Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

自分の思い込みにたまにはじっくり時間をかけてもいいかも。

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自分の特質?の中のひとつに、コツコツと積み上げるってことが苦手っていう成分がある。

同じこと、ルーティーンを続けるってことがまあ出来ない。繰り返し、というのが死ぬほどキライなんですよね、わたくし!

で、このブログをこうやって書いている理由のひとつに、この自分の特質みたいなものって本当にところどうなのさ?と自分で自分に迫っている、というか、まあそんな感じもあるんですよね。

というのもですよ。割とよく言いがちな「私って〇〇じゃないですか問題」。これね、自分に対して「自分って〇〇じゃないですか」って言い切ってしまうって、ただ自分に対してめんどくさがってるだけかも?って、そんな風に思ったからなんです。

自分をひとつのカテゴリーに入れて、簡単に解釈できるようにしている。ラーメンも麺を打ち、スープをいちから作るのはたいへん。お湯を入れて3分、って感じで自分のことを解釈していることの方がインスタント、簡単。

インスタントラーメンも好きですけどね。時間だけはある今は、ちょっとめんどくさいな!って思いながら、麺でも打つか、、、とばかりに、自分の「私ってコツコツが苦手な人じゃないですか?」問題に向き合っているという、そういうわけです。

で、麺を打ってるうちに、あーそうなのかもーって最近思ったことが三つあって、今日はそのお話。

まずひとつめはですね。やる気とかコツコツとかってものを自分の性格とかにするってことの不毛さ加減。

やる気・コツコツってね、まあ、こうやって書いてみると明白なんですけど、性格じゃないんですよね。ただの態度。やる気があるからやさしい、とか、やる気がないから怒りんぼ、とかね。ね?こうやって並べてみるとナンセンスじゃないですか?

だからやる気がでなーい!、コツコツできなーい!ってのは、ただの態度。私ってものの成分の所為でコツコツできないわけじゃないんですよね。ただしたいかしたくないか、いや、してるかしてないかの違い。

これももう、最近いろんなところでとてもよく言われてますけれど、やる気ってのは物事に取り掛かる前にはないんですよ!というパラドックスがね、どうやらあるらしいんですよね。そう、何かをやる前はやる気なんか存在してない。逆なんです、逆。やる気って、その何かに着手した時にだんだん大きくなっていくものだから、そりゃもう、やらないとやる気なんか出ない、というわけで、何かをやっていない時に「私やる気ないでーす」っていうのは、「私、いま呼吸してまーす」と同じくらい当たり前なことみたいです~ってことなんですよね。

で、ふたつめがコツコツ。こっちの解像度をもうちょっと上げると、コツコツってのもね。主観的な結果論なんですよね、今から過去を振り返ってああ、コツコツ出来てたなって認識できるもの。おまけにコツコツの定義ってのが、毎日、とか、一日何分、とかね。結構主観的っていうか、自分ルールの中で定義されてるものじゃないですかね?って話。例えば「一年に一回なにかをする」ってことがその人のコツコツ、だったらば、その人が何年か後に振り返ってみてああ、一年に一回何かが出来ていたなって思ったら、そりゃもうコツコツ出来てたっていう、極端に言えばそういうことかもしれないです。

だからコツコツ出来ないとかって、実は相当他人軸で自分を見てるなって思ったんですよ。それで、出来るーとか出来ないーとかってちょっと違うかな?ってね、思いました。

っていうのもほら、よく丁寧な生活♡みたいな特集記事で、毎日ヨガとかウォーキングやって、その後は朝はスムージー飲んでetcetcみたいな?ああいうイメージみたいなものがコツコツ、と一緒になっちゃってる。

そう、コツコツってイメージなんですよね。だからイメージ通りに出来ないと、ああ、やっぱり私、あんな風にステキ生活やステキ自分にはなれないんだーっていうね、なんでしょうね?超憧れのげいのーじんは自分とは違うのよ!っていう逆ギレ?みたいな感じになっちゃう。要は自分で勝手にイメージを作って、そのイメージ通りにならない私ってダメ出ししてるだけなんですよね。あらら~それって自作自演の匂いが。。

で最後、三つ目。これね、自分を大事にするっていうこととちょっと関係してくる。実は私、相当長いことこの「自分を大事にする」ってことの意味がよくわからない人でした。これ、ちょっと解像度が低すぎのフレーズだと思う(とフレーズのせいにしておく!)。

自分を大事にするってね、私のような人からすると、じゃあー自分を苦しめてるものをぜーんぶスッパリ切り捨てちゃって~自分の好きなこと?やりたいことだけ自分にさせてあげる♡ってことだったんです。

で、まあその解釈も間違っちゃいなかった。確かに自分の人生のある時期にはこの解釈が役に立った時があります。でもねー、それだけじゃなかったみたい。

突然話がまたすっ飛びますけど(ご容赦くださいませ~)、私、お伝えしている通り、もんのすごい飽きっぽいんですよね。わ!って盛り上がるけど、すぐ冷める。そんな特質成分があるらしい。で、だからね、コツコツ出来ないのも仕方ない!ってそう解釈してたんですよ。さっきの二つ目のまさにコツコツ出来ないイメージを、飽きっぽいっていうイメージにくっつけちゃってたっていうわけ。

