Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

成長って何でしょうね~?

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小学校で最初に習うグラフって、こんな感じでしたっけね?

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右肩上がり。

時間の経過と共に、成長が右肩上がり。

私たちの成長のイメージって、小さい頃からこんな風にインプットされているんじゃないかって思うんですよね。

でも成長って。。。本当にそうなんでしょうか。

時間の経過と共に、私たちの能力、経験、貯金??がどんどん積み重なる。それはまるで時間が許す限り、爆発的に増えるポップコーンみたいに。

でも、しつこいようですが、成長って本当にそういう「積み重ね」なんでしょうか。

人ってみな、それぞれ違ったかたちで生まれてくる。容姿はもちろん、どんなものを装備して生まれてくるかって、全員違うんですよね。

その違って生まれてきた私たちが成長するって、私はこんな感じじゃないかって思うんですよね。

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そう、極端に言えば、ただそのまま大きくなるって感じ。細かく言えば、このでっぱりやひっこみは多少形が変わることはあるんだと思います。ちょっと尖ったり、丸くなったり。

でも基本的に持って産まれてきたものって、それはそれで尊重できたらいいな~、尊重出来る世の中であってほしいなって思うんですよね。

例えば何かこう、生産性に基づく目標みたいなものがあったとして。例えば今は1時間で50回出来たから、1か月のうちにそれを100回にしよう。

ある人にはこの種の目標設定はとってもハマって、そこを目指すことですくすくと伸びるかもしれない。

でもその50回を100回に増やすって目標が、万人にワークするかっていうとどうでしょうか?ある人は、同じことを繰り返すのが苦手でやる気を失ってしまうかもしれない。また他の人は、どうしても30回までしかできないかもしれない。それなのに、同じ目標を同じタイムスパンで目指すって。。。

ちょっと前まではね。みんな同じ目標目指して頑張れって言われてたんだと思うんですよね。同じテスト、同じ負荷、同じカテゴリー。同じテストを受けて、高得点を目指す、みたいなね。

それがある意味「平等」だよってことになっていたのかもしれないけれど、それって本当に平等って言えるのかなあって、私は考えちゃうんですよね。

いや、テストは同じでも良いんだと思います。でもね、そこで一律誰もが同じように高得点を目指すっていう目標設定ってものが、どうなのかって思ってしまう。

ええ、ええ、わかります。そうは言っても、掛け算はちゃんとできないと困るじゃないか。文章を読めなければ大人になって世の中に出た時にたいへんじゃないかってことはね。

でもそういうカテゴリーと、その他の、もともとその人が持っている質、のようなものにフォーカスするカテゴリーって、ちょっとわけてみたらいいんじゃないかな。或いはもっと長いスパンで成長を見守ることができるような環境があったらいいな。

ひとの成長って、ひとことでこういうものですよ、とは表現できないと思うんですよね。

例えばその速度ってことをひとつとっても、最初から猛スピードでまっすぐ成長していく人もいれば、ちょっと成長して休んで、またちょっと成長して休んで、ってのを繰り返す人もいる。最初にぱっとコツをつかんで再現することが得意な人もいれば、何度もトライ&エラーを繰り返して、どんどん境地をアップデートしていく人もいる。

人の成長はこんなにバラエティ豊かなのに、時間×努力=成長みたいな一律の公式に当てはめて、いいとかだめとか言うのってナンセンスだと思うから。

だから成長ってものは、どんどん右肩上がりになるってもんじゃないですよー、もっと色々な形がありますよーってことを、子どもの頃からちゃんとわかっていた方がいい。人によって違うってわかれば、そのことで悩んだり、コンプレックスや引け目を感じなくて済む。親御さんもまわりの子どもたちと自分の子どものことを比べることばかりをせずに済んだら楽じゃないですか?

 

で、ね。もうひとつ、この一直線の成長グラフの弊害が出てくるのは、おそらく中高年に達するとき。成長とか成功とかっていうイメージが、このグラフのままだと、とてもつらくなると思う。

何故かって言うと、ある一定の年齢まではどんどん山を登って、どんどん拡大出来たものが、以降、同じようにいかなくなる。ここでも書いた通り、人生の後半戦は今度は山をどうやって降りるのかっていう時期になります。

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山を降りていく時期なのに、頭の中では山に登ることばかり、それももっともっと高い山に登るイメージばかりが先行したら、頭の中と行動がちぐはぐになってしまう。どころか、「本当はもっとイケイケに登れるはずのおれさま」が「山を下っている」なんて、恥ずかしくて人には言えない!みたいなことになりかねないんじゃないかって、ちょっと心配になるんです。

若さや未成熟だけがもてはやされる世の中って、ちょっと不毛だと思うです。なぜそこに価値を置くかってか言ったらですね。「もっと高い山を登れる」っていうポテンシャルを、自分が持ち続けていきたいってのが、理由としてあるんじゃないかな。

「まだ全力出してないだけ」に似たやつですかね。夢のような「可能性」を自分に残しておきたい。山をずっと登り続ける自分でありたい。頑張ればまだまだいける!

それはもう、あのまっすぐ右肩上がりのグラフの幻想に取りつかれて、山を登るどころか、山中をさまようことになりかねない。

それもまたつらいことじゃないかと思うですよね。いやもう、降りて良いんだよって。降りることで絶望感しか感じられない世の中って、ちょっと違うんじゃないかと思う。

一律の目標設定。いつまでも上がり続けるという成長幻想。

そろそろ私たちは、こういう価値観の世界から出ることを考えてもいいのかもしれませんね。

もっと楽に深呼吸して生きられる世界になるといいなって、心から思ってます。

 

 

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努力恐怖症の人が努力出来るようになるには。

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先日のこちらの記事を書きながら、思ったことがあった。

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何かをやろうとする時。簡単に「やります!頑張る!」って言える人と、そうじゃない人がいるんじゃないかなってことだ。

例えば何かの目標を立てたとして、それに向かってまっすぐに努力をしようと行動に移せる人には、ざっくりと2種類あるように思う。

 1)努力することに内的抵抗がない人

 2)ハングリー精神が旺盛な人

1)は端的に言ってとても素直な人なイメージ。過剰な期待を背負うことなく、自分軸で自分の事を決められる。自分や目標に対して妄想がない、或いは少ない。いいことを聞いたなって思ったら、自分にそれを取り入れることに躊躇ない感じ。

