Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

ミッドライフ・クライシス(中年の危機)。

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いきなりですが、このことばをご存知でしょうか?

ミッドライフ・クライシス。

どこかで耳にされた方も多いんじゃないかなと思います。日本語にすれば、所謂「中年の危機」(しかし、この日本語は。。なんかちょっと悲しすぎるのは、私がその年齢だから。。?)と呼ばれているもの?である。

ja.wikipedia.org

(「第二の思春期」ってのも、ちょっと恥ずかしい。。。何れにしても恥ずかしい響きは免れないのかしらん。)

40~60歳くらいの間にやってくる危機。wiki様にも書かれているけれども、この年齢に差し掛かる頃、ひとは何かに直面し、人生を見つめなおすこととなるらしい。そういう時期ですよ~ということだけならいいのだけれど、これは思春期同様、時期でもある以上に危機なんですよね。そういう意味では「第二の思春期」というのは正しい。っていうのも思春期のBoys & Girlsのように、衝動的な行動を取っちゃったりするのもこの時期の特徴なのである。

今までやったこともないマラソンやダンス、楽器なんかを始めた、くらいなら「おお!それはいいですね♪」と言える。もう一度学校に入りました!とか、本を書きました!YouTuberになりました!も素晴らしい。しかし、今まで車やキャンプなんぞに見向きもしなかった方が、急に誰が乗るのよ?というオープンカーやキャンピングカーを買っちゃって、家族や同僚をびっくりさせる。中には糟糠の妻を捨て、若い女性に入れあげた挙句離婚に至る、とか、いきなり妻が知り合いと駆け落ちをする、とか。

或いはそんな派手な危機の方が少ないのかもしれないけれど、ある日突然あらゆることに興味やる気をなくしたり。付随してアルコールの量が増えたり、眠れなくなったりもする。自分でもわけがわからずに当惑してしまう。こっちの方が断然多くの方が経験される危機なのかもしれない。

以前こちらの記事でも書いた通り、ユング先生曰く、人生は前半と後半に大きくわけられるという。恐らくこの「中年の危機」を境にして。

warumi.hatenadiary.com

前半は達成や獲得の時期である。「私」が、がんばる時期。がんばって勉強をしたり、それで進学したり、資格を取ったり。職に就いたら、今度はそこでも競争に勝ってお給料UPや、偉くなるためにがんばる。いろんな人やチャンスと知り合ったり、お金をためて家や車を買ったり。そう。そんな風にして、とにかく、私ががんばって積み上げる時期、山を登る時期なのだ。

そしてある時前触れもなく後半がやってくる。気が付くといつの間にか、山頂に到達していたらしい。自分が登ってきた道のりをふ、と振り返る。上から見ると、なんでこの道を登ってきたのか?と呆然とする。見れば見るほど、もっとましで楽そうな道がたくさん見えるからだ。ああ、あの時こっちを選んでいたら、とか、あっちの方が良かったんじゃないか、と後悔したりする。

それに、だ。これまでは「山頂を目指す」という明確な目標があった。それが、いつの間にか自分は山頂にいることに気づいてしまった。山頂を目指すというモチベーションがなくなった今、これからどうしろというのか?と狼狽える。どうやら残されているのは、下山の道だけのようだ。登り方は熟知しているけれど、しかし下り方がわからない。下界を見続けるモチベーションというのもよくわからない。さてさて。。。

ため息をつきながら、今度はまわりの景色を見る。すると。。。なんと、自分が登った山よりも更に高い山がたくさんあるではないか。あちらの山はこちらより、もっとお花がいっぱいだったり、何ならリンゴが生っていたりする。その山を登っている人のまた多い事!なぜ自分はこの山を選んで登ったんだろう、、、と落ち込む。でも、今さらあの山まで登りきる体力も気力もない。さてさて。。。

というように、こころの中がもう、大変な危機状態にさらされる時期。それが「中年の危機」という時期であり、危機である。

そして前回も書いたけれど、現代は出来るだけ高い山をまっすぐ、せっせと登る人がすばらしい、ともてはやされる世の中である。日本一とか世界一といあ。そういった高い山は誰もが知っている。でも、その険しい山を登れる人は限られた人だけである。