でね!ここで「自分を大事にする」ってことが登場します。そう、飽きっぽい私を大事にするってどういう風に?って考えてみる。

そうするとね、飽きっぽいって実は、わ!って盛り上がってすぐ冷める、まずそういう成分で出来ているんだねってわかる。それはそれで認めてあげる。でもそれって飽きっぽいってラベルを貼ることじゃなくて、わ!って盛り上がってすぐ冷める人なんですね、っていうことを認識するってことですよ~って自分に教えてあげる。

それがわかったところで、次はHOW TO おもてなしです。わ!って盛り上がってすぐ冷めるお方(自分)をね、どうやっておもてなしするかって考えるってことが、「自分を大事にする」ってことだってね。(よかった、ようやく話がドッキングした)ようやく気が付いたんですよね。

そう!子どもの相手と一緒ですよ。わ!ってなってる自分に「ほら、これ好きでしょ?」ってその興味のあるものをいっぱい並べてあげたり、こんなのはどう?って聞いてあげたり。で、すぐ冷める自分には、あれれ?あなたが夢中になってたのってこんな素敵なものだったよ~ってもう一度見せてあげたり、あーそれはもう要らないんだね~ってお片付けしてあげたり。

こうやってね、そのわ!って盛り上がってすぐ冷めるお方(自分)にね、もっと色々お相手をしてあげるってことが、「自分を大事にする」ってことなのかーってですね。まあ、今さらにして気が付いたってわけです、ええ。ラーメンの麺打ってよかった。

ってことでですね。自分って〇〇だから~って、特にネガティブに捉えている何かがあれば、麺打ってみるのもいいですよ~というお話でした。めんどくさいからインスタントラーメンでいいや~って時もあってもいい。けれど、たまにいちから麺を打つように、自分の思い込みに向き合ってみるのも悪くないんじゃないかなって思います。

お時間あったらお試し下さい~☆

 

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Warumiの勘違いーいい人にならなくっちゃ編

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本日はお久しぶりの「勘違いシリーズ」第二弾です。

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で、このお話のルーツは小学校の時にかるーいいじめの対象になった時に遡りたいのですけども。

いじめって言っても、今問題になってるような凄惨なやつじゃなくて、せいぜいね。クラスの女子たちに口をきいてもらえなくなる、とか、遠足のグループ作る時に最後まで仲間に呼んでもらえない、とかそんな感じ。

(余談ですけど、あのシステム!ほんとにやめたらいいと思う。ご経験あります?何個かグループを作る時に、先にリーダーみたいなのを何人か決めて、そのリーダーがひとりづつ自分の仲間を選んでいくやつ。あれだあれ。そりゃ既に「お仲間」がいる子どもたちには良いシステムだと思うけどさ!こちとらお仲間いないの!最後まで選ばれないってのが露骨に可視化されるんだぜ!って申し上げたい。今でもそんなのやってるいるんでしょうか?)

もとい。まあそれでもね、小学生のこころはかなり揺れたり、傷付いちゃったりしたわけですよ。誰かに助けてほしかったな~。残念ながら親は頼りにならなかった。彼らはね、子どもがスーパーヒロイン(お勉強が出来て、クラスの中心にいて、先生に好かれてる)だと思い込んでましたからね。。(嗚呼!)そこに「私、いまいじめられててつらい」なんてつまりは言えなかったわけ。てか、彼らは毎日壮絶に喧嘩してて、そんな話が出来る雰囲気なんてなかったんですよね~。まあ、珍しくもないお話です。

で、本題の今回の「勘違い」なんですけどね。この時に(多分8~9歳くらいの時かな?)「私は人に好かれるような素晴らしくて清く正しい自分に、自分を改造しなくちゃいけないんだ!」って思っちゃったこと。頼れる人がいなくって、自分で答えを出した結果がこれだった~

これもねー!前回の勘違いのお話の時にも書いた通り「清く正しい」ってね。はき違えると自殺行為だよ、って子どもの時にね~教えてほしかったよね!って怒りたくもなるってもんですよ、ええ!

というのも、その時の私の中にはこんなロジックがまかり通ってました。

みんなと仲良くしてもらえないダメな自分がいて↓

だからそのダメな自分を改造して↓

みんなと仲良くするどころか、あわよくばみんなに好かれて持ち上げられるような子になりたい!↓

だから「みんなに好かれる、清く正しいいい人」になる!

。。。。もう、子どもの頃の自分を目の前に正座させて「ちーがーうーだーろー!そっちじゃない!」と盛大に突っ込みを入れてあげたい。今そんな勘違いをしようとしている子どもがいたら、私は黙っていられないと思います。

いや私の場合確かにね。そういう態度や言い方じゃないほうがいいよってことは、山ほどあったと思うんです。私ってほら「上から目線」教育のエリートでしたからね。ちょっと想像してみて下さいな、そんな奴の態度って鼻につくじゃないですか?

