Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

タダシイ、タダシクナイの表現型に思うこと。

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会社員時代何をやっていたのかな~?と振り返ってみると、「タダシイ、タダシクナイ」問題の解決、だったんじゃないかなと思います。もちろん仕事は仕事としてあるわけですが、私がやってきた仕事って、何かプランを策定したり、解決のシステムを作ったり、そのオペレーションを管理したり、という仕事が多かった。そういった仕事をする上では、以下のようなWarumi流の「タダシイ」が、仕事を進める上の指針みたいになってました:

 巻き込まれる特定のひとだけが大変にならない

 何かをやった人に「それやってくれてありがとう!」ってまわりが気が付く

 何もやってない人がやってる風にしてるのを「それちがうだろ?」とまわりが気が付く

 出来るだけ最小限の労力で求められている結果が出せている

 (Warumi流に)きっちりできてる=提供したサービスに満足してもらっている

 八方良し、のシステムを作って仕事をわかりやすくまわす

 期限を守ってる

こんな感じかな?(だんだん記憶が薄れてきましたけども!)。こうやって挙げてみると、改めてありゃ~これはめっちゃ自分らしいなあ~~!と思いました。そう思ったところでね、あれ?それじゃ私らしさがある「タダシイ」っていったい何なんだろうって改めて考えたんです。

例えば私と一緒に働いていた人たちには、それぞれに私とは違う「タダシイ」があった。同様にこれを読んで下さっている皆さまの「タダシイ」とは?っていうのもまた全然違うと思うんです。

でね、ちょっと話は飛びますが、この世の中は今や、あらゆるものに対して尺度、とか、計量とかで何かを「はかれる」ってことになっている(客観的データってやつですね)。会社で自分の意見を通したり、物事を決めたりする時にはもはやこれなしでは立ち行かないシステムになってますよね。

なんかね~!これ、すごくエモくないですか?って思っちゃった!「あー!真実の前に平等であろう、公平であろうってこんなに願ってきた結果、ひとはこのシステムを手に入れたのか~☆泣ける!」ってね!

もちろんそうじゃないケースもいっぱいあるんでしょうけれどね。「みんなにとってよかれ」という願いの結晶化がこの「客観的データ」だって、仮に考えてみますとね。そのモチベーションに、今こそ立ち戻ってみてもいいかなって思いました。

今、コロナ対応の是非、そして「BLACK LIVES MATTER」にはじまって(あ!「不倫問題」もあるね!)いろんなテーマについて、物凄い量の「タダシイ、タダシクナイ」論争があちこちで勃発してますよね~。

それを読んだり、自分でも考えたり、他人の意見を聞いたりしてね。混乱してきました。とにかく客観データを出せ!データのソースはどこだ?データの解釈に恣意的な忖度があるんじゃないか?世の中の支持率はどうなってるんだ?何パーセントの人が賛成/不賛成なのか?科学的根拠を示せ!!データ、根拠、結果!データ、根拠、結果!データ・・・ああああ!!!!ってちょっと圧倒されてます。

でね。思ったんですよ。多分このデータってやつは、結構エモい成分でできてるんじゃないかって。なぜかって?だって、誰かがそのデータが必要だ!って思ったのが一番最初のステップでしょ?そしたらどうしてそのデータが必要だって思ったのか、っていうその人の動機があるんだと思うんですよね。それってその人の思い、ってもんじゃないでしょうか?

思いはエモい。

冒頭私が「タダシイ」お仕事について思うこと。きっとこんな風な思い、みたいなものが根底にあって、それを証明したい、それを世の中に「データ」を使って示すことで自分の思いをわかってほしいいいいいいー!!!わかってーーーーーっ!!って、そういうことなんじゃないかな?会社員の時はそれが「タダシイ」って思ってやっていたことだけど、その根底に流れているものは「そういう風に思ってる自分がいますーー!」っていう思いの主張だったように思います。

だったらね。この「タダシイ、タダシクナイ」問題は、もう、それぞれの人の思いがいろんな方法で芸術品のように「表現されている」って思った方が自分としてしっくりくるな!って感じたんですよね。

