Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

境界線は神出鬼没な方がいいというお話。

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「人間関係」について、何かしらうまくいかない感じがする時。もしかしてそれは自分と人との間にあるらしい「境界線」が硬直しているからかもしれません。

これも最近は色々なところで言われていますから、人と人との間の境界線、という言葉をご存知な方は多いんじゃないでしょうか。でもこの境界線。普段の生活の中であまり意識している方は少ないかもしれません。概念としては知っているけど、何それ?それってどんな線??って感じ。

いきなりですが、子どもの頃、何かキタナイものに触った子に向かって「えんがちょ!」とか「透明バリアはーった!」って言ったとか言われたことってありますかね?

こっちからは私の陣地だから入って来ないで~!っていうおまじない、宣言。あれが「境界線」ってものをイメージしやすいものかもしれません。その線からこっちは私のもの、だから入ってくるにはちゃんと私の許可が要りますよ、っていう架空の線ですね。

この「境界線」がちゃんと機能している時は、相手と私がちゃんとわけられている。だから私は私で、相手は相手ってのが安定して成立してるんですね。

ところがこの「境界線」ってやつは当たり前だけど目には見えない。そこにあるような、ないような。誰から見てもわからないし、扱いには誠にやっかいな代物?です。でもどこかには、ひかれているらしい。

例えばあなたの友達がとてもつらい経験をされた場合。その話をあなたが聞いている時、きっとあなたのこころはそのつらい話に反応していると思うんですよね。ああ、そんなつらいことがあったのか、、と、聞いているうちに、自分もどんどんつらい気持ちになってくる。なんならちょっとうるっときてしまったりする。

この時に「境界線」は、ぐぐっと自分寄りに迫ってきているのかもしれません。線のすぐそこまで相手の思いが流れている感じ。もしあなたが人の気持ちに敏感な方である場合、既に境界線を突破して、ご自分のこころの中に、相手の思いが流れ込んできている可能性もありますね。

で、そういう状態になると、時として話し手は「ああ、自分の気持ちが伝わっているのだなあ」と感じられる。そうすると、話をする側、聞く側、共に同じ景色を見るように感情を共有している、という美しい関係性がそこに立ち現れるというわけです。

ただこの境界線。話を聞き終わった後もまだ、自分寄りにぐっと引き寄せられたままの位置にあるとしたら。どんなことが起こると思われますかね?

例えば。話を聞いた後も、もう、その話し手のことがいちいち気になって仕方なくなるかもしれません。相手の一挙手一投足に自分の全神経が向かって開いている感じ。だからその話し手が全然違うことで話たり、笑ったり、悲しそうだったりすると、もう、それが自分事のように感じられてたまらなくなる。

そんな相手の気持ちを感じ続けているうちに

・(話し手が)笑っているのはきっとこういう理由があるからだよね、わかるわかる!

・(話し手が)泣いているのは、こんなに辛い目にあったからだよね、わかるわかる!

ってね。どんどん自分の想像力がふくらんできます。あまりにも自分のその想像力が真に迫ってる故に!「そうなんだよね!わかるわかる!」って錯覚してしまう。本当は、もしかしてあなたが感じている「わかるわかる」と、話し手の気持ちは違うのかもしれないのに。

錯覚することそれ自体に、何ら害はないと私は思います。誰だって同じ経験をしている人なんてひとりもいないわけですからね。むしろ想像力と錯覚を以って「ああ、こんなのって辛いよね」と思えることって、人間にある素晴らしい能力なんじゃないかと思う。

が!しかし!ここで問題になるのは、これを使って自分や相手をコントロールの対象にしていってしまう、という点に尽きるんじゃないかって思うんですよね。

コントロール?なんで?って思われるかもしれませんが。が、このコントロールって色んな形があります。例えば「私はあなたがとってもかわいそうな目にあったってわかってあげたよね。だから私に何かを返してほしいです!」っていう思うこととか。