2)は、もうちょっと複雑だ。恐らくこれまでの人生、或いは環境の中で目標を目指す動機=「ばね」となり得る要因を抱えた人。目標に対して貪欲に「達成したい!」という熱い思いを持てる感じ。

世の中で所謂「成功」ってのを収めている方々は、このどちらかの要素をお持ちなのではないかと思う。もちろん、1)2)に関わらず、その成功を手に入れるまでの努力は確実に必要だ。その人がそれを努力というかどうかはわからないけれど。そう。成功って、才能とか環境だけは成し得ないものだ。

だからかもしれないけれど、既に成功をしていたり、成功のパターンをよくご存知の人から見ると、成功への努力ができない人に対して、ちょっと視線が冷たくなりがちなんじゃないかなあ、という気がする。

まあ、その努力(しつこいけれど、それを努力、と呼ぶかどうかは別として)をした人からすれば、努力なしに成功なんぞ出来るわけがないだろう!?と言いたくなる気持ちは理解できる。人って自分が頑張れば頑張るほど、それをしていない他人に厳しくなる傾向がある。

でもね。努力出来ないって人の中には、努力をしたいのだけれどそれが出来ない、という人も少なくないんじゃないかってね、そう思ったのだ。

先ほどの2)のハングリー精神の人。これはすごいと思う。恐らくだけど「ばね」というのは、大抵の場合結構大変な経験とか、環境の中で育まれることが多い。大変な思いをしたのに、奮起してそれをばねとする、という力技は並大抵のことではない。私のようなヘタレ人間からすると、どちらかと言えばその方が成功することよりすごい、なんて思ってしまう。

しかし。そもそも意志が弱いとか、努力が出来ないとか言われている人の中にも、同じようにたいへんな経験や環境に置かれている(た)人が、たくさんいるんじゃないかと思う。ハングリー精神の人と違って、そこから這い上がる力技を使えない、力技を使うのに怖気づいた人たち。

そういう努力恐怖症(敢えてそう言おう)の方にとっては、例えばの目標が「お金持ちになる」だったらまだいい。お金持ちにならなくても生活は出来る。「お金持ち」を選ばなければいいのだ。それで不都合があるかもしれないけど、是が非で全ての人の目標が「お金持ちになる」ってことでもないだろう。

でも目標って、お金持ちになるってことばかりじゃない。例えば、自分の好きなことを仕事にしたい、とか、自分がこうだって思うことを社会で試したいとか、こんな風に働きたい、こんな人とお付き合いをしたい、こういう仲間を集めたいとか。こういった人生にのっぴきならない目標の方が「お金持ちになる」よりも遥かに多い。おまけに、それはその人の人生にとって多大に影響するのだ。

そういう人生に直結する夢や目標を描きつつも、それに向かって努力ができない、というのは大変つらい。いやいや!好きなことに努力なんか必要ないよ~って方もいらっしゃるかもしれない。でも、この努力の中には、何かの実現のために人に何かを伝えるとか、私やります!って手を挙げるとか、それをやり続ける、とかそういう行為も含まれる。それは成功への努力が普通に出来る人は「それ努力ですか?」って思うかもしれないけど、そう、それも努力恐怖症の人からみれば、たいへんな努力だ。

そのくらい普通に出来るでしょ!?頑張ってよ!って他人は言うかもしれない。でもね。目標達成のためにはそのくらいのことはやりなよ!って言える人は、幸せな方だと思う。それがこわくてこわくて、いっそ夢なんて持たない方が楽だ、とか、もう叶わなくていい、そこそこでいい、むしろ目標なんかに煩わせられたくはないって思ってしまう人のなんと多い事か。

更に努力恐怖症の中でつらいのは、こころの中、無意識の中では「そんなのムリ」ってあきらめてしまっているのに、表層意識では「頑張ります!」って言ってしまっている人たちかもしれない。無意識でブレーキを踏みしめながら、表層意識ではアクセル全開なのだ。ものすごく消耗するし、求めているはずの目標にちっとも手が届かない。その上その矛盾を指摘されたり、非難されてああ、自分ってなんてダメなんだろうって凹み続ける。まさに踏んだり蹴ったり。

だからもしこれを読んでそんなつらさや、停滞感に心当たりがおありになる方がいたら。それはあなたの意思が弱いわけでも、努力が出来ない人だってわけでもないんですよ、と私はお伝えしたいのだ。

努力が出来ない、努力をするのがつらいのは、それはそれなりの理由と、積み重なった自分の歴史があるからだ。特にこれまでの人生で「無力感」を育まざるを得なかった人。そういう方にとっては、目標、責任、何かを成し遂げるなんて聞いただけでもう、胃のあたりに強い感情がぐっとこみ上げてくるんじゃないかと思う。

或いは何の感情や興味も湧かない方。そういう方はもしかして、それだけ「今よりも明日がちょっといいかも」という可能性にずっと心を閉ざして来られたかもしれない。明日を期待して、それに裏切られ続けるのはとてもつらいことだから。

だからこそ、努力恐怖症の皆さまへご提案がある。もし、そんなつらさを感じられていたら、今すぐにその努力をしようとすることをストップして頂きたいと思う。努力恐怖症にとって努力は自殺行為。そこを頑張っても自分が疲弊してしまうだけの可能性が高い。だからまず努力をやめる。だいじょうぶ、努力をやめたところで絶対に死ぬようなことはない。

まずは努力のアクセルを踏むことをやめる。そうするとブレーキがかかって自然にとまることになる。そう、アクセルもブレーキも踏むのをやめて、いったん運転する車から降りるのだ。

降りて何をするかといえば、まず休憩。車や運転のことは考えずに、涼しいところで昼寝でもした方がいい。まずはゆっくり休んで、頭をからっぽにする(休み方にもコツがあるから、これは改めてご紹介したいと思う)。

もうこれ以上休めない、頭をからっぽにするのも飽きたよ!ってなったところで、次にやること。それは自分のなかにある「無力感」と向き合う作業だ。自分はとても幸せになれそうもないとか、自分なんて何もできない、何の価値もない、誰かにご迷惑をおかけするだけの存在だ、とか。そういう思いと対峙する。ここに向き合うのはちょっとつらくて大変な作業になるかもしれない。でも、この作業を抜きにして、車を運転し続けても目的地には辿り着けない。