だからね~今だったら私、その頃の私に言ってあげられる~「それって自分の気持ちの表現方法が違っちゃってるだけだよー!」ってね。

で、更に大切なのは「あなたがやろうとしている方向の『改善』って真逆で報われない努力だからね!」っこと。これは大声で言ってあげたい。

そうなんです。その時私が思った&目指したところの「いい人」ってねー!端的に言うと嘘つきになるってことだったんですよ。心のなかで邪悪なことを思っても、人を見下しても、そんなの思ってませんよ、見下してませんよって「良いところしか見えないようにする」っていう方向。

いやいや、ほんとのいい人になればいいじゃないですか?って思われるかもしれませんけどね~。これはまたふかーい話になるので、別の機会にゆっくり考えてみたいと思います。今回はまあ、乱暴に言ってしまうと、大抵の場合「いい人」ってのは他人から見た、いい人ってわけですよ。その人がどうであろうと、その人が「いい人」に見えたってだけの話。

例えばあなたが誰かに、この人いい人だな~って思う時、その人は「そうです、私がいい人なんです!」なんて言わないですよね~いい人ってのは本来そういうもんです。そしてそれは人が勝手に思うもんなんですよね。自分が目指すべき境地ではない。

ってことでね。小学生の私に話を戻すと、その時私は自分を矯正することに結構頑張ったと思います。矯正=自分が良いと思わないものを誉め、仲良くなりたいがためにおべんちゃらを言い、仲良くもなりたくない子にも自分からすり寄っていく。書いててあちゃー!って感じだけど、これはこれなりにたいへんな努力だったと思います。

まあ、結果ね、生活は見た感じ穏便にはなった。私を糾弾していた女の子が、その数か月後には逆にみんなのいじめの対象になる事件もあったりして。うーん、、、世の中って無常だわ~(平安貴族風に)って思う余裕も持てるようになった。

でもね~!見た感じ穏便だったけれど、自分が思ったような「いい人&人から好かれる人」になれていない自覚があった。それに自分でもとても不満でした。こんなに頑張って「上から目線」の自分を抑え込んでいるのに、費用対効果が割に合ってないじゃん!ってね。真剣に思ってました。だからそれ、真逆の努力してる証拠だよ!ってことだったんですけどね。

子どもの頃の自分には難しかったと思うのだけれど、変えるべきは自己表現の態度でした。自分の思ってることを相手にどう伝えたらいいのかってことだけだったんですよね。大人になってから理解したんだけど、「上から目線」なんてその人の本質じゃなくて、臆病者の態度でしかないよ、態度の問題だよってね。本当はそこをわかる必要があった。

でも私は「自分が外からどう見えるか」にばかりフォーカスして、自分の思いとか感覚ってものをぎゅーーっと押し込めてしまった。とにかく人から見てキレイでウツクシイこころの持ち主ですよってアピールすることだけに血道をあげていたわけです。

そりゃ叶わないよね~!でもね。それが真逆の努力だよってことをわかりはじめるまでに、それからずいぶんと長い年月がかかったように思います。成長するにしたがって、その「いい人に見える」ってのが、巧妙に変換、アップデートされたってことも理由かも。例えば仕事で有能だって思われること、だったり、人からいつも頼られるってことだったり、素敵な趣味をお持ちだってことだったり。もう、弊害でしかない!

で、本来私が持っているエキセントリックな魅力をねー、どんどん圧縮しちゃったんですよね。なんて言っても、エキセントリックだって黙っちゃいなくてね。狭いところに押し込められるのを嫌って、時々ぬっと姿を見せてきました。それって人をぎょっとさせちゃうみたいなんですよね!ほら、普段は「わたし、常識的なとってもいい人ですよ♡」体でいますからね、ち、ちがったの!?って、化け物の正体をみた、みたいに他人はショックを受けることがある。私は人から「わかりにくい人」って言われることも少なくなかったんですけどね。これがその理由のひとつだったんだな~って今では思います。

ってことでですね。私がここで申し上げたいのは、「いい人・出来る人・親切な人」だなんてもんは間違っても目指すもんじゃありませんよ、とお話。何十年の人体実験込みのご提案!

それを目指した時点で、本当の自分の魅力を押し込めちゃうし、だいたいそれを目指して態度ってバレちゃうんですよ。人から見たらバレバレ。あーあいつ、ウソつきだぜ!って見えちゃう。本人は努力しているのに、ウソつき呼ばわりされて、おまけに自分の本当に持っているものを殺しちゃう。費用対効果悪すぎ。

いいことなんてひとつもありませんからね~!

