Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

努力恐怖症の人が努力出来るようになるには。

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先日のこちらの記事を書きながら、思ったことがあった。

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何かをやろうとする時。簡単に「やります!頑張る!」って言える人と、そうじゃない人がいるんじゃないかなってことだ。

例えば何かの目標を立てたとして、それに向かってまっすぐに努力をしようと行動に移せる人には、ざっくりと2種類あるように思う。

 1)努力することに内的抵抗がない人

 2)ハングリー精神が旺盛な人

1)は端的に言ってとても素直な人なイメージ。過剰な期待を背負うことなく、自分軸で自分の事を決められる。自分や目標に対して妄想がない、或いは少ない。いいことを聞いたなって思ったら、自分にそれを取り入れることに躊躇ない感じ。

2)は、もうちょっと複雑だ。恐らくこれまでの人生、或いは環境の中で目標を目指す動機=「ばね」となり得る要因を抱えた人。目標に対して貪欲に「達成したい!」という熱い思いを持てる感じ。

世の中で所謂「成功」ってのを収めている方々は、このどちらかの要素をお持ちなのではないかと思う。もちろん、1)2)に関わらず、その成功を手に入れるまでの努力は確実に必要だ。その人がそれを努力というかどうかはわからないけれど。そう。成功って、才能とか環境だけは成し得ないものだ。

だからかもしれないけれど、既に成功をしていたり、成功のパターンをよくご存知の人から見ると、成功への努力ができない人に対して、ちょっと視線が冷たくなりがちなんじゃないかなあ、という気がする。

まあ、その努力(しつこいけれど、それを努力、と呼ぶかどうかは別として)をした人からすれば、努力なしに成功なんぞ出来るわけがないだろう!?と言いたくなる気持ちは理解できる。人って自分が頑張れば頑張るほど、それをしていない他人に厳しくなる傾向がある。

でもね。努力出来ないって人の中には、努力をしたいのだけれどそれが出来ない、という人も少なくないんじゃないかってね、そう思ったのだ。

先ほどの2)のハングリー精神の人。これはすごいと思う。恐らくだけど「ばね」というのは、大抵の場合結構大変な経験とか、環境の中で育まれることが多い。大変な思いをしたのに、奮起してそれをばねとする、という力技は並大抵のことではない。私のようなヘタレ人間からすると、どちらかと言えばその方が成功することよりすごい、なんて思ってしまう。

しかし。そもそも意志が弱いとか、努力が出来ないとか言われている人の中にも、同じようにたいへんな経験や環境に置かれている(た)人が、たくさんいるんじゃないかと思う。ハングリー精神の人と違って、そこから這い上がる力技を使えない、力技を使うのに怖気づいた人たち。

そういう努力恐怖症(敢えてそう言おう)の方にとっては、例えばの目標が「お金持ちになる」だったらまだいい。お金持ちにならなくても生活は出来る。「お金持ち」を選ばなければいいのだ。それで不都合があるかもしれないけど、是が非で全ての人の目標が「お金持ちになる」ってことでもないだろう。

でも目標って、お金持ちになるってことばかりじゃない。例えば、自分の好きなことを仕事にしたい、とか、自分がこうだって思うことを社会で試したいとか、こんな風に働きたい、こんな人とお付き合いをしたい、こういう仲間を集めたいとか。こういった人生にのっぴきならない目標の方が「お金持ちになる」よりも遥かに多い。おまけに、それはその人の人生にとって多大に影響するのだ。

そういう人生に直結する夢や目標を描きつつも、それに向かって努力ができない、というのは大変つらい。いやいや!好きなことに努力なんか必要ないよ~って方もいらっしゃるかもしれない。でも、この努力の中には、何かの実現のために人に何かを伝えるとか、私やります!って手を挙げるとか、それをやり続ける、とかそういう行為も含まれる。それは成功への努力が普通に出来る人は「それ努力ですか?」って思うかもしれないけど、そう、それも努力恐怖症の人からみれば、たいへんな努力だ。

そのくらい普通に出来るでしょ!?頑張ってよ!って他人は言うかもしれない。でもね。目標達成のためにはそのくらいのことはやりなよ!って言える人は、幸せな方だと思う。それがこわくてこわくて、いっそ夢なんて持たない方が楽だ、とか、もう叶わなくていい、そこそこでいい、むしろ目標なんかに煩わせられたくはないって思ってしまう人のなんと多い事か。