努力努力って、世間は結構ザツに言いますけどね!努力をするのにも順番ってものがあるんですよってね、私は申し上げたい。努力の順番としてはまずは休む。休めたら、次に自分の「無力感」といっしょに向き合い、過ごす。人生の目標や成功を目指す努力は、このあとの話だ。

だいじょうぶ。いくら休んだとしても、「無力感」に時間をかけようと、決して時間をかけすぎるということはない。急がば回れ、だ。

この順番を追えば、自分の人生の目標や目指したいことのために頑張れるような成分が自分の中に根付く。そうしたら張り切って車に戻って、目的地を設定したらいい。再度ハンドルを握った時、いかに自分が大変な運転をしてたのか!?ってのを実感できると思うのだ。

そうなったらあとは目的地を目指すのみ。もちろん目的地へと向かう努力も必要になる。なるけれど、その時にはその努力が出来る=普通にアクセルを踏んで、車を運転することが出来るようになっているはず。そうなったらアクセル全開でぜひ、目的地まで走りきって頂きたい。

そう、努力にはするべきタイミングと順番があるってこと。「あなたは努力が足らない」とか「真剣に努力してるの?」という言葉に心がざわつく方はぜひ、ちょっとこの話を思い出して頂けたら幸いである。

 

~休み方を覚えたり、「無力感」と向き合うのがひとりではつらい方、ご相談下さい~

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それって偶然?それとも必然?

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何かこう、自分のなかに問題みたいなものとか、生きづらく感じるようなものを感じておられる方って、実はけっこう多いんじゃないかな~って思うんですよね。

電車の広告とか、本屋さんの入り口あたりに並べられている今週のベストセラーの中に、どう生きるべきか、とか、人間関係に悩むあなたはこれを!みたいなね。そういう類の本の宣伝が必ず入っている。

そしてここ最近、また第〇次?占いブームだそうです。企業のメンタルヘルスチェックが義務化されたり、臨床心理の世界でも公認心理士という新たな資格保持者が誕生したりしていますが、まだまだ受け止めるお皿の方は足らないみたい。それだけ何かに悩んでいらっしゃる方が多いってことじゃないかな、と思います。

で、ね。私もそうだったんですけども、自分が何かに悩んだり困っている時ってまず「情報」から入る方、多いんじゃないでしょうかね。web上でカウンセラーさんのサイトとか、同じような悩みついて書いてあるこういうブログをサーチしたり、いろいろと心理学の本を読んだりする。ほんとに手軽に色々な情報にアクセスできる、いい世の中になりました。

でね。例えば何かに悩んでいて、そのことについて調べていたとして。その時、たまたま心理学的なアプローチで書かれている何かを読んだとします。そうしますとね、往々にして、あなたのその問題の奥にはもしかして「親子関係」が隠れてますよ!みたいなことが書いてあるわけです。

すると、そうなのか!ってびっくりして腑に落ちたりしませんでした?そうそう!そうだった!私の親子関係ってそうでした!みたいにね、納得しちゃう。私も初めてこの「親子関係」説に出会った頃は相当コーフンしました。そうだったのか、それが原因だったのか!って気付かされたことが沢山あったんですよね。

一方、これはスピリチュアル系に多いかもしれないんですけどもね。そんな界隈でよく説明されているのが「問題はあなたがつくりだしているものですよ」っていう説。

え?違いますよ、私がこんなに困っているのは、会社のAさんがもうほんとにひどい人だからです!とか。いえいえ、私は被害者で、旦那がね、ひどいんですよ、金遣いが荒くて浮気はするし云々。

こんな風に思っていたら思っていたほど「実は問題は私がつくってました」説を理解すると、あらびっくり。えええええー!?っていう驚きと、よく考えてみればそうかも!?ってね。またまたコーフンするわけですよね。この世の中の仕組みがとうとうわかったぞ!って。ああ、それでか!ああ、だからか!って、今までわからなかった答えがですね、なんだそういうことだったのか!って腑に落ちる。コペルニクス的転回。

この親子関係説、そして、問題は私がつくっていました説もね。ある意味本当に正しいし、すごい発見だって私も思うんですよ。

確かにそう。親子関係からはじまった関係性のつまづきだったり、自分の中のものを外に投影させたりして、どうやら人は「問題」というものをクリエイトしている生き物のようです。こうやって、今までとは違う視点で自分の「問題」を見つめることが出来るってのはすごいことです。

もし「問題」に苦しむのがもういやだな、、と思われていらっしゃる方がおられたら、こういったいくつかのアプローチや、問題を俯瞰することで新たな視点を得る、というのはとても大切だし、効果もある。

しかし、今日私が話題にしたいのは、この視点をゲットして以降のお話なんです。

というのが「問題」に悩んでいる方ってね、本当に真面目な方が多いな~って思うんですよね。真面目を前面に出しているかないか、って違いはあれども、真剣に悩まれている方ばかりです。

そういう真面目な方が、こういった「問題」を俯瞰する新たな視点を持つとですね。

極めちゃう。

そう、新たな視点を極めてしまうんですよね。

そうするとですよ。もう、世の中のありとあらゆる「問題」ってやつが、自分の親子関係に帰結してくる。そして、全ての「問題」は自分がつくりだしているものだって骨の髄まで思えて仕方なくなる。

ここでブレイクスルーが起こる方もいらっしゃるようですが、一方、この視点を極めたところでスタックしてしまう方も大変多いように思います。

で、極めた方がなんて仰るかっていうと:

・「問題」が起こるのは、私がまだ親子関係で未解決(自分の感情を処理できていない)ことがあるからなんです。。

・「問題」が起こるのは、私がまだ自分の中に未解決(直面しなくてはいけないものがあるのに避けている状態)なことがあるからなんです。。

ってね、みなさん仰います。

それも間違いじゃないのかもしれません。理論的には。

でもね。私たちは神さまじゃないんですよね~。万物を創造してこの世の理をおさめている全知全能の神じゃない。

だから「問題」ってものが全て必然的に起こってる、なんてことはあり得ないって、私は思うんですよね。例えばですが、いきなり夕立が降ってくるのも、信号機が赤ばかりになるのも、電車で隣の子どもに足を踏まれたのも、みんなあなたの親子関係や、自分の中の未解決問題のせいですか?って話です。

何かに目覚めたり、極めたりしたから、信号が青ばかりだった、とか、電車の席にいつも座れた、とかね。私はナンセンスだって思いますよ、ほんと。魔法使いの理想化が過ぎやしませんか?と思うんですよね。