さっさと辞めて、いっしょに逆向きの努力をしましょうね~☆

 

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「お察し力」の副作用

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普段の生活の中で割とよく自分が感じる関係性には、一定の傾向があるように思います。

言葉はちょっと過激ですが、所謂「加害者」と「被害者」との関係性というものが、日常生活の中で自分のこころの中に割と頻繁に登場するというパターンがあるように思って、今日はそのお話。

加害者・被害者、なんて聞くとまるでそれは事件のようだけれど、本当の事件にまつわる話じゃなくて、自分のこころのスタンス/状態を表していると解釈頂ければ幸いです。

わかりやすく言うと、パワハラ上司が「加害者」、そのパワハラ上司にいじめられているA君が「被害者」の関係性のような感じ。パワハラ上司のせいで、A君がひどい目に遭わされている、ってこと。

で、こうやって人対人の中でこの関係性を見るとわかりやすいんだけれども、この関係性って、実は、結構繰り返されて強化されちゃうパターンでもあるんじゃなんじゃないかな、と思う。

例えば。あなたが道を歩いている時に前から、ものっすごい態度の悪い風の人が歩いてきた時。いかにも横柄で、絶対自分から道を譲らないってか、他人をどけても自分はまっすぐ歩くタイプのように見える。事実、こちらに近付いて来たけど、そのまままっすぐ突っ込で来そう。

そんな人に出くわした時の、自分の中に出てくる感情にちょっとフォーカス頂きたい。

あなたはその時、どんな感じ、感情をお持ちになられるでしょうか?

そんな時、あんまり関わりたくないから道を空けました、というように反応される方が多いのでは?と思う。いや、タイマン張るよ!って方もいらっしゃるかもしれないけれど、まあ、大抵の場合、めんどくさいことにならないように関わらないようにしようと判断される方が多いんじゃないかと思います。

で、道を空けた後のご自身ってどんな感じ、反応になりますか?へんな人!って思って道を譲った後、そんなことすぐ忘れちゃう方。或いは、へんな人!って思って道を譲った後、なんかムカついてきた、なんだあいつ??と腹が立ってくる方。まあ、時と場合によるよね、という方もいらっしゃるかもしれないけれど、こういった時の自分の反応のパターンに、ちょっと注視してみて頂きたい。

もし後者のように、自分が何か行為をした後に腹が立ってくることが多いっていう方。もしかして、ですけど、普段から「お察し力」高めの気遣いの人じゃないですかね?相手を見て、自分の発言とかポジションとかそういうのを調整する。で、相手に対して自分が合わせてあげることが当たり前になっていませんか?

この「お察し」能力。これって、これまで日本人の美徳というか、一世代、二世代前の世代においてはこれが出来ないとむしろダメ!っていう価値観ががっちり、きっちりあったように思う。とにかく察しながら一歩先回りの行動が出来ないとダメ!みたいなね。

この「お察し」出来る力。それって結構レベルが高い。それってまわりを色々見て、おまけに自分でこうしよう、ああしようと行動出来るからこそ発動できる能力なんだけれど、ひとつだけ問題があって、それがこの「お察し」力を発動した後に湧いてくる自分の感情なのである。

「お察し」した後に、腹がたったり、なんで私だけがいつも!?というような感情が現れがちという方。それってね、冒頭にお伝えした、自分を常に「被害者」のポジションに置いてしまうパターンをお持ちであるかもしれないです。

でね。被害者ポジションになること自体には、私個人的にはさほど問題はない、と思うんですよね。それって物語の役割みたいなものだから、この劇では被害者の役をやってますよ、で済んじゃう話だと思うんです。あ!念のため、これってもちろん本当の事件とか事故とは別のお話です!自分のこころの中の話ですので悪しからず~。

ただ、この被害者ポジションなんですけどね。ひとつだけ自分をそのポジションに置いてしまう副作用、というか弊害がある。それが「無力感」ってやつです。加害者は被害者に被害を与える「力」を持っている。だからその力で被害者をねじ伏せるというわけです。ってことは、被害者っていうのは、加害者に比べて弱い存在、と言ってもいいかもしれない。だから、この加害者・被害者の関係性がこころの中に現れた時点でね、人って、自分はこのことを解決する力がない、なんてね、どうやら自己暗示をかけてしまうみたいなんですよね。

だから、自分を被害者ポジションに置きがちなパターンをお持ちである場合、「自分には何の力もない」と、無意識のなかでつよーく思っておられる方が多いかもしれない。

でもそうやって顕在意識の中で思うのっていやじゃないですか?はっきり自分の中に「私はこの人/状況に何もできない」なんて思うのって相当いやだし、つらい感じ。救いがない。自分の人生を自分で生きてない感じさえしちゃう。

だからこそ、ムカつくんですよ。腹がたつんですよね。なんで私は無力なのさ?と。実はそれって相手じゃなくて、その無力な自分に向けられた感情でもあるんですよね。でもそのムカつく感情を、ただでさえ無力を感じている自分に対して向けたくないじゃないですか?武士の情け、というものがあるわけですよ。だからそのムカついた感情を、相手とか状況に向ける。かくしてなんだあいつ!?ムカつく!という感情が相手に向かって湧き出てくるわけです。