また「上から目線」の高見の見物かよ!?って怒られちゃうかもしれませんけど、でもね。世の中のひとの行動ってみんなアート作品なんだな!って私は思ってる。美術館にキレイに陳列されている美術品ばかりがアートではないです。例えばバスを待つその人の立ち方から、きゅうりの輪切りの仕方、お友達と冗談を交わすそのことば、から始まって、ありとあらゆるものが「私の表現=アートなんだ」ってそう思った。

だから、この対策がタダシイ!このデモのやり方はタダシクナイ!とかって思っていらっしゃることがあるとして。それを例えば、この対策は「好き」、このデモのやり方は「好きじゃない」って、ちょっとことばを変えてみるとね、なんか言ったあと、違う感じになりません??(わー!これぜひ、みなさんのご意見を聞いてみたいな~!)

だって切ったきゅうりの輪切りの形を見て「この輪切りはタダシイ!」とかね。言われても???ってなっちゃいませんかね?(何かのテスト?)「あなたのバスを待つ立ち姿は非常にタダシクナイ!!」って言われたら、放っておいてくれ!!って私なら言っちゃう。

こういう怒りとデータがなんかごっちゃごちゃになってるカオスだ!と現状を見ると。嗚呼、人間ってやつは、、、とか、どいつもこいつもわたしもばかばかばか!!って、先がない、絶望的な感じがしてきてしまうんですけど。これ、アートの新しい潮流が起こってる!って思ったら、ついに!!ゲイジュツというものが私たちの生活に根付いてきたっていうこと??って、また私の妄想はキラキラとしてくるのでした。

いやいやゲイジュツだなんて!みんなもっと命をかけてやってるんだよ!!っていうご意見もあるかと思いますが、たぶんアーティストもそうだと思います。特に私の大好きなアーティストたちはみんなそうだもん。甚だぐだぐだではありますが、私の日常生活も、私のいのちを保持するために営まれています。

だから自分の思いの表現方法を、もっと自分軸に取り戻していかない?って思ったんですよ。マスコミとか、教育されたこうあるべき、みたいものに「それほんと?」「私それ、好きって思い込まされてない?」ってほんのちょっと疑ってみる。で、今の自分にちょうどいい!って感じる自分の表現をもっと見つけよう!って思ったら、ちょっといい感じがしてきました。

きゅうりの切り方を自分らしく、自分にちょうどよくする!だったら、今日からできるじゃんね?ってか、もうやってるじゃんね?あ!そうそう!「丁寧な暮らし」的なプロバガンダに負けちゃいけません。いかにきゅうりを美しく切るか、なんて雑誌のきゅうりと見比べちゃだめ。そういう他人由来の「うつくしさ」を目指すんじゃなくて、今の自分に出来るちょうどいい切り方があるし、なんならもう、そういう風に切ってるはずなんです。不器用なWarumiだが、きゅうりは切れる!(え?違うの?)もとい。なんか自分らしいな、この切り方ってきゅうりを見て思ったり、友達に「なに?そのきゅうりの切り方!(爆笑)」みたいなそういうのが、今の私の、あなたの表現なんだって思っています。で、おもしろいことに、それってどんどん変わるんだな~。

そういう自分の表現方がひとつひとつ自分でしっくりしてくると、きっとね、今、まさに家庭や会社で起こっていること、世の中で起こっていること、そういうのがまた違った風に見られると思うんです。こういう感じスキだな~とかキライだな~って。よく自分の好きをはっきりさせましょう!感じてみましょう!なんて言われますけどね、それだけじゃわからないですよね~。自分で表現してみてはじめてそれがスキなのかキライなのかを感じることが出来る、と、私は自分の経験からそう思います。

それにスキ・キライは、タダシイ・タダシクナイより圧倒的に疲れない!自分を疲れさせないって、この時代ほんとに大事ですね~!疲れなかったら、いろいろ余裕が出てきます。余裕、余白、ほんとにたいせつ。余裕があって初めて、私たちは「建設的なお話合い」っていうことができるようになる、と私は思う。

ってことで、私、もうちょっと自分の表現のかたちに意識的になってみよう!と決めたのでありました。このブログの表現もこれからどう変わっていくか、ちょっと楽しみであります♡