こうやってお話をすると「あ、そうか、、」ってなることも多い。

でもこと、自分の問題にまたフォーカスすると、やっぱりまだまだ自分が至らないせいで、とか、どうしても親との関係が修復できないせいで、って思い続けておられる方が誠に多い。

もしかして私たちは、問題には答えがある。そしてその答えはひとつである。っていう考えに慣れ過ぎてしまっているのかもしれません。白と黒をはっきりつける、とか、善悪の線を引く、とか。

確かに。昨今、感染を拡大させないためには、移動しちゃだめだ、とかそれじゃ経済がまわらない論争が繰り広げられてますよね。そして、どちらかが正しいのだ!?或いは、お前の態度はどっちなんだ!?と迫る圧が非常に強いように見えます。

それってね。実は感染拡大防止そのもののことを話し合ってるんでしょうか?「私のこの不安の原因を解決してくれ!」って思う心がダダ洩れているだけじゃないでしょうか。

そう。だからね。この移動が良いとかダメとかいう意見のどちらにも理があるように、「問題」が起こるのは偶然でもあり必然でもあるって私は思います。問題には、私の中の何かが作用しているし、外界からのご縁も作用している。今日たまたまその電車に乗り合わせた運命でもあれば、それを自分が選んだ、という意思でもある。きっとそのどちらもあるんだと思います。

ですから、もし学んでも学んでも、ご自身の問題が一向に減らなくて落ち込んでいらっしゃる方がいれば、是非安心して頂きたいと思うんです。それはあなたのせいじゃないです。あなたが持っている環境や性格や学びのせいだけで減らないわけじゃない。

そして問題の構造や原因がわかるってことと、問題を解決するってことは同じことではないです。もしかして、ね。そうやってご自身が問題を解決するってことにとても一生懸命なのは、問題解決そのものより、問題を持っている時のご自身の心の中にある「不安」を解消したいのかもしれません。

もしそうであれば、問題の解決よりも自分の不安感に向き合った方がいいよーっていうサインなのかもしれませんよ。

もし何か思い当たるようなことがあれば、お気軽にご相談下さいね。

 

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「結果」にまつわるエトセトラ。

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それは若い頃、新入社員の頃会社の上司からよく言われたセリフ。

「とにかく結果を出せ、結果が全てだ。」

「大人の世界は子どもの世界と違って、プロセスなんか誉めてはもらえない。」

「だから結果を出すしかない。認めてもらいたかったら、方法はそれだけだ。」

このフレーズを聞く度に、ひえ~!大人の世界って厳し~!って思っていた。そういうの、好きじゃないなあ、、、と思いつつも、まあ大人の世界ってそうなんだね、と思っていた。それに疑問を持つこともないままに。

会社では毎月の営業会議があった。予算未達の月は、もちろん会議の前にとっくにそんなことわかっていて、とにかく会議がユウウツだった。会議準備のために電卓を叩きつつ、目標予算をクリアできていないことにどう言い訳をしようかと、言い訳のことばっかり考えていた。

会議中、今月は〇〇万円の未達です!すみません!って言うだけじゃ許してもらえなくて、どうしてなんだ?って問い詰める切れ者の課長の前で、どうして予算を達成できなかったのかという説明をしなくちゃいけなかった。何をどう説明しても、彼らから見れば結局仕事っぷりが甘い、ということに尽きるのである。言われるまでもなく、それは自分でもよくわかっていた。

今思えば、だけど、あの頃から私は予算をクリアする、みたいなことに真剣になりきれなかったのだ。いや、利益を出すために真剣に努力しよう、工夫しなくちゃって気持ちだけはあった。けれど、身体が全面的についていかない。結局、自分でも納得いくような努力行為は出来なかった。出来なかったけれど、最終的には帳尻を合わせて、上司が言う所の「結果」というものを何とか示し続けた。可もなく、不可もなく、まあ一応なんとか達成しましたって感じ。自分でも手応えはなかった。

それが営業目標であっても、私にとって目標ってのは、実に気が重いものだった。目標予算を生き生きとして追っている先輩や同僚はおかしい人たちだと思っていた(そうは言わなかったけど!)。数字をクリアすることに、あんな風に取り組める人たちがいるんだってことが、ちょっと信じられなかった。

思い返せば、私にとっては会社の営業目標と、学生の時に試験でいい点を取ることって、ほとんど同じことだったみたいだった。学生の時は、試験や単位はなんとなくやっているうちに、そこそこでクリアするってことが自分のデフォルトになっていた。ものすごく優等生でもなく、落ちこぼれでもなく。まったく勉強しないわけでもないけど、猛勉強はしない。まあまあ、そのくらい点数があればいいんじゃない?合格っていうライン。まあ、どっちかっていうと要領だけで世渡りしてきた感は否めない。

で、ですよ。大人になって随分と経ってから「あれ?これってなんかちょっと?」って違和感を感じるようになった。発端は、自分で好きなはずのことをしても、どうも気が乗らない、というのを発見したことだった。

試験の点数や営業数値だったらまあ、気が重くてもそうおかしくもないかもしれない。だけど、本当は自分が好きな筈のこと。それは文章を読んだり書いたり、絵を見たり描いたり、歌ったり、旅に出たり、とかそういうことなんだけど、それですらある日「気が重い」と感じている自分を見つけてしまった。明らかにやれば楽しいのに、どうにも始めるのに時間がかかったり、やり続けることがつらく感じてしまうのだ。

あれ?ほんとは好きなことじゃないのかな、、、と思ったこともあった。まあ、いくつかの趣味はそういうこともあったかもしれない。好きじゃない、というよりも、義務感でやっている感じ?

