだ。

そしてそれはまさに個人の神話、のことなのだと、北さんの小説「幽霊」をまた思った。ひとりひとりの中に流れある神話のものがたり。それに触れようとするならば、自分の柱におりてくる神さまのメッセージをことばにすることだ。少なくとも私にとってはそうなのだ。そのことばの連なりはその人の神話となる。そしてそのことで、逆に他者ともつながれる。だって神さまは誰のものでもないし(だいたい無意識のなかからは無限の神さまが出現するのだ!)。そしてどんな柱をたてて、どんなメッセージを受け取るか、というのはその人の無意識の「翻訳」だから。翻訳=表現は違えども、無意識下でつながるイメージはきっとつながっているのだ。ふかーいところで。そうやって私たちは、表現は違えどもそもそも出会えるようになっているのだ。

そして私の中の柱は人生のその時々で変わるのだと思う。諏訪大社御柱祭だって7年に1回は御柱を新しく立て替えているのだ。その時に立てておくべき柱、翻訳は時が来たら変えればいい。否、むしろ変わり続けるものなのだ。そうやってこころの神話はひとつ、またひとつと産まれては、様々なストーリーが展開して重なっていく。そんな神話の連なりが、私たちひとりひとりの中に脈々と流れている。

柱をたてようじゃないか。それも諏訪さまに倣って4本!と私は決心した。そしてその柱、とは前回ここで書いた「自分の芯」のようなものである。

warumi.hatenadiary.com

そしてその自分の芯=柱もまた、無意識からやってくるものだ。そう。自分の柱/芯や、メッセージは無意識との無限の循環のなかからやってくる。やって来ては去り、またやって来る。正解はない。翻訳はその人その人の好みの問題だから、これだ!というものは自分できっとわかるだろう。

その柱をたて、神話をつくりだすこの日々の営みこそがホドロフスキーが体現しているところのマジック=魔法じゃないのかな、と私は思った。そうやって毎日、一瞬一瞬に何かの魔法がかかってる!

そう考えると、この毎日がちょっと違ったものに見えてくる。私たちはまだ神話のなかに生きているのだ。そんな風に考えると、ちょっとほんとに楽しいんですけど!(また私をヘンタイ呼ばわりする友達の声が聞こえてきそう。。)

 

(つづく)