でね、そうするとまた自分が被害者ポジションになる→無力感が訪れる→感じたくないからもっと相手とか状況に怒る/責める、という無限ループがね、やってくるんですよ。もう無間地獄的。常につらい。自分を生きられない。だからまた相手や状況を責めてしまう。

ですからね。もしあなたが「お察し力」がとても高くて、自他共にそうだけど、それにハッピーじゃない、まわりや人にムカつくことが多いよってことがあったら、それは副作用が出過ぎの状態ですよっていうサインかもしれないです。

そのまま「お察し」し続けてしまうとね、どんどん自分が何もできない、自分では何も決められない、自分は何もない、という思いでイッパイになっちゃう。

本当はね、それって自分が無力な人間だからじゃないんですよ。逆なんです、逆!「気遣い」し過ぎているから自分が無力に感じちゃう。

まあ、急に「お察し」をやめるっていうのは難しい。これってある意味オートマティックに出てきてしまう態度だからです。やめろと言われても、ね。なかなか最初は難しいかも。だからまず、この気遣いと無力感のからくりがあるよーってことを知って頂けると良いなと思いました。で、「お察し」した後に相手にムカついたら「あ!わたし、今、自分を無力の人にしようとしてる!」ってね、自分に向かって言ってみて頂きたい。こういう地味~な繰り返しが結構ボディブローのように効いてくると思います。

即効性はないかもしれませんけれどね。一定の時間がたつとあれ?最近ちょっと気分が楽かも?なんてね、思われるかもしれません。魔法みたいにね。お察し力が高くて、お察しした後に相手にムカついちゃう傾向がある方、ぜひお試しください~。

 

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怒りがあなたにくれるもの

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こちらでも以前、怒りについてちょっと触れましたが、今日は「怒り」の感情が持つ可能性についてフォーカスをしてみたいと思います。

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突然ですが、最近怒ってますか?

自分が怒ると、または、怒っている人を見るとどんな気持ちになりますか?

「怒り」という感情のおもしろいところは、「怒り」が得意な人とそうじゃない人が結構はっきりしているっていうことだと思います。

前者のイメージは、例えば人の話を聞きながら既に眉間にしわがよっちゃう感じ。はあ?なんだそりゃ??と、そこから自分の感情に、特に怒りに、火がぱっとつきやすい感じ?

一方後者のイメージは、怒った人を見たり、自分がちょっとでも怒りの感情を感じたりするのと何かいやーな感じになるイメージ。

もしこのどちらかに自分が当てはまるかな、という方。おめでとうございます!それって自分の中に何か新たな鉱脈を探し当てられるかもしれませんよ♡というお話。

これはもう、よく言われていることなので既にご存知だと思いますが、怒りという感情は二次感情と言われています。二次感情。これは怒りというのは仮面のようなもので、仮面の下に本当の感情が隠されていますよ、という意味。あなたが何かに怒りを感じた時、実は、その怒りの下に彼の本当の感情があるってわけです。

だからよく怒っちゃう、という前者の方。或いは身近に前者タイプの方がいらっしゃる方。あなた/その方はとてもシャイな方なんだと思います。

いやいやいやいや、そんなこたあない!って思われるかもしれませんけどね、実はシャイなんですよ。だって、本当は自分の感情を隠すってことがものすごい得意ですからね!

一方後者の方。あなたはもしかしてシャイ中のシャイ。二次感情である怒りまで隠したいってどれだけ奥床しいのか。本当の感情→怒り(仮面その1)→その怒りを隠したい(仮面その2)!という三重構造です。ね?それってシャイ中のシャイでしょ?

そう。だから前者後者の方、共に、仮面の中に隠された「本当の自分の気持ち」にちょっと思いを馳せて頂きたい。

「怒り」って、実は再演なんですよね、リバイバル公演。昔やった演目をもう一度上演するっていう感じ。同じ演目を同じよーうに何度も何度も上演しちゃう。これが怒りの劇場のからくり。

自分の中にある怒りのストーリーのあらすじって、いつも一緒なんですよね。きっと怒りの数だけそのストーリーってもう、たっくさんあるんですけれど、ばさっと言ってしまうと、悲劇系。本当はそうしたかった/されたかった思いが、遂げられなかった!という悲劇ストーリー。

で、この悲劇のストーリーが、何かのトリガー(きっかけとなるもの)を介して、所かまわずじゃじゃーん!と上演されちゃう。特に前者の怒りを表出するのが得意系の方。自分の中に「悲劇劇団」ってのがあってね、がんがんに運営しちゃってます。「ああ!〇〇劇場に行けば、悲劇ストーリーを見られるところだよね!」って自他ともに認定されちゃってる感じ。上演ストーリーは必ず「そして誰もいなくなった」ばりに、とにかく誰も救われないってやつです。悲劇オブ・ザ・悲劇。

一部のコア&マニア化したファンを除いて、まあ、そんな悲劇を見続ければね。くらーい気持ちになりますよね~。その悲劇を見すぎちゃって、もうそういう演目は見たくありません!ってなっている方、或いはもう、演じすぎちゃって悲劇に自分を占領されちゃったって方が、後者の方なのかもしれません。もう、悲しいストーリーを見るのは耐えられないって感じ。