そう、義務感。

なぜ好きなことに対しても、義務感みたいなものが降ってきちゃうのかって考えたんだけど、やっぱりね。どうもこれは幼少期の思いぐせが残っているんだという結論に至ったのだった。

私の父親は、ちょっとしたことに動揺する性質である。強面で若い頃は瞬間湯沸かし器そのものだった。ちょっとでも自分が思ったようにならなかったり、うまくいかないことがあると、だいたい母親を責めていた。責めるって、たぶん父としては責めている感覚はなかったのだと思うのだけど、それを目の前にしている私からしてみれば、充分責めたりなじったりしているように見えた。

それは例えば、母親が行きたい、といったお店が休みだったり、車の運転中、父が「こっちだろ?」と母に聞いた道がいっぽん間違えてたり、とか、ほんとにそんな些細なことだった。そんな時、あー間違えちゃったね~あはは!お父さん、違うよ~ドジだね~(笑)みたいな展開には絶対にならなかった。

「だから言ったじゃねーか!」と父が声を荒げ、母は不機嫌になって黙るか、キレるかどっちかだった。子どもとしては、それが目の前で繰り広げられても、まあ大したことはないよって気にも留めてないというふりをしていたと思う。車の中の空気がそれ以上深刻にならないよう、けんかに新たな火種を提供しないよう、私は関与しませんよ、という呈で、おし黙って車の外を見ていた。

そう。この結果が思ったようにならない場合、理不尽に責められるってのが、私が幼少期から「結果を出さなくちゃならない」時に感じる感情の源だった。結果というものは、自分じゃなくて他者が設定するもの。そしてそれを設定した他者は、設定した通りの結果にならないと、ものすごく怒ったり、怒鳴ったり、不機嫌になるって決まっていた。

それだけではない。なじられたかわいそうな母。不機嫌になって空気を凍り付かせる母をそこから救出しなければならない、という仕事もまた私が負うものだった。少し大きくなると、母の代わりに父に「うるさい!」と怒鳴り返したり、「いい加減にしろ!」と言い返して役目を果たした。

そう、私は「結果」から自分が連想するものすべてに、父と母の両方の面倒をみなければならない、という設定をいつの間にかしてしまっていたようだった。

「結果」というものは、他者の思い通りでなければならない。父をがっかりさせてはいけないし(母を怒鳴るから)、母を救わなければならない(母が不機嫌になって雰囲気がめちゃくちゃになるから)。これが私が結果とか目標とか、とにかく何かを目指すって時に身体に出現する、あの何とも気が重い感じと直結していたのだった。

そしていつ何時も「結果」をいつも求めてやまない父にも、ほとほと嫌気が指していた。ドライブの行き先だけじゃなくて、子どもの成績や素行まで、なんでもかんでも「結果、結果」と求めてくる父に、自分でやればいいじゃん!って何度言ったことか。それでいて、彼らが一応満足する「結果」を出してあげるってことは辞められないのだった。

そう。これじゃあね。そりゃ「結果」ってものが伴う、と自分が思っているものをやるのが重くて重くてたまらなくなるだろうよ、ってことに、とうとう気が付いたのだ。私にとって「結果」ってものがね。自分じゃなくて他人の世話をすることだってことになってたし、「結果」ってものは出したら、だいたい他人から文句言われるもんだっていう設定になっていたのだったからだ。

そりゃ、困りますよねー!確かにこれは気が重い。無理もない。

ってことで、それを気が付いた時から設定を自分軸に何度も修正をして、今に至るわけである。今でもまあ、結果を出すことに苦手意識は免れないのだけれど、若い頃よりはだいぶましにはなったように思っている。たまには癖が発動しちゃうんだけれど、そんな時は「結果に責任負う必要ないよ」と自分に声をかけてあげることにしている。

なのでね。何かこう、気が重ーく感じることがあるっていう言葉とかね、態度。そんなときはちょっと自分のルーツから洗ってみると、なんで自分がそんな風に思っちゃってるのかってことがね、わかるってことがあるんですよね。

それで人生バラ色になるわけじゃないけど、設定し直すってことは、ひとつひとつ自分がラクに生きるためのよいトレーニングなんですよね。自分にもいいし、まあ、親のあれこれを恨まなくするためにも、設定し直しってのは必要なものだなって思う次第である。

 

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明恵上人が好き。(その2)

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そう、島にお手紙を書いちゃう明恵上人。ほんとうに、なんというかもう、色々ぶっ飛んでいるお方なのである。

それはもちろん、ブッダへの憧憬と仏道成就への強い思いにも反映される。

捨身飼虎(しゃしんしこ)。このイズムを夢の中でも、現実世界でも明恵上人は実践しようとしてしまうのだ。飢えたトラに自分自身を与える、というブッダ(の過去生)に倣うように、自分を何度か傷つけようとしたり、自分の身体を与えようとしたりする。そしてその最たるものが、自分自身の耳を切り落とす、という行為である。

ja.wikipedia.org

明恵上人がお若い頃、修行のために座り続けた際に常に前にしたのがこの「仏眼仏母」の像だ。wikiの画像を見るとちょっと暗い感じだけど、なんのなんの。昨年、大阪で実物を見る機会があったのだが、この仏絵と対峙した時に私は驚いた。美術館のガラスを通してなお、この御仏の像が真っ白に発光しているように見えたからだ。後から図録を見ても全体のトーンは茶色の筈なんだけれど、今でも自分のこころの中の印象は光のように真っ白である。お母様を思慕した明恵上人が惹かれたこころを、ちょっとだけ分かったように思った。その白い光みたいなものに照らされて、包まれるような思いがする仏様の像だったから。

そんなわけで予想していたよりずっと大きく感じたこの仏絵を前にして、明恵上人が若い頃、耳を切り落としたことを思った。今の私たちの常識とされていることで考えると、そういう「自己犠牲」っぽい行為は誰も救わないよ、ということかもしれない。だって死んじゃったり、自分の身体が損なわれちゃったら、人を救うどころか何もできなくなるじゃないですかね。

でも明恵上人の行為は、そういった「常識」みたいなものからかけ離れている世界観の中で為されたものだ。それがどんな世界観なのか、正直私にはわからない。しかしそのことが、これも私にはわからないような境地にリーチする、ひとつのきっかけにもなったのである。

河合先生がそれを心理的、宗教的な文脈で解説されているのだけれど、それもおおおお、と納得の分析なのだけれど、私は何よりこの圧倒的なやっちゃえ〇〇、みたいな明恵のエネルギーにとにかく憧れる。

だからって耳を切り落とすとか、そんなことをしたいとか、ぶっ飛びたい、とかそういうことではない。そうではないのだけれど、何かにのめりこむように一心に自分のこころをひとつの対象にぶつける、というのはなかなか出来そうで出来ないことだ。