更に努力恐怖症の中でつらいのは、こころの中、無意識の中では「そんなのムリ」ってあきらめてしまっているのに、表層意識では「頑張ります!」って言ってしまっている人たちかもしれない。無意識でブレーキを踏みしめながら、表層意識ではアクセル全開なのだ。ものすごく消耗するし、求めているはずの目標にちっとも手が届かない。その上その矛盾を指摘されたり、非難されてああ、自分ってなんてダメなんだろうって凹み続ける。まさに踏んだり蹴ったり。

だからもしこれを読んでそんなつらさや、停滞感に心当たりがおありになる方がいたら。それはあなたの意思が弱いわけでも、努力が出来ない人だってわけでもないんですよ、と私はお伝えしたいのだ。

努力が出来ない、努力をするのがつらいのは、それはそれなりの理由と、積み重なった自分の歴史があるからだ。特にこれまでの人生で「無力感」を育まざるを得なかった人。そういう方にとっては、目標、責任、何かを成し遂げるなんて聞いただけでもう、胃のあたりに強い感情がぐっとこみ上げてくるんじゃないかと思う。

或いは何の感情や興味も湧かない方。そういう方はもしかして、それだけ「今よりも明日がちょっといいかも」という可能性にずっと心を閉ざして来られたかもしれない。明日を期待して、それに裏切られ続けるのはとてもつらいことだから。

だからこそ、努力恐怖症の皆さまへご提案がある。もし、そんなつらさを感じられていたら、今すぐにその努力をしようとすることをストップして頂きたいと思う。努力恐怖症にとって努力は自殺行為。そこを頑張っても自分が疲弊してしまうだけの可能性が高い。だからまず努力をやめる。だいじょうぶ、努力をやめたところで絶対に死ぬようなことはない。

まずは努力のアクセルを踏むことをやめる。そうするとブレーキがかかって自然にとまることになる。そう、アクセルもブレーキも踏むのをやめて、いったん運転する車から降りるのだ。

降りて何をするかといえば、まず休憩。車や運転のことは考えずに、涼しいところで昼寝でもした方がいい。まずはゆっくり休んで、頭をからっぽにする(休み方にもコツがあるから、これは改めてご紹介したいと思う)。

もうこれ以上休めない、頭をからっぽにするのも飽きたよ!ってなったところで、次にやること。それは自分のなかにある「無力感」と向き合う作業だ。自分はとても幸せになれそうもないとか、自分なんて何もできない、何の価値もない、誰かにご迷惑をおかけするだけの存在だ、とか。そういう思いと対峙する。ここに向き合うのはちょっとつらくて大変な作業になるかもしれない。でも、この作業を抜きにして、車を運転し続けても目的地には辿り着けない。

努力努力って、世間は結構ザツに言いますけどね!努力をするのにも順番ってものがあるんですよってね、私は申し上げたい。努力の順番としてはまずは休む。休めたら、次に自分の「無力感」といっしょに向き合い、過ごす。人生の目標や成功を目指す努力は、このあとの話だ。

だいじょうぶ。いくら休んだとしても、「無力感」に時間をかけようと、決して時間をかけすぎるということはない。急がば回れ、だ。

この順番を追えば、自分の人生の目標や目指したいことのために頑張れるような成分が自分の中に根付く。そうしたら張り切って車に戻って、目的地を設定したらいい。再度ハンドルを握った時、いかに自分が大変な運転をしてたのか!?ってのを実感できると思うのだ。

そうなったらあとは目的地を目指すのみ。もちろん目的地へと向かう努力も必要になる。なるけれど、その時にはその努力が出来る=普通にアクセルを踏んで、車を運転することが出来るようになっているはず。そうなったらアクセル全開でぜひ、目的地まで走りきって頂きたい。

そう、努力にはするべきタイミングと順番があるってこと。「あなたは努力が足らない」とか「真剣に努力してるの?」という言葉に心がざわつく方はぜひ、ちょっとこの話を思い出して頂けたら幸いである。

 

~休み方を覚えたり、「無力感」と向き合うのがひとりではつらい方、ご相談下さい~

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