でね。まあ、悲劇劇場で悲劇ストーリーを繰り返し上演してももちろん良いんですけどね。コアなファン以外あんまり見に来てくれなくなる。自分もだんだん耐えられなくなる。で、この場合、コアなファンって自分のことなんですよね。だから怒り劇場は自作自演?って感じ。自分で演じてその自分を見てる。ね?よほどコアなファンじゃないとちょっと見続けるのは難しい。悲劇を見過ぎちゃった方っていうのは、そのコアなファンも辞めちゃいました、、って感じかな?演じる側、見る側が一体になってるのが、この悲劇劇団の特徴です。

でね。その悲劇ストーリーの中の、最も悲しい目に遭ってる登場人物ってのが必ずいるんですよね。この人物を救ってあげるっていう新たなストーリー、新たな展開をですね、してみませんか?っていうのが今日のお題なんですよね。

その悲劇の中で、最も悲しい目に遭ってるっていうのが、実は「本当の自分の気持ち」ってやつなんですよね。ほら、だいたい悲劇のヒロイン?って、継母にいじめられたり、危険な目に遭わされたり、ひどいことがいっぱい降ってくる役柄じゃないですか?もう見てるこっちがはらはらしちゃう。「本当の自分の気持ち」もそんな感じで、ずいぶんとやられちゃってる。ですからね、その悲劇のヒロイン(本当の気持ち)が救われるプロットを考えてみて頂きたいんです。

やり方としては、まずは怒りを感じた時、その下にいる悲劇のヒロインを探す。探し出せたら、次にそのヒロインの本当の気持ちを聞いてあげる。だいたいつらい、とか悲しいんじゃないかなって思いますよ。なんたって継母にいじめられてるんだからね!それでHAPPY!ってちょっと変態劇。

で、よくその気持ちを聞いてあげた上で、どうしたらその悲劇のヒロインが幸せになるか、自分もその悲劇のヒロインになった気持ちで考えてみる。王子さまを登場させよう!とか、ここは一発頓智で解決しよう!とか、魔法をかけてあげよう!とかね!ここは、出来るだけ楽しんで頂きたいところ。

で、それを悲劇のヒロインに教えてあげるために、自分で演じてみせてあげるってすごくいい。ほら、こうやって演じるんだよってね。教えてあげる。シャイなあなたは人前で演じるなんて無理無理無理ってお思いかもしれませんけど、ほら、演出だし。役柄を演じてるだけだからね。そうやって、自分で役者と演出家の両方をやりながら、ぜひ、新たなストーリーをつくってみて下さい。ポイントは必ず、救出劇に仕立て上げてあげるってことでしょうかね。

怒りのエネルギーってものすごくパワフルなんですよね。だからシャイに見えても、実は、あなたの中には北島マヤがいる。普段地味な彼女もほら、演じるってなると、ものすごいことになるでしょ?(あ、またしても年代が異なる方、申し訳ありません。。。)

怒りが得意な方、或いは怒りに感じやすい方って、だから、実際のパフォーマンスもとっても得意だと思う。何でも良いんですよ。例えばカラオケ行ってものっすごい歌を歌ったり、絵を描きなぐってみたり。そうやってね、出来れば「今私、自分の中の悲劇のヒロインを救出中です!」って思いながら、ぜひ、実際に自分も何かパフォーマンスをして頂きたい。で、何かパフォーマンスしたあとに「今日はこの悲劇のヒロインを救ってやったぜ!」ってね、もうじっくり感じて頂きたい。これがコツです。そんなあなたは悲劇のヒロインを救出できるヒーローだから。自分のこころのなかで、喝采を浴びながらヒーローの役柄を満喫してください。

シャイな方(怒りについて何かを持っている方)はね、これ、ものすごくヒットすると思います。北島マヤが大女優になれたように、あなたも大女優?ヒーローになれる可能性がある。何ならそのポテンシャルしかない。これがシャイなあなたに「おめでとうございます!」と申し上げた理由です。

ですからね。怒りって邪険にしないでね、怒りを感じたら(その後で良いので)その中にあるあなたの悲劇のヒロインを、まず見つけてあげてください。救われないで待ってるヒロインを救出出来た時、ものっすごい感動的な演目が上演出来て、自作自演どころか、お客さんイッパイ来ちゃう。そういうすばらしい可能性に満ちた感情が「怒り」なんですよ~というお話でした。

 次に怒るのが、ちょっと楽しみになってきませんか?