信じることのすさまじさや、信じることで起こるミラクルをすごいなあ、憧れるなあ、と思いつつ、でも、その代償を思ったり、現実的な価値観で考える時、私は素直に「私もそうしたい!そうしよう!」とは思えない。だからこそ私は凡夫でここにいられるわけだけど、でも、異世界に瞬間ワープしちゃって、この世界の観方ががらっと変わる、みたいなことって、自分が出来ないからこそちょっといいなあ、、、ってずっと思っている。

私が小さい頃から持っている、ちょっと不思議に憧れるみたいなところを、体現して下さっているの方っていろいろいらっしゃるのだけれど、仏教界ではこの明恵上人が私の一押しなのだ。何しろ、ものすごくピュアで、でもきっとそれだけじゃなくて、同時にピュアの対極のものも持っていて、両方抱えて平気でいるっていうそういうお方のように思えるから。それは、私がそうありたいな~と思う究極の理想みたいなものなのかもしれないなって思う。

そんな明恵上人のことばのなかで有名なものに「あるべきようは」というものがある。これについては様々な解釈があって、たくさんの解釈がされている。私にとっても、このことばの真の意味とは?と考えると、いつも果てしない思いのなかに放り出されるように感じる。今なおこうだよね!ってことってわかってない。

わからないながら端的に言ってしまうと、月は月のように、政治家は政治家のように、母は母のように、それぞれ「あるべき」姿を「追及する」という態度がたいせつですよ、ということらしい。

ちょっと前に「ありの~ままの~」っていうのが流行りましたよね。私はちょっとそれ、どうなのかなあ、、、?と思ったことがあって。っていうのも、この「ありのまま」って、何を以って「ありのまま」って言ってるのか私にはよくわからなかったからだ。

確かに、今まで何かを自分の中に押し込めるように生きてきた人にとって、その枷が外れ、自分の中にsometingを発見するっていうカタルシスは素晴らしいものだと思う。

でも、それが「ありのまま」なのか?というと、うーん、どうなんだろうか?それってただその抑圧してきたものを理解したってことで、それ後の自分が「ありのまま」っていうことでもなかろうよって、どうしても思ってしまう。

特に若い頃には何かの理想像を求めて、それを「自分らしく生きる」みたいなことばで表現する。でもちょっとそこで考えてみたいのは、その「自分らしい」自分って何だろうね?ってことだ。

その「自分らしい」を目指しちゃう、その行為こそが、自分の自我を満足させる夢のような自分、というパラドックスに陥りやすい罠なんじゃないかなーって。だから、ありのままじゃなきゃだめなんだ!ってさまよっちゃうのも、ちょっと違うし、だからって何もかもを自分らしい=自分ファーストの視点だけで考えるってのもなんかちょっと違う。いや、自分を満たすことはもちろんたいせつなことなんだけど、やり方を間違えるとただの放埓にしかならないかもよって意味で、だけど。

そんな中で、この明恵上人の「あるべき姿ってなんでしょうね、、、」とこの問いかけってものすごくいいなって思ったのだ。あるべき姿なんてものは、時と場合、そして瞬間瞬間で常にうつろっているものだと思う。そして何より大事なのは、「なんでしょうね、、、」って自分が考えるってことだって、この歳になるとほんとうにそう思う。

そう、自分がどうあるべきなのか、あろうとするのか、なんて疑問ってのは果てがない。昨日の判断はもしかして、今日は違うのかもしれない。だからですね。歳をとればとるほど、何かを言い切るってことがどんなに難しいことかって、身を以って知るんですよね。

それにしても、常に何かを問い続けるってのも、これは達人/変態じゃないと難しいのかもしれなくて、だから私たちのまわりには、お作法、とか、お約束、とか一定のルールがある。もちろん明恵上人ご自身も、ものっすごい細かいルールを弟子に示したりしていた。

そのお作法、とか、ルールってね。一方、なんでそのルールがあるのか、なんでそのルールを守るのかってことを考えるためにあるのかもしれない。そして、それを考える時には、自分視点で考えることってやっぱり大事だよね、って思う。

特にこんな世の中では、とかく他人の決めたルールにいいとかわるいとか、どうなの!?ってなりがちだ。その前に、自分ルールを自分で決めて、日々検証していくってことが、私が正気を保つ上でのヒントになるんじゃないかなって思っている。

そういうの、私な好きでも得意でもなかったけどね。どうやら人生ってそういうコツコツ的な感じのもので構成されているみたいなんですよね。。。

だからこそ私の中では今も尚、明恵上人がアツいのかもしれない。好きじゃないと、そうですよね!って素直に言えないですからね。ってなわけで、私は明恵上人が大好きなのである。

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明恵上人が好き。(その1)

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何年か前の夏のはじめに、京都の高山寺に行った。目的は「明恵上人」。

私が「明恵上人」という人物を知ったのはかれこれ17~8年前。河合先生のこの本を読んだことがきっかけだった。

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵上人、という方は平安末期の1173年生まれ。奇しくもあの浄土真宗の祖である親鸞聖人と同じ年のお生まれである。

一般的には親鸞聖人の方がメジャーでしょう。日本史を学ばれた方なら、鎌倉仏教のところで出てきた親鸞の名前をご存知の方も多いかもしれない。同時期の僧侶であったにも関わらず、残念ながら明恵上人については一般的にはあまり知られていない。

その理由のひとつに、明恵上人というお坊さんは、特定の宗派に属しきれないお方だった、ということが挙げられるんじゃないかと思う。例えば曹洞宗、とか、臨済宗、とかですね。仏教には宗派ってものがある。それぞれに悟り、とか、極楽、と呼ばれるところの「境地」に辿り着くための道は、宗派ごとに異なるのだ。ちゃんとその道を辿れるように宗派ってものがあるって言ってもいいのかもしれない。

で、明恵上人。なんでまた宗派に属しきれないお方だったかっていうと、ひとことで言えばユニークすぎる。ひとつのカテゴリーにはまりきれないお方。Extraordinaryって感じ。

何がそんなにユニークかっていうと、明恵上人って仏道を邁進する、というよりも、ブッダに、そしてこの世界の森羅万象のあらわれ、というものに恋しちゃった、仙人のようなお方なんじゃないかって私は勝手に思ってる。そのエピソードも結構ぶっ飛んでるものが多くて、私にとってはインスパイアの宝庫とも言うべき存在なのだ。

明恵上人の何がユニークかって、まず自分の見た夢を詳細に、そして長期にわたって記録していたという点。19歳の頃から夢を書き始めたと言われているけれど、それから60でお亡くなりになるまで、夢の記録と時にその解釈を書き残し続けた。

