Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

逃げる時は、大きく逃げるに限るのだ。

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海つながりで、またひとつ、記憶が蘇ってきたので今日も思い出話にお付き合いください。

夏の狂乱のCambridge英検も終わり、秋からOxfordのビジネス専門学校に行くことにしていた私は、その間の夏休みを激しく満喫することにした。

前に書いた仲良くなったスイス人たちを訪ねてスイスに行き、それからフランスを南下してプロヴァンスコートダジュール♡(ヴァカンスっぽいでしょ!そういうをしてみたかった!)で、好きなだけ絵画を見て、アーティストの足跡を訪ねるのだ!

学校近くの旅行会社で格安のエアチケットを手配してもらって(あの頃はまだインターネット予約、とかなかった~便利な時代になりました)ほとんど何にも決めない旅に出た。試験も終わって、ものすごい解放感と共に旅立ったのである。

まずは仲良しになったクラスメイトを頼ってジュネーブローザンヌに向かった。ジュネーブローザンヌも派手さはないけれど、とにかくレマン湖沿いの風景がすばらしかった。湖沿いのこれらのまちをつなぐ電車の旅は、ほんとにほんとにすばらしい。

そして、イーストボーンで一緒に過ごした友人たちと、彼女たちの土地での再会。なんかちょっとした錯覚のような奇妙な感じもあり、ちょっと笑っちゃう感じもあって、端的に言って嬉しくてドキドキした。さあ、ヴァカンスとやらのはじまりなのだ☆

折しも季節は夏!レマン湖を望むなだらかなブドウ畑は、太陽の光に透けるような緑色で、遠くに臨む湖面といっしょにキラキラしていた。

輸出に足る量を作っていないそうなので、あまりスイスの外ではお目にかかることもないが、スイスワインはなかなかイケた!もっとも舞台の演出も整いすぎていた。レマン湖を見下ろしながらのフレッシュなスイスワイン!そしてチーズとサラミ。。。嗚呼、あの日に帰りたい。。

何でも夏の時期は、ぶどう農家が畑の中に自家製のワインを飲ませてくれるスタンド的なものをオープンするのだそうだ。ドライブの途中、彼女たちが行きつけのスタンドに寄ってくれた。そこでは時間がゆーっくり流れていった。遠くの虫の羽音がかすかに耳元で鳴っていて、、、白昼夢のように明るすぎる光が注がれた中でのワイン、というものをご想像頂きたい。とにかくサイコー。道理でヘップバーンもフレディさまも、この場所に安住の地を求めたわけである。納得。

この時のローザンヌも感慨深い思い出がある。仕事にいく友達を見送りがてらまちに出かけた私は、ガイドブック片手に何気に「アール・ブリュット美術館」を訪れた。

www.myswitzerland.com

ここでの出会いは衝撃だった。震えるくらい。ちょっと広めの家を美術館にしました、というくらいの空間に、凄まじいエネルギーを放つアート作品が所狭しと詰まっていた。ほとんど人もいなくて、しーんとしているのだけれど、その中に異形のものたちが息づいている。

この後とても興味を持つことになったヘンリー・ダーガー。ほの暗い美術館の一角に薄いパステル調の女の子たちが戦う絵があった。まるで遊びに行くかのような、ぽわん、としたお顔で大人と激しい戦闘を繰り広げるペニスを持つ少女たち。

www.artpedia.asia

神さまの声聞いてから、その後毎日お祈りのように神さまを描き続けたひと。宮殿のような巨大な家を飽きることなく描き続けたひと。一見もう、何がなんだかわからない縄の集積がざくっと階上から降りて来ていると思えば、何か怨念のように塗り付けらた色、色、色。

 

ショックだった。創造がそのまんま形をしている。描いてやる!っていうそういうのもない。ただなにか物凄くおっきなエネルギーみたいのに突き動かされて出てきちゃったもの。そしてそれを受け入れて、、いや、自分の一部としてただただそれを作り続けた人たち。それがとても大変な毎日であっても。

人の目、というものがことごとく排除された世界だった。運命とかそんな甘い感じとも違う。たぶん私にとってはそれがショックだったのだと思う。今思い返せば、だけど。人の目からの視点で自分にまつわるものを整え続け、自分を自分以上に見せることに血道を上げ続けたのに、それでもたいせつだった人に拒絶されたことで、その頃の私は大分参ってた。

これも後で思えばだけどね。とてもここには居られない!っていう思いがつのって、私は逃げたんだと思う。いきなりイギリスになんか行っちゃって。

私はわりといつも逃げるのが得意なのだけれど、それにしてもこの時の逃げ、は大胆だった。今もほんとに心から思う。参っちゃった時には大きく逃げるに限るよって。

何故って、逃げている途中でこんな風な出会いやことが、往々にして起こるのだ。そしてその「こと」は、その後何年もかけてそのインパクトと価値をアップデートし続けていく。そしてその「こと」も私もその度に、ほんのちょっとづつ変わっていく。気づかないくらい。でも気が付くとずいぶん遠くまで来ている。

後ろめたくて、もう戻って来られないかもっていう泣きたい感じ。それを引きずって逃げる。でもしょせん私たちはお釈迦様の手のひらの存在なのだ。逃げても尚、その「こと」との対峙は必ず起こってくる。だから安心して逃げたらいいのだ。

 

逃げるは恥だが役に立つ、って、ほんとにほんとなのである!

 

(ああ、結局海の話まで行きつけなかった。続きはまた明日)