Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

未完了をいっぱいにしておくと、意図が出来なくなるの巻

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ここのところ、今まで自分が解けなかったいくつかの難題?の解決の糸口が見え始めているのを感じている。

つくづく思うのは、自分が当たり前だと思っていた言葉や物事への理解とかって、なんてひとさまの借り物ばっかりだったんだろう!ってことだ。

それは言葉にすれば、すごく簡単で当たり前で誰もが言っているようなこと。だけど、そういったことこそいま一度、いちから自分で構築することのたいせつさを思う。

そう。自分の中に問いを持ち続けるってことは、本当にたいせつなことだと思う。自分の上っ面で、わかった気にならないってことだ。

今の時代、ちょっとwebを検索すれば、ちょっと本を読んだり、他人の話を聞いたりすれば、私たちって、いともそのことをわかったような気になってしまう。私もこうやって自分の知見を広げているのだって、最近まで思っていた。そこで得た答えややり方が自分を、そして問題を救ってくれるように勘違いしていた。

まあ、それも悪くない。悪くないけれど、結局私たちってひとりひとり、考え方、やり方、感じ方、すべて違うのだ。例えば、何かに成功したいと思っても、成功の定義や感じ方は違う。ゴールが違うんだから、そこへ至る道はやっぱりそれぞれで、自分で模索するしかない。

HOW TO本やwebの情報は、その成功へと至る「可能性」のひとつを示してくれている。だからそれを読んで、自分でやってみること自体は悪くないのだ。しかし、結局のところそれがworkするかどうかって、やってみなければわからない。よしんば本の通り成功したとしても、本の通りにしたけれど失敗したとしても、そもそも本の通りに実行出来なくても。それは自分のやり方、自分の道を試しながら歩いている道の途中だってことだけだ。

そう、結局はそうやってトライ&エラーを繰り返しながら、自分の道ってものを地道に歩いていくってことだけなんだなって思う。むしろゴールよりも、自分の道を歩くってことの方が大変で、自分にとってほんとうのことなのかもしれない。ほら、こうやって言葉にしちゃうと、当たり前すぎて恥ずかしいくらい!けれど、こんな風に自分が確認して、身体の奥から納得して綴る言葉たちからは、フレッシュで素直にそうだね!って言える香りが漂ってる。その香りに感心したり感動したりしている。

この感覚に私はちょっと鈍感だったな~って思っている。上っ面でわかる、わかる、って思っていたこと。それは理解としては間違っていないんだけど、この理解ってやつ。これが私にはあまり役に立たないってことを、今、道を歩きながらわかりはじめている気がする。

きっとこれも人によって違うんだろうな。話を聞くと、一撃の理解でぱっと何かが変わる人もいるし、逆に理解が追いつかなくて言語化が出来ず、コミュニケーションを取る時に困るって人もいる。ほんとに人それぞれ。

ここ数か月、私のなかにあり続けた問いのひとつに「自分で意図するって、一体どういうことなんだろう」というものがある。何か自分で叶えたいこと、望んでいることはあるのだけれど、それをどうやって意図して、実行して、検証するのかってことを今一度自分に問いなおしていた。

私は意図するってことを、先々にこうしたいとか、こうなりたいとか、そこだけにフォーカスするもんだって思い込んでいた。

そんな中だったけれど、こちらで書いたように、私は自分の望みを希釈する癖があったのだってことに、まずは気が付いた。そうか、怖さがあったんだねってことが最初にわかったのだ。

でも知りたいことはまだあって、それはその怖さってものとどう折り合いをつけていくかってことだった。その方法が知りたかったのだ。怖さに対して「怖くない、怖くないでちゅよ~☆」って呪文をかけたり、或いは「怖いけどやるのだ!」っていう蛮勇風アクションをすることって、両方自分には向かないな~って思ってたから。そう、私は自分にとって一番いい方法で怖さと対峙したいのだ。わがままと言われようとも☆

だから怖さと折り合うためにはどうしたら良いんだろうって今も色々お試し中だ。この踏ん切りの悪さ?のお蔭で先日、とても良いヒントが舞い込んできた。

それは、先日からだの動かし方について教えて頂いた時のことだった。自分のからだをどうやって使ったら、行動の目的を達することが出来るかっていうのがもともとのテーマだった。私は人と相対する時、割と自分の注意力をあちらこちらに散りばめる癖があって、その対策について教えて頂けるようにお願いしていたところだった。

注意力を散りばめるのは何故かって言うと、突き詰めれば自分を守るためである。あっちにもこっちにも対応出来るように、準備をしていればどっちに転がっても対処できるし、安心だ。それはもう、幼いころから培ってきた私の癖みたいなものだ。

これって一見「危機管理が出来ていてよろしい!」って見えるかもしれない。私もそう思っていた。

けれど、どうやら私のこの注意力散りばめ癖ってものが、私の経験と自信を奪っていたってことに、私は気が付いてしまった。なぜかっていうと、ああかもしれないし、こうかもしれないし、ってあらゆる準備していると、私の場合、その準備の質がとても薄く、ぼんやりしたものになる。だからどこにヒットされても、対処出来たような、出来なかったような、なんか現実感がない感じがあった。

これはきっと人によって全然違うんだろうと思う。あれこれ準備したことで、そのどこかにヒットすれば「ナイスヒット!」と、自信を深めていかれる方は確実におられると思う。

けれど、私は正解や優先順位ってものを予測するのが滅法苦手。それは、正解できなかった時、優先順位が外れた時に、自分がとてもショックを受けるってことをわかっていたからで、だから「どの可能性もあるわよ♡どこに当たってもいいわよ♡」ってことにしておいたのだ。しかし「どこに当たってもいいわよ♡」なんて言いつつ、私はその結果を正視出来なかった。結果がわかるのは怖いことだから。結果が出た時、それが当たりだったのか、外れだったのかもよくわからないようにしておけば、少なくとも自分のショックは和らげることが出来るから。

そうやってその場その場の自分を守ってきたつもりだった。確かにその場の自分は守ることが出来たのだけれど、その代わり、何かが完了した、という大事な感覚を見捨ててしまっていた。結果を受け止めないことで、ものごとを終わらせる、という所作を避けた。

この「完了をして来なかった」ということが、なんと!「意図することってどういうことなんだろう。。。」という問いに多いに影響を及ぼしていたことに、からだの使い方を教えてもらいながら、気が付かせてもらったのだ。

良くも悪くも未完了ばかりを、いくつもいくつもじゃらじゃらと引きずり続けて、これからのことを意図するなどとても出来ない。気が重くなるのも当たり前だ。また自分のお荷物を増やすだけだ。そしてそれが叶ったのかどうかって、どっちでも解釈できるようにまたうすい準備をするだけなのに。っていうこの堂々巡り。

こうやって、私は意図が出来ない自分のからくりってものに、今、ようやく近づけている感じがある。そうか、逆だったのか。ちゃんと完了してこなかったから、意図も苦手なら、それを叶える方法もぼんやりするわけだ。

ってことで、私はそれから盛大に数日をこのぼんやりモードで過ごしている。急に変えるとリバウンドがあるって自分のことを承知しておりますので!まずはぼんやりの自分の言い分を聞いてあげている。このぼんやりモードの私が充分だよって言ってくれた時「完了モード」に切り替えて実験しよう!と思っている。

それで「意図する」って行為がどうなるかが、ちょっと楽しみ。

 

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