なんで夢を書こうって思いついたのかな?と不思議に思っていたのだけれど、河合先生によると、当時の仏教界では夢というものが大切に扱われていたとのこと。見た夢から何かを受け取るってことと、その夢を見る事自体が修行のひとつだってことだったらしい。確かに夢で神さまに会った云々、っていう宗教的な体験したって話もよくありますよね。

だから明恵上人が夢を記録しようって思い立ったってことはそう、不思議じゃないかもしれない。しかし心理学も何もなかった時代、夢で見たことを現実を使って完結、成就させようとした明恵は、仏教人としても、その生き方にしても異色中の異色の存在と言えるだろう。明恵上人にとって、人生の主題、そして仏門を極めるということとは、そのまま「夢」を生きるってことだったのだ。まさに河合先生の本のタイトル通り「夢を生きる」僧侶である。

しかし「夢を生きる」ということはそう簡単なことじゃない。明恵上人のように、夢と現実の皮膜が薄く、常に夢の世界と現実世界を行ったり来たりすることは並大抵ではないのだ。と言うのも、夢にはそれだけの底知れないパワーがあって、人はその夢のパワーの恩恵に預かることが出来る反面、下手をすると夢に飲み込まれて溺れてしまうという恐ろしい面も持っているからである。

あのユング大先生も、私たちが今、恩恵に預かっている、膨大な成果を得る以前、無意識の奥底までふかーくダイブする必要に迫られた。そこから生還されたからこそ、ユング心理学が存在しているけれど、無意識にダイブするということは、深海に潜るのといっしょで、無意識の奥底まで潜るのは自分を危機にさらす行為にもなり得る。潜った後は水上に上がって来なければ死んでしまうように、また意識界にちゃんと戻ってくるってことがどれだけ大切で、且つたいへんな精神力を必要としたことかと思うと、ユング同様、明恵上人とはまことに稀有な方だと思う。

さてそんな明恵上人の夢には、いくつかのテーマがある。そのうち最もエキセントリックで私が大好きだ~!と思うのが、ブッダ、仏を思うそのこころの強さである。帰依、というよりはもう、恋?と見まごうかのような強烈なパワーを持つその思いたるや!私はこの明恵上人が、もう、やったらめったらにない純粋さで、仏を求めるこころの熱さにいつもやられる。喚起されるところが半端ない。

その思いは明恵がほんの小さい子どもの頃から持っていたものらしい。当時4歳のかわいいさかりの明恵に、明恵の父がそんなにお顔が綺麗ならお上に仕えさせようか、なんてからかったのだ。それを聞いた明恵。「自分は僧になるのだ!」と火箸でそのかわいいお顔を自ら傷つけようとしたというのだから驚きである。たったの4つで、ですよ?後付けエピソードなのかもしれないけれど、万が一そうであっても、そんなエピソードがつくくらいの仏の道をいくのだ、という強さと純粋さをお持ちの人物だったということだ。

そしてそれは仏門を目指す、というよりも、とにかくブッダその人への思慕なのである。境地を得たい、とか恐らくそういうことじゃないのだ。とにかくブッダそのものへの憧れの思いがやまないのである。憧れすぎて、隣のお寺の仏像宛に手紙を書いたくらいなのだ。そしてその最たる思いが「ブッダの国天竺に行きたい!」という思いである。もう、なんだろうか、憧れのスターの聖地に行きたい、というファンの熱い気持ちに通じるものがあるじゃないか。

結局その天竺(インド)行きの夢は、明恵自身が見た春日権現のご宣託の夢や、おみくじによって諦めることとなるのだけれど、でもね。あの時代、日本に伝わったお経を読んで、そこまでブッダのことをひとりの人として立ち上げたイマジネーションの豊かさってすごいと思いませんかね?私たちがこの時代になってVRの技術を手に入れたというのに、はるか昔、明恵上人の中にはもう、VR的世界が広がっていたのだ。それってものすごくビビッドで、リアルな世界だったんだと思う。でなければ、遣唐使だってたいへんな時代に、天竺に行きたい!なんて想像もできないじゃないかと思う次第である。

明恵上人のこのイマジネーションって、これも私が大好きで参っちゃうところなんだけれど、自分のこころを向ける相手がもう、節操ないくらい自由だったってところだ。先ほども書いたけれど、仏像にお手紙を書くなんてのは序の口。これもぶっ飛んでるけれど、なんと「島」宛にもお手紙を書いて、お弟子さんに届けてね、なんてお願いしちゃってるのである。

島にお手紙。。。なんというイマジネーション!これが、明恵の無意識の底に潜る力の凄さを物語っているのだけれど、河合先生曰く、それだけじゃない、と。この島にお手紙を書いて、島を人と同じように見立てることを通じて、仏教の教理をお弟子さんに示しているのだ、というのである。これが現実世界と無意識を軽々と行き来している方の態度と思うと、私は興奮してもう震えちゃうのだ。

(つづく)

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境界線は神出鬼没な方がいいというお話。

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「人間関係」について、何かしらうまくいかない感じがする時。もしかしてそれは自分と人との間にあるらしい「境界線」が硬直しているからかもしれません。

これも最近は色々なところで言われていますから、人と人との間の境界線、という言葉をご存知な方は多いんじゃないでしょうか。でもこの境界線。普段の生活の中であまり意識している方は少ないかもしれません。概念としては知っているけど、何それ?それってどんな線??って感じ。

いきなりですが、子どもの頃、何かキタナイものに触った子に向かって「えんがちょ!」とか「透明バリアはーった!」って言ったとか言われたことってありますかね?