いやいやいや、そんなわけないですー!私はただ共感して話を聞いただけですー!ってね、仰る方多数かと思います。そうなんですよね、この「何か返してよ」って意外と自分にはわかりづらい欲じゃないかな、と思います。そして仰る通り、全ての人がそう思っているわけではない。

ただあなたが、ひょっとしてこんな感情をその話し手にちょくちょく感じているとしたら:

・ひどい目にあったという話を別の友達にもしていて、それを見たら、ちょっとおもしろくないって思っちゃった。なーんだ、誰にでも話すんだね。

・あんなに親身になって話を聞いたのに、私のつらい話は聞いてくれないんだね!

・ひどい目にあったって言ってたけど、私が経験してきたことと比べたら全然だよね!ちょっと甘えすぎなんじゃないの?

これも程度の問題ですから、大なり小なりこんな感情を持つことはあると思います。でも、もし繰り返しこんな思いを話し手に感じているとしたら。それはもしかして、あなたの境界線の置き場所が、ちょっと自分に寄りすぎたままになっているかもしれません。そしてそのことこそが、相手をコントロールしたい、という欲になるわけです。

心理学には「投影」また「取り込み」という概念があります。

「投影」・・・自分の中にある感情等を認めずに、自分の中に押し殺したままにしている場合、その感情をそのまま相手に「投射/映して」相手がその感情を持っているってことにしてしまうこころの働き。例えば「大声で泣き叫ぶ」ことが大人げない、そんなこと決してしちゃいけないって自分に強く禁止している場合、「大声で泣き叫ぶ」他人を見ると、それをものすごく嫌だと感じたり、だめな人!って思うこと。

「取り込み」・・・「投影」とは逆に、相手の中にある感情等がまるで自分の事のように感じられ、それは相手ではなくて自分のものだ、としてしまうこころの働き。例えば憧れの人がいたとして、その人の言葉や態度、恰好まで似せて自分のものにしようとする行為、働きのこと。

先ほどの例で、境界線がどこかで置きっぱなしのままになっているとですね。このように自分ではない、相手の何かが自分の中に乗り移ったようになったり、相手を自分のもののように思ったり、という現象が現れるわけです。これが「コントロール」の現象ですね。

これの何がだめって、苦しすぎること!だって相手はコントロール出来ないし、乗っ取られたら自分がなくなってしまう。どちらにしてもとてもつらい状態になります。つらくなるから、ますます相手から多くを望むようになったり、或いは自分を与えすぎたりしてしまう。で、それが思うように自分に還って来ないから、またつらさが増す、という悪循環。

ってことで「境界線」ってのはですね、このつらいコントロール現象を起こさせないように、とっても大事な働きをしているんですよね。これがあるからこそ自分と相手の区別がついて、自分がつらくならないようにしてくれている。

じゃあ、その「境界線」ってどこにひいたらいいの?真ん中?でもどこが真ん中なの??って思いますよね。だいたい見えないものをどこにひけと?というご質問については、私は「神出鬼没で参りましょう!」とご提案したい。今そこにあったと思ったら、あれ?もうあっちにいっちゃった、ってな感じ。

例えば、さっきつらいよね、って涙を流しながら話を聞いていたけど、今はもう、ランチのメニューのことしか頭にないって感じ。それって節操なくないですか!?って思われるかもしれませんが、きっと健康な境界線ってそういう感じくらいがいいんじゃないかなって思います。ポイントはつらくない、ってこと。

だから、さっき泣いたカラスがもう笑った、くらいに、境界線をこっち側に引き寄せたり、あっち側にやったり、ということを手品師並みに出来るってのが、らくちんな人間関係にベストなんだと思います。

他人の感情に巻き込まれやすい方には「境界線」をあっちこっちに出没される技を身に着けるってのを、ぜひお勧めしたいです。

よかったら今日からちょっと試してみて下さいね。

 

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