Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

明恵上人が好き。(その2)

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そう、島にお手紙を書いちゃう明恵上人。ほんとうに、なんというかもう、色々ぶっ飛んでいるお方なのである。

それはもちろん、ブッダへの憧憬と仏道成就への強い思いにも反映される。

捨身飼虎(しゃしんしこ)。このイズムを夢の中でも、現実世界でも明恵上人は実践しようとしてしまうのだ。飢えたトラに自分自身を与える、というブッダ(の過去生)に倣うように、自分を何度か傷つけようとしたり、自分の身体を与えようとしたりする。そしてその最たるものが、自分自身の耳を切り落とす、という行為である。

ja.wikipedia.org

明恵上人がお若い頃、修行のために座り続けた際に常に前にしたのがこの「仏眼仏母」の像だ。wikiの画像を見るとちょっと暗い感じだけど、なんのなんの。昨年、大阪で実物を見る機会があったのだが、この仏絵と対峙した時に私は驚いた。美術館のガラスを通してなお、この御仏の像が真っ白に発光しているように見えたからだ。後から図録を見ても全体のトーンは茶色の筈なんだけれど、今でも自分のこころの中の印象は光のように真っ白である。お母様を思慕した明恵上人が惹かれたこころを、ちょっとだけ分かったように思った。その白い光みたいなものに照らされて、包まれるような思いがする仏様の像だったから。

そんなわけで予想していたよりずっと大きく感じたこの仏絵を前にして、明恵上人が若い頃、耳を切り落としたことを思った。今の私たちの常識とされていることで考えると、そういう「自己犠牲」っぽい行為は誰も救わないよ、ということかもしれない。だって死んじゃったり、自分の身体が損なわれちゃったら、人を救うどころか何もできなくなるじゃないですかね。

でも明恵上人の行為は、そういった「常識」みたいなものからかけ離れている世界観の中で為されたものだ。それがどんな世界観なのか、正直私にはわからない。しかしそのことが、これも私にはわからないような境地にリーチする、ひとつのきっかけにもなったのである。

河合先生がそれを心理的、宗教的な文脈で解説されているのだけれど、それもおおおお、と納得の分析なのだけれど、私は何よりこの圧倒的なやっちゃえ〇〇、みたいな明恵のエネルギーにとにかく憧れる。

だからって耳を切り落とすとか、そんなことをしたいとか、ぶっ飛びたい、とかそういうことではない。そうではないのだけれど、何かにのめりこむように一心に自分のこころをひとつの対象にぶつける、というのはなかなか出来そうで出来ないことだ。

信じることのすさまじさや、信じることで起こるミラクルをすごいなあ、憧れるなあ、と思いつつ、でも、その代償を思ったり、現実的な価値観で考える時、私は素直に「私もそうしたい!そうしよう!」とは思えない。だからこそ私は凡夫でここにいられるわけだけど、でも、異世界に瞬間ワープしちゃって、この世界の観方ががらっと変わる、みたいなことって、自分が出来ないからこそちょっといいなあ、、、ってずっと思っている。

私が小さい頃から持っている、ちょっと不思議に憧れるみたいなところを、体現して下さっているの方っていろいろいらっしゃるのだけれど、仏教界ではこの明恵上人が私の一押しなのだ。何しろ、ものすごくピュアで、でもきっとそれだけじゃなくて、同時にピュアの対極のものも持っていて、両方抱えて平気でいるっていうそういうお方のように思えるから。それは、私がそうありたいな~と思う究極の理想みたいなものなのかもしれないなって思う。

そんな明恵上人のことばのなかで有名なものに「あるべきようは」というものがある。これについては様々な解釈があって、たくさんの解釈がされている。私にとっても、このことばの真の意味とは?と考えると、いつも果てしない思いのなかに放り出されるように感じる。今なおこうだよね!ってことってわかってない。

わからないながら端的に言ってしまうと、月は月のように、政治家は政治家のように、母は母のように、それぞれ「あるべき」姿を「追及する」という態度がたいせつですよ、ということらしい。

ちょっと前に「ありの~ままの~」っていうのが流行りましたよね。私はちょっとそれ、どうなのかなあ、、、?と思ったことがあって。っていうのも、この「ありのまま」って、何を以って「ありのまま」って言ってるのか私にはよくわからなかったからだ。

確かに、今まで何かを自分の中に押し込めるように生きてきた人にとって、その枷が外れ、自分の中にsometingを発見するっていうカタルシスは素晴らしいものだと思う。

でも、それが「ありのまま」なのか?というと、うーん、どうなんだろうか?それってただその抑圧してきたものを理解したってことで、それ後の自分が「ありのまま」っていうことでもなかろうよって、どうしても思ってしまう。

特に若い頃には何かの理想像を求めて、それを「自分らしく生きる」みたいなことばで表現する。でもちょっとそこで考えてみたいのは、その「自分らしい」自分って何だろうね?ってことだ。

その「自分らしい」を目指しちゃう、その行為こそが、自分の自我を満足させる夢のような自分、というパラドックスに陥りやすい罠なんじゃないかなーって。だから、ありのままじゃなきゃだめなんだ!ってさまよっちゃうのも、ちょっと違うし、だからって何もかもを自分らしい=自分ファーストの視点だけで考えるってのもなんかちょっと違う。いや、自分を満たすことはもちろんたいせつなことなんだけど、やり方を間違えるとただの放埓にしかならないかもよって意味で、だけど。

そんな中で、この明恵上人の「あるべき姿ってなんでしょうね、、、」とこの問いかけってものすごくいいなって思ったのだ。あるべき姿なんてものは、時と場合、そして瞬間瞬間で常にうつろっているものだと思う。そして何より大事なのは、「なんでしょうね、、、」って自分が考えるってことだって、この歳になるとほんとうにそう思う。

そう、自分がどうあるべきなのか、あろうとするのか、なんて疑問ってのは果てがない。昨日の判断はもしかして、今日は違うのかもしれない。だからですね。歳をとればとるほど、何かを言い切るってことがどんなに難しいことかって、身を以って知るんですよね。

それにしても、常に何かを問い続けるってのも、これは達人/変態じゃないと難しいのかもしれなくて、だから私たちのまわりには、お作法、とか、お約束、とか一定のルールがある。もちろん明恵上人ご自身も、ものっすごい細かいルールを弟子に示したりしていた。

そのお作法、とか、ルールってね。一方、なんでそのルールがあるのか、なんでそのルールを守るのかってことを考えるためにあるのかもしれない。そして、それを考える時には、自分視点で考えることってやっぱり大事だよね、って思う。

特にこんな世の中では、とかく他人の決めたルールにいいとかわるいとか、どうなの!?ってなりがちだ。その前に、自分ルールを自分で決めて、日々検証していくってことが、私が正気を保つ上でのヒントになるんじゃないかなって思っている。

そういうの、私な好きでも得意でもなかったけどね。どうやら人生ってそういうコツコツ的な感じのもので構成されているみたいなんですよね。。。

だからこそ私の中では今も尚、明恵上人がアツいのかもしれない。好きじゃないと、そうですよね!って素直に言えないですからね。ってなわけで、私は明恵上人が大好きなのである。

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