こっちからは私の陣地だから入って来ないで~!っていうおまじない、宣言。あれが「境界線」ってものをイメージしやすいものかもしれません。その線からこっちは私のもの、だから入ってくるにはちゃんと私の許可が要りますよ、っていう架空の線ですね。

この「境界線」がちゃんと機能している時は、相手と私がちゃんとわけられている。だから私は私で、相手は相手ってのが安定して成立してるんですね。

ところがこの「境界線」ってやつは当たり前だけど目には見えない。そこにあるような、ないような。誰から見てもわからないし、扱いには誠にやっかいな代物?です。でもどこかには、ひかれているらしい。

例えばあなたの友達がとてもつらい経験をされた場合。その話をあなたが聞いている時、きっとあなたのこころはそのつらい話に反応していると思うんですよね。ああ、そんなつらいことがあったのか、、と、聞いているうちに、自分もどんどんつらい気持ちになってくる。なんならちょっとうるっときてしまったりする。

この時に「境界線」は、ぐぐっと自分寄りに迫ってきているのかもしれません。線のすぐそこまで相手の思いが流れている感じ。もしあなたが人の気持ちに敏感な方である場合、既に境界線を突破して、ご自分のこころの中に、相手の思いが流れ込んできている可能性もありますね。

で、そういう状態になると、時として話し手は「ああ、自分の気持ちが伝わっているのだなあ」と感じられる。そうすると、話をする側、聞く側、共に同じ景色を見るように感情を共有している、という美しい関係性がそこに立ち現れるというわけです。

ただこの境界線。話を聞き終わった後もまだ、自分寄りにぐっと引き寄せられたままの位置にあるとしたら。どんなことが起こると思われますかね?

例えば。話を聞いた後も、もう、その話し手のことがいちいち気になって仕方なくなるかもしれません。相手の一挙手一投足に自分の全神経が向かって開いている感じ。だからその話し手が全然違うことで話たり、笑ったり、悲しそうだったりすると、もう、それが自分事のように感じられてたまらなくなる。

そんな相手の気持ちを感じ続けているうちに

・(話し手が)笑っているのはきっとこういう理由があるからだよね、わかるわかる!

・(話し手が)泣いているのは、こんなに辛い目にあったからだよね、わかるわかる!

ってね。どんどん自分の想像力がふくらんできます。あまりにも自分のその想像力が真に迫ってる故に!「そうなんだよね!わかるわかる!」って錯覚してしまう。本当は、もしかしてあなたが感じている「わかるわかる」と、話し手の気持ちは違うのかもしれないのに。

錯覚することそれ自体に、何ら害はないと私は思います。誰だって同じ経験をしている人なんてひとりもいないわけですからね。むしろ想像力と錯覚を以って「ああ、こんなのって辛いよね」と思えることって、人間にある素晴らしい能力なんじゃないかと思う。

が!しかし!ここで問題になるのは、これを使って自分や相手をコントロールの対象にしていってしまう、という点に尽きるんじゃないかって思うんですよね。

コントロール?なんで?って思われるかもしれませんが。が、このコントロールって色んな形があります。例えば「私はあなたがとってもかわいそうな目にあったってわかってあげたよね。だから私に何かを返してほしいです!」っていう思うこととか。

いやいやいや、そんなわけないですー!私はただ共感して話を聞いただけですー!ってね、仰る方多数かと思います。そうなんですよね、この「何か返してよ」って意外と自分にはわかりづらい欲じゃないかな、と思います。そして仰る通り、全ての人がそう思っているわけではない。

ただあなたが、ひょっとしてこんな感情をその話し手にちょくちょく感じているとしたら:

・ひどい目にあったという話を別の友達にもしていて、それを見たら、ちょっとおもしろくないって思っちゃった。なーんだ、誰にでも話すんだね。

・あんなに親身になって話を聞いたのに、私のつらい話は聞いてくれないんだね!

・ひどい目にあったって言ってたけど、私が経験してきたことと比べたら全然だよね!ちょっと甘えすぎなんじゃないの?

これも程度の問題ですから、大なり小なりこんな感情を持つことはあると思います。でも、もし繰り返しこんな思いを話し手に感じているとしたら。それはもしかして、あなたの境界線の置き場所が、ちょっと自分に寄りすぎたままになっているかもしれません。そしてそのことこそが、相手をコントロールしたい、という欲になるわけです。

心理学には「投影」また「取り込み」という概念があります。

「投影」・・・自分の中にある感情等を認めずに、自分の中に押し殺したままにしている場合、その感情をそのまま相手に「投射/映して」相手がその感情を持っているってことにしてしまうこころの働き。例えば「大声で泣き叫ぶ」ことが大人げない、そんなこと決してしちゃいけないって自分に強く禁止している場合、「大声で泣き叫ぶ」他人を見ると、それをものすごく嫌だと感じたり、だめな人!って思うこと。

「取り込み」・・・「投影」とは逆に、相手の中にある感情等がまるで自分の事のように感じられ、それは相手ではなくて自分のものだ、としてしまうこころの働き。例えば憧れの人がいたとして、その人の言葉や態度、恰好まで似せて自分のものにしようとする行為、働きのこと。

先ほどの例で、境界線がどこかで置きっぱなしのままになっているとですね。このように自分ではない、相手の何かが自分の中に乗り移ったようになったり、相手を自分のもののように思ったり、という現象が現れるわけです。これが「コントロール」の現象ですね。

これの何がだめって、苦しすぎること!だって相手はコントロール出来ないし、乗っ取られたら自分がなくなってしまう。どちらにしてもとてもつらい状態になります。つらくなるから、ますます相手から多くを望むようになったり、或いは自分を与えすぎたりしてしまう。で、それが思うように自分に還って来ないから、またつらさが増す、という悪循環。

ってことで「境界線」ってのはですね、このつらいコントロール現象を起こさせないように、とっても大事な働きをしているんですよね。これがあるからこそ自分と相手の区別がついて、自分がつらくならないようにしてくれている。

じゃあ、その「境界線」ってどこにひいたらいいの?真ん中?でもどこが真ん中なの??って思いますよね。だいたい見えないものをどこにひけと?というご質問については、私は「神出鬼没で参りましょう!」とご提案したい。今そこにあったと思ったら、あれ?もうあっちにいっちゃった、ってな感じ。

例えば、さっきつらいよね、って涙を流しながら話を聞いていたけど、今はもう、ランチのメニューのことしか頭にないって感じ。それって節操なくないですか!?って思われるかもしれませんが、きっと健康な境界線ってそういう感じくらいがいいんじゃないかなって思います。ポイントはつらくない、ってこと。

だから、さっき泣いたカラスがもう笑った、くらいに、境界線をこっち側に引き寄せたり、あっち側にやったり、ということを手品師並みに出来るってのが、らくちんな人間関係にベストなんだと思います。

他人の感情に巻き込まれやすい方には「境界線」をあっちこっちに出没される技を身に着けるってのを、ぜひお勧めしたいです。

よかったら今日からちょっと試してみて下さいね。

 

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