Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

大きな主語の下で語られているもの。

f:id:Warumi:20200729052450j:plain最近、SNSを流し見していると「主語の大きさ」がどうにもこうにも気になってきた。大概は「我々日本人は」とか「私たち国民が」とかそんな感じ。主語が大きいと言っても「我々地球人は」とか「我々宇宙人は」にはならないのが、個人的にはたいへん残念に思うところである。

もとい。それの何が気になるかっていうと「えっと、私たちって一体どこまでの人たちのことを言っているのかな?」って、ちょっと気になってしまうからだ。

まあ、色々ね。これまで言い古されていることは色々あるんだと思う。

例えば

「私たち日本人ってほら、他の人と一緒じゃないといやなタイプじゃないですか~?だから私たちって書いておくとみんな一緒って感じで穏便です。」

こうやって書くとき、主語を「私たち日本人」ってしておくと書きやすい。読んだ方も、そうね~私たち日本人ってそうよね~と同意しやすい。

或いはこんな感じのもあった。

「ああいう行為は私たち日本人には耐え切れないくらい、ひどいふるまいです!」

非難されていたのは確かにそりゃないよね、という行為だったのだ。しかしなんでまたそこで主語が「私」じゃなくて「私たち日本人」ってなるんだよ、と私はね、気になってしまったのである。

その気になった時、思い浮かんだのは幼い頃のキラーフレーズのこれ。

「だってね!クラスのみんなこれ持ってるもん!持ってないのは私だけだから買って!」

で、これも定番の突っ込みが親や先生から入る。曰く

「みんなって誰?」

ってやつだ。

「〇〇ちゃんもー、〇〇くんもー、それからそれから」

と言い分を聞くと、大概は「みんなが持ってるんじゃないじゃないの!」と、親に反論されて買ってもらえない。確かにまあ、かなりの数の子どもが持っていることもあるけれど、それにしても、親には親の「買わない」事情があるから、こういうやりとりになるんだろう。

そうやって子どもの頃は「みんなって誰?」と頻繁に突っ込まれたものだった。しかし大人になった今はどうだろうか。いや、突っ込む人は一定数いるのだろうけれど、前述の日常的な会話の中で

「その日本人、というのはどの範囲で仰っているのですか?」

と聞いたら、なんてめんどくさい人!と言われてしまうだろう。会話も気まずい感じになるかもしれない。これまた日本人にあるまじき「空気の読めない人」確定である。

ってことは、だ。「私たち日本人」ってのは、それが書かれた&言われた時点で、書き手/話し手が、読み手/聞き手に「同じ日本人であること」を期待しているのかもしれないなあ、と思った。

道理で天邪鬼の私が反応するわけである。大人げないが、見ず知らずの方のコメントについて、既に自分も「同じ日本人」だとカウントされるのは、いささか不本意に思ってしまうからである。

しかしまあ、その程度であれば、心の奥で「私はその日本人に入っていませーん」とつぶやけばよいのだろう。個人的には日々そうやって流している。

しかし流そうとするたびに「みんな持ってるもん!」という言葉が頭の中に響く。自分が思うところの「世界の真ん中の集団」に入っていたい、というあの欲求。もちろんおもちゃやゲームも欲しいのだけれど、それ以上に「持っていない自分はだめ、許せない」という無邪気な自意識のことが浮かぶ。

その無邪気な感じが、何の気なしに書き込むSNSやweb上に溢れている気配を感じて、ため息が出る。

その上にだ。「世界の真ん中の集団」を形どるラインは刻々と変わる。いや、そもそもそんなラインなど本当はあってないようなものなのだ。しかし自分のその無邪気さは、調子の良さへと姿を変えて集団のラインを簡単に行き来する。

その時に「私たち日本人」という言葉はたいへんに便利だ。私たち、という言葉の影に隠れ、まるで免罪符のように、今日の所属グループと明日の所属グループを変えることが出来る。自分の意見を変えることに無自覚であるのか、それとも変わった、ということを悟られたくないのかわからない。けれど、大きな主語は、その揺れ動いて行き来する自分の姿を隠すのにたいへん都合が良いんじゃないかなあ、と思ったのだ。

いや、変えるのは一向に構わないじゃないか。個人的にも変化は大好物だ。しかし、少なくとも、私自身は変わることには自覚的でありたい。

「私たち日本人」の主語に続くコメントを読む。いろいろな考えがあるんだな!と本当に勉強になる。そうか、そういう視点だとそういうように思うのか!と唸る時も多い。

しかし、そのコメントに続く、一見書かれたコメントに同意しているかのように見えて、何度読んでも「これは、、、同意なのか?」とわからなくなるリプライがある。意見そのものの内容よりも、コメントの一部である方が大切であるかのように、私には思えてしまうことがあるのだ。

たくさんの意見や考えが溢れているように見えるこのSNS上で、行われていることは、実は陣地(情報)取りゲームだったのかもしれない。それが、人間が持つ安全感を担保したい本能が成せる業なのかわからない。

そうやって人は何かを考えているようで、そして自分の意見を持っているようで、実は身の安全戦略をSNS上に繰り広げているだけなのかもしれない。その考え、主張、情報をここに書く、その底に流れているものは一体何なのだろうか。

私たち、と主語を書く時、だから私はそれに敏感でありたい。それが本当に自分のなかから出てきたものなの、私も自分に問いたいと思う。それはもしかして、自分の主張や内容そのものよりも、もっと大切なものかもしれない、と思う次第である。

 

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