Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

信じることが簡単な人とそうでない人と。

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「信じる者は救われる」

とはよく言ったもので、生きていくに当たってはこの「信じる」という行為は相当パワーを持っている。

まずもって、自分の存在に対する根拠のない自信。自分がこの世の中の構成員である、なんてことを考えたこともありません!というような実に健全な信頼感。

世の中にはこの「自分を信じる」ってことについて何の疑問もなく、え?それが何か?と言えてしまう人と、自分を信じるって一体どういうことなのだろうか?と答えの出ない旅に出ている人といるんだなってことを、私はだいぶ大人になってから知った。そして私は断然後者である。

遅かれ早かれ、そこって誰もが通過する悩みだって思ってたんですけどね!世の中にそんなことも考えたこともない、という一派が、それもかなりの割合でいることを知って、私は衝撃を受けたものだった。

そこで思ったのだ。ああ、そうか、だからああやって自由にものごとを言えたり、行動できるんだな、って納得した。そうですよね~、自分が言ったことやったことの後に、どんなことが起こって、どんなことになっちゃうのかってことまで考える人は、あんなに天真爛漫にはなれない。

信じることが難しいのは、しばしば「生きづらさ」に直結する(とされている)。だから心理学の世界でもこぞって「自己肯定感」だの「自己有用感」だの「自己効力感」だの、と、それぞれ細かく定義をした上で、どれがいいとかっていう研究がなされている。例えばこんな感じ。

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多分、こういう風に自分を認めたり、肯定出来たりってことを積み重ねていくと、人生の中である種の達成ってものが出来やすくなったりするんだろう。「絶対に損をしたくない」という今の世の中で主流の価値観の中では、「自己有用感がないって人生損するよ」って言われれば効果テキメンだろう。

確かに。この先に何があるかわからなくて絶望的な気持ちで進まざるを得ない人と、何があるかわからないけど行っちゃおう♪って思える人は、先へと進むモチベーションも、それから先へ到達できる速度にも違いが出る。

それは例えば自己実現だったり、お金を稼げたり、とか、同志と巡り合えたり、目標を達成出来たり、とか。望むものを現実化するしって、それが「幸せ」ってものなんだろうな~って思うし、個人的にもそうなったらいいなあ~という気持ちもイッパイある。

こと、宗教とか、何かの信念を共有するグループにも「信じる」ってのはパワーワードで、「信心」ってものがなければ、至ることのできない境地というものがあるってことは、どのグループにもおもしろいくらい共通してある。だからカルトって、その「信心」を試すようなエキセントリックで踏み絵的イニシエーションが必須だったりする。ものすごく乱暴に言ってしまえば、それは「達する」ための覚悟を決める、重要な行為なんだろうな。

そしてこの信じることがミラクルでパワフルだとわかっていても、尚、ですね。どこか&何かを目指すために「信じられる」自分をある意味矯正していくっていう、その行為。またはそうしなさいよ、という無言の圧力が私にはちょっと薄気味悪く感じてしまって困ってる。なんか、そのキラキラした明るい未来、そこに辿り着いた勝者だけがにこにこしている世界って、まさにカルトの世界みたいじゃんね?って思っちゃうんですよね~どうしても(涙)。

信じるってことが、目指すところへの近道になりますよ、ってことはわかる。だから人生において遠回り(=損)をしたくない人がこぞってその近道を行きたい気持ちもわかる(半分の私はそうだ)。でも信じることを道具にしながら、その正道を行く時、私は本当にそれを望んでいるんだろうかって思いが拭えない。

ある意味、損をしたくない=生き残りたいっていう本能だから、ああ、そうか。人間は本能を知識的?に理性的?に肯定する時代に入ってるのかもしれないな、なんて穿った思いにかられることもある。

ひとつだけ自分のために自己弁護をさせてもらうと、そういう信じる行為にどうしても素直に馴染めないからこそ、見えている世界ってものは確かにあるのだ。ぐだぐだ言わずに信じたらいいじゃないのさって半分の自分が言っているけれど。でも、ここに苦労をしていると、少なくとも単一の価値観の世界にいなくて済む。それがどのくらいの価値があることか、正直よくわからない。単一の世界にいなくて済んでる代わりに、ものすごく損をしている気にもなる。他の効用は。。。よくわからない。

でもその損する、ってことを、半分の私はどうやらもっと極めたい、なんて思っちゃっているらしい。もう半分の損したくない私にとっては甚だ迷惑千万!なのだけれども。

それはもう、信じないを極めたところで、そこで何が見えるのか知りたいっていう好奇心以外何ものでもないんだろう。もしかして、結局、信じるっていう側から登って山頂を見に来る人と、私のように信じないっていう側から登る人と、それだけの違いなのかもしれない。

ただ「信じないから救われない」って一体どういうことになっちゃうんだろう?という実験を、進んで震えながらしているっていうのが、自分らしくもあり、文字通り救いようのない、、、と思ったりする日々なのでありました。困りましたねぇ。

 

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