Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

やってみないとわからないねってことがわかる魔法

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こころと身体、そして臨床心理の勉強をはじめる前から、私の興味は「人のこころって何?」ってことだった。小さい頃から、こころってものが私の手に余るようなものだったから、と言ってもいいかもしれない。

何に対しても「うまくやる」、そして出来れば「余裕も見せたい(裏で頑張ってるって悟られたくない)」ってのが、私のMission Impossibleで、だから小さい頃はほんとに大変だったんだろうな~って思う。ほんと、おつかれ、おつかれ。

で、なんで「うまくやる」ってことにそんなに頑張っちゃうのか、おまけに「余裕」なんてものを見せることまで必要なのか、ってことを、見事に解き明かしてくれたのが、こういった学びの成果で、それはとってもエキサイティングな体験だった。私はあまり推理小説は好きじゃないのだけれど、たぶん、推理小説ファンが上質な謎解きを真剣に楽しんでいらっしゃる感じと似てるんじゃないの?って勝手に思ってる。

その謎解きって自分のことだけに留まらず、母がなぜずっとあんなに不機嫌だったのか、父がなぜあんなにいつも自慢話ばかりするのか、なんてことも、実に明快に理解した。それが彼らだけのせいじゃないってこともわかったし、世の中には似たようなことをする人たちが職場なんかにいて、だからちょっと困ったことになってるってことも知った。

私はそれを手に取るように理解できる素地、才能を持っていたらしい。そういった家庭で育ったこと、自分のなかにあるものは、まるで教科書の事例みたいで、理解しようなんて努力しなくても、直感的にわかってしまう。英才教育の効果ってこんな感じなのか!って感じ?(違う英才教育を羨ましく思うけれど、それは選べないからね!)

例えば仲間内や会社、学校で何か揉め事や、問題が起こった時、関係している人の意図や感情を想像することに、さほど難しさは感じない。他人の意図や感情が透けて見えるって、時にうんざりすることはある。それでも、他人のこころを想像できるってことは、他人がなぜそんなことを言うのか?やるのか?ってことがわかる手がかりみたいなものだから、それで私が助かることはたくさんあった。

だから私は私の手の届く範囲では、人のこころってものの動きを想像したり、理解することが出来るようになったんだなって思っていた。今でもそう、思ってる。完全に理解することもないし、想像は妄想だっていう前提で、そう思ってる。体験だけじゃなくて、理論や知識を積み上げることが出来たのは私の大きな強みだ。

でも、私の深いところでそれでは道半ばなのだよ!って思いが、なぜかずっとあって、今もまだあるのだけれど、それが「出来ると思うよ」っていう自分とそりが合わない。

理解はしているし、想像することも出来る。それを他人に伝えることも出来る。けれど、それが自分自身に対しては使えていないような感覚があって、それが決定的に私の自分への信頼を揺るがせていたらしい。本当は出来てないのに、出来てます!って言っちゃったよ、あーあ、どうする!?って自分に迫っちゃうみたいな感じって言っていいかもしれない。

これもね。どうしてそんな風に思っちゃうのかってことについても、いかようにでも、何通りも説明出来るのだ。それもそう、間違った解釈じゃないだろうなって、そういう確信はある。

出来る、出来る、出来る。でも出来ない。この堂々巡りは、一体いつになったら決着するんだろうって思ってた。これ以上、何を経験すれば、何を学べば良いんだろうってちょっと途方に暮れる感じもあった。

自分のことを語りながら、ここで他所さまのことを申し上げるのは憚られる。けれど、この世の中ってこんなにお困りごとが沢山あって、いろいろ大変なことになっている方がいっぱいいて、だから、そのお困りごとをまるごとぐわっと飲み込んじゃうビジネスがたくさんある。安っぽいセオリーやトレーニングをうたい文句に食い物にしようっていう、そんなサービスもたくさんある。貧困ビジネスとそう変わらないじゃないか!って思ってることが度々ある。

チープなのはまだいい。それは一見してわかりやすいから。でも、こころを扱う界隈には、自分が習得した技術を使って、意識的に、または無意識に人をコントロールしている人ってのも残念ながら一定数いて、それが私が「カウンセラーってクライアントと対等じゃない」ってところに反応してしまうところなのだ。

もちろんカウンセラーだってそれを生業にする以上、収入は必要。でもこころを学んだことで、他人をコントロールしてクライアントを依存させていく様を見るのは耐えられない。

そう。それでわかったのだ。出来る、出来る、出来る、出来ない。は、自分がそうやって無意識にクライアントをコントロールしちゃうんじゃないかっていう恐怖、嫌悪と、そんな恐ろしいこと、やっぱりやらない方が安全だよねっていう堂々巡りだったのだ。ってね、解けなかった謎が最近、ちょっとわかりかけてきた。

おまけに、私にはお母さんみたいな受容力も時に有り余るくらい出て来ちゃうのだけれど、正反対のかなりとがったところもあって、それで(特に若い頃に)他人を傷つけてしまったっていう記憶の負い目もあるんだな~って。

だからなかなか踏ん切りがつかなかった。他人に関わっていくような仕事が、果たして自分に務まるんだろうかっていう疑いが晴れなくて、だから、出来る、出来る、出来る、出来ない。のまわりをくるくるまわっていたんだと思う。

その他人への負い目と自分への疑いが、自分にOK!やって良いんじゃない?やろうよ!って許可しなかったんだなってね。おまけに「うまくやる」っていう癖がまだ抜けてなくて、やるからには最上のものをご提供しなければ!っていう、プレッシャーまで自分にかけてたんだな~って。

なんだ、ここまで三重苦か。

そういうことが、最近こう、毛糸がつるつる~ってほどけるみたいに、自分のなかでほどけるようにわかってきて、それは理論とか知識とかっていう感じでもなく、自分のなかからぽんって、産まれてきた自分への理解だった。

このブログを書き続けているのも、ここに辿り着くための軌跡を、自分で再確認するためだったのかな~って思ったら、そうか、ものごとってやってみないとホントのところはわからないっていうセオリーが身に染みている。

そしてそんな自分のためだけにやっていること、書いていることをちょっと気にかけて下さったり、読んで下さっている方の存在が超励みになるってことも、やってみなかったらわからなかった。

実はこのブログ、煩悩の数!108記事まで書き続けようって思って始めたのだった。自分でも自分が何を言いたいのか、何を伝えたいのかってことを自分でも掴みあぐねていて、100記事くらい書いたら何か見えるかなって思ったのだ。

間もなく108に到達する今日の今、なんでこんな風に書いているの!?って自分でもよくわからない。もしかして、これがやってみないと何事もわからないっていうことみたいだよ!!って、妙に腑に落ちたことをお伝えしたいだけなのかもしれない。

理論とか知識、英才教育も誠にお役にたっているのだけれど、行動するってことは自分の足でしか行けない場所に連れて行ってくれる魔法だったらしい。

だからっていきなりものすごいことを行動する必要はないんだなってことも、なんとなくわかってきた。

この魔法をちょいちょい、これからも使っていきたいって今はそう思っているってこと、これが今日書きたかったことみたい。

そう、やってみなければわからない。書いてみなければわからないってこういうことなのね。

 

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