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「変わりたいけど変われない」とお嘆きの貴兄に

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日常、ふとした時に「あー!また同じことしちゃった~」とか「嗚呼、なんて成長がない。。。」とかってね。とかく自分のことを責めがち、というか、ちょっと厳しい目で見てしまう傾向がある人って、少なくないんじゃないかなって思う。

当たり前だけど、自分との付き合いは自分が一番長いわけだから、自分の行動や発言のパターンは自分がよーくご存知なのである。だから「またやっちゃった~(涙)」って思いがちなのもムリはないのである。

人って、なんとなくそういうことをやりがち、言いがちな自分っていうのを「これが自分です」と思って、それを拡大解釈していくと「自分の性格」とか「自分の特質」っていうことになる。要は何かあった時に「そういう風に考える自分」「そういうことを思いがちな自分」っていうのを、私は引っ込み思案です、とか、私は割と戦闘的なタイプです、という風に解釈をしていくわけだ。

それってこのフクザツな世界を生きていくために、とっても便利なもんだなってね、思うのである。仕事とか家のこととか、毎日やること、考えなくちゃいけないことはたっくさんあって、自分がどういう傾向のある人なのか、とか、会社のあの人はこういう傾向の人なのか、なんて考えているヒマも余裕もない。

だから自分はこういう人、あの人はああいう人、という看板みたいなのがあった方が、日常生活は圧倒的にスムーズである。ああ、自分はまたこれをやってしまった→自分は意思が弱いから仕方ない。とか、ああ、あの人またあんなこと言ってる→あの人は〇〇な性格だから、あんなこと言うんだな。とかね。そんな風に思うことって、実は自分にとって混乱が少ない方法ってわけ。それに対して落ち込んだり、怒ったりすることはあっても、「自分がこういう風に世界や自分やあなたを見てますよー」という大前提はそのままでいられるからだ。

っていう「大前提」がベースになるのが、今日のお話です。今日は自分が変わりたい、って思っている方に向けてお伝えしたい。

あー自分が変わりたい、自分を変えたい、と思う時って、だいたい人って自分にちょっと絶望感がある。冒頭に書いた通り、「あーまたこれやっちゃったー」とか「言っちゃったー」と、忸怩たる思いでいっぱいになっている状態なんじゃないかな、って思う。

で、なんでそういう風に自分の事を思ってしまうかっていうとですよ。先ほどの「大前提」という話を持ち出させて頂けば、それって「自分に対して混乱が少ない方法を選んでいる」ってことなんですよね。

え?どういうこと??って思われましたでしょうかね?

「〇〇出来ない自分」「〇〇なことをしてしまう/出来ない自分」っていうね、そういう自分の看板を掲げておくことは、日常生活を送る上で混乱が少ない。それは自分が他人に対して「あの人は〇〇な人だ」と思うのと同じ構造である。〇〇な人に対しては、こういう風に言っておけば/やっておけばいい、っていう自分なりのお作法、態度を持つことが出来る。なんなら既に持ってる。で、自分の中にある、そのお作法に則って、そのように言ったりやったりすると、〇〇な人は自分が思った通りの反応をする。で、ほらね、やっぱりね、あの人〇〇なんだよね、というお作法が正しいって証明されて、強化されるって仕組み。

だから、時として自分の中のそういった考えを覆すようなことに出くわすと「え!?意外!あの人、そんなことしたの?」みたいにびっくりしたりする。このね、「びっくりする」のが人ってね、あんまり好きじゃない、キライなんです。なぜって?だってそうだったら、自分の中にせっかくある「お作法」が使えなくなっちゃうじゃないですか?それまで、あの人の行動とか発言とかね、色々把握してスムーズにコミュニケーションが出来るように、お作法を確立しているのにそれが違う、ってなったらね!

あんなデータもこんなデータも取って、大方針を決めたのにそれが有効じゃないってなったら。がっくりしちゃう。今までのあれはなんだったんだよ!ってなる。

そう、そうやって自分コンピューターは大混乱。え?あの人、そういう面もあるんだったら、今まではこう言ってたけど、こういう風に言った方が良いのかな、とか、いやいやそんなわけはない。あの人は〇〇なんだから、そんな風に言ったらだめだって!とかね。そんな風に思い悩まないといけなくなる。それって超・めんどくさい。またいちからデータ取り直しかよって、ちょっとイラっとする。

でね。自分が変わりたいって思っている方。「自分を変えたい」という状況の時にね、このイラっとするめんどくさい構図が、そのまま自分の中に出現してるんですよね。

乱暴な言い方をしてしまうと、自分の知らない・意外な面を見るよりも、〇〇な自分に絶望している方が、実は自分的に圧倒的にコスパが良いんですよ。

だって、ほら、いちいちまたデータ取りにいかなくて済むし。もし自分が〇〇な自分じゃなくなっちゃったら、〇〇な自分じゃないことを言わなくちゃいけなくなったり、しなくちゃいけなくなったりね。ほらもう、考えただけでめんどくさくないですか?