きっともうちょっと昔の時代。自分の登る山と他人が登る山をそんなに熱心に比べることってなかったんだろうな、と思う。でも今は「右じゃなくて左の道を行った方が楽らしい」とか「あの人はこの山を登ってるらしい」とか「あの山にはこんな素敵なものがあるらしい」とか「そもそも山って登らなくちゃいけないものなの?」とか、もう、ありとあらゆる情報が自分めがけて集まってくる。

ただ下山の仕方がわからない、と悩むだけじゃなくて、登りながらもいろんな選択の悩みがひっきりなしに自分を襲ってくるわけだ。今、歩いているこの道が、果たしていいのかどうか。まわりの景色も、まわりにいる登山者もそうなると目に入らない。ずっと「この道でよかったんだろうか。。。」という自問自答が胸を占める。登ってるだけでもつらいのに、心の中も忙しくてつらい。

現代におけるこの「ミッドライフ・クライシス」というものは、そんなわけで、以前よりももっと大変な時期になっているんじゃないかって、私は思うのだ。

自分が登り道で得られなかったもの。それを山頂から嘆いたり、或いは他の山を見て後悔したり。本当はもう、下山の道を模索しないといけないのに、そのために山頂から降りられない。大勢の人が登ってきて、降りていくのに、自分は降りる気にもなれず、さりとて他の山を目指すのでもなく、ただそこに座り込むしかない。

そう!山を下るのも相応の体力が必要だし、足腰に負荷がかかる。いつまでも山頂で泣いたり、後悔したりを繰り返すうちにあっという間に時間がたつ。身体も老いる。そうすると、ますます下るのが怖くなる(私なんて最近駅の階段を下るのだってこわい!)。

で、ですね。私、思ったんですよ。山にはね、やっぱりこの世のものではないようなもの達がいてくれたらいいんじゃないかって。なんかこう、人間の尺度でものごとを見ない、生きていないものたち。狐でも狸でもいいや(化けるほうね)。

なんかこう、化かされるっていうんでしょうかね。キレイなお姉さんでもいいし、かっこいいお侍さんでもいいし、ティンカーベルでも、セイレーンでも、木霊や精霊でもいい。そういうものたちに、導かれちゃうっていうか、連れていかれちゃうっていうかってすごく良いんじゃないかって。

気が付いたら、え!?ここお屋敷で、あんなに歓待されてたはずなのに、なんで私、枯葉の上で寝てるの!?とかでもいいと思うんですよ。あんまり不思議で笑っちゃって、それ、里の人に話したくなりません?自分こんな目に遭いました!みたいなね。

は?なんですかそれ?って思われた方ごめんなさい。でもね、このまっすぐな道一神教みたいになっている世の中で、中年の危機を迎えるって、自分に相当の負荷がかかるんじゃないかと思うんですよ。負荷が大きければ、その反動も大きくなる。最早いきなりスポーツカー買ったくらいじゃ収まらないかもしれない。収まらなくて、自分や人を傷つけるようなことをして、それまで自己責任って言われたら悲しくて、たまらないじゃないですか?

だからちょっとこの世とあの世のさかいめ、のようなところにいるような存在にね。目を奪われちゃって、連れて行かれちゃって、気が付いたら下山の途中だった!みたいなことが起こったらいいんじゃないかな!なんて思ったのでありました。

そんなことが起これば、また人生の後半の自分のものがたりも、ファンタジックな違う目線で描けるんじゃないかな、って思うんですよね。少なくとも私は、何合目の何メートル地点がどうだった、というよりも「狸にばかされてさあ!」という話を、着いたら里の人には伝えたい。それで「えー!そりゃもう、バカすぎるじゃ~ん!」みたいに一緒に笑ってもらいたい。そして山の方をみながら、ふ、と、あの存在は一体なんだったんだろう、、、って思いを馳せることもしてみたい。そんな風にして、気が付いたら「中年の危機」が終わってた、ってなったら最高じゃないかなってね、そんな風に思ったのでした。

理詰めのセオリー、エビデンス。それは本当は安心材料のために人が考え出したものだったはず。でも、いつの間にか私たちはそれに自分を当てはめることに疑問を持たなくなった。そんな時代、わたしだけに見えた〇〇、わたしだけが体験した〇〇、というものが実はとてもたいせつなものになるんじゃないかって思う。

下りの道に書く自分のものがたりは、せめて自分オリジナルなものであってほしいと願っている。

 

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