ってことでですね。「また私、同じことしてる。。。自分を変えたいのに。。。」って思っている方、安心してください。実はもう、変えたい自分っていうのは自分の中にある自分なんですよね。〇〇な人が意外な一面を持っているように、自分の中にも変えたい自分は既にある。

「またやっちゃった!」っていうのは、そのデータを「やっちゃった方向」に取りに行ってるだけなんですよね。なんで?って、そっちの方が慣れてるから。営業だって、既にお得意様のところに行った方が楽じゃないですか?そこにいけば成果はあがる(=データは取れる)し、何より既に知ってるお客さまの方が、営業に行くのも気楽ってもんだ。

「やっちゃってない!」って方にデータを取りに行くのはね。気が重いんですよね。それはキライなあいつのイヤじゃなくて、すごいな!って思う面を見るのが気が進まない(だってあいつは〇〇みたいなクソな奴だから)のと、やってることは変わらない。そのまま嫌ってた方が対応がラク

ですからね。自分が変わらない、とお嘆きの貴兄に。自分が変わらなくて絶望しちゃうのは=めんどくさいってことですよ、とお伝えしたい。ええ、めんどくさいだけなんです。それが自分への絶望ってものの正体です。

仕方ないな、、もう。めんどくさいけど、データを取りに行く場所を変えるよ!って思い至った時点でね。変われます。いやもう、その時点で変われてます。データを取る場所が変われば、え?こんな自分もいるの??っていう違うデータが必ず取れます。そのデータが取れれば、自分は一時期大混乱になるかもしれない。でもその大混乱こそが、自分が変わるってことです。

だからね。自分を変えるって、自分の性格とか悪いところを直すっとかってことじゃないんですよね。ただデータを取りにいくところを変えればいいだけ。その途中、嗚呼やっぱり私は変わらない!って絶望しかけたら、ああ、自分はめんどくさいって思ってるんだな、と、ちらっと思って頂けたらですね。自分のその気持ちの持っていき方を、ちょっと変えられるかも。

ってことで、安心して違うデータを取りに行きましょう。その時点でもう、自分は変われている。私はそう思います。

 

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アドバイスの功罪

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例えば、何かがうまくいかなくて困っている、とか、どっちを選べばいいかわからなくて悩んでいる、とか。そんな時、欲しいものに「アドバイス」があるんじゃないかと思う。

自分では対処ができない、判断するのムリー!という時、適切なアドバイスをもらうことはとても助かる。迷っている時に「こうしたらいいんじゃないの?」と背中を押してもらうことで、空回りしていた自分の気持ちや、スタックしていた状況が動き出す。

今、このアドバイスというやつが、あらゆるところに溢れている。新聞や雑誌。何かの広告、フリーペーパー、そしてもちろんあらゆるネット上に、いちにちとして「アドバイス」を見ない日はない。

それは効率的な仕事の方法だったり、お金の稼ぎ方だったり、恋人をゲットする方法だったり、ダイエットだったり、まあ、いろんなお悩みがあって、そのお悩みを解決すべく、その道の権威とされる人たちのアドバイスが日々、てんこ盛りである。

ある意味、こういった情報が安価に、または無料で手に入る時代というのはすごいなあと思う。以前にも書いたけれど、今、私たちがアクセスできる情報の量は数十年前とは比べ物にならない。なんともありがたい時代である。

お手軽でありがたいのだけれど、しかし、このお手軽にアクセスできるアドバイスの「罪/負」の側面について、思うことを書いておきたい。

まずひとつは、アドバイスはコントロールと表裏一体の側面がある、という点である。まずもって、アドバイスを受ける前提に「何かに悩んでいる自分」がいる。この悩んでいる、という状態は、外界からの情報にとても反応しやすくなっている。当たり前だけど、自分で処理できない何かに悩んでいるわけで、本人はその解決をしたいのだ。そこをめがけて「これが解決方法ですよ」と、解決方法が提示されたら。誰だって喜んでその方法に乗ってみたくなる。その悩み、そのものに悩んでいる場合には。

あなたをコントロールしたいという欲を持っている人にとって、悩みを抱えているあなた、というのは恰好のターゲットである。悩んでいる人にアドバイスをすれば、その人はアドバイス通りに行動してくれるかもしれない。悩んでいる人が何かのサービスや商品に多額のお金を払ったり、何かの教えに従ってくれる。古典的だけど、でも、毎日こういった事例は枚挙に暇がない。

こういった例は、実は日常生活の中にたくさん存在しているように見える。例えば、自分の思う通りに子どもを育てたい親、教師、会社でやたらに口を出してくる先輩、上司。「あなた/お前のためを思って言うのだけれど」という言葉をもし耳にしたら、本当にお気を付け頂きたい。決めつけたくはないが、このように言ってくる人のアドバイスは、あなたを自分の思うようにしたいだけの体の良いコントロールでしかない、ということが往々にしてあるからだ。

そして多くの場合、このコントローラーは、自分がコントロールをしているということに気が付いていない。本当の善意とか、熱意とかから、自分があなたを導いてあげている、という神々しい使命感を感じておられるだけなのである。それが人をコントロールすることなのですよ、ということにお気付きでない。

それがコントロールかどうか見分けるのは実は簡単だ。あなたがそのアドバイス通りにしない場合の、そのコントローラーの反応を見れば一目瞭然。その通りにしないあなたにいら立ったり、圧をかけてくるような場合はその人はコントローラーである可能性が高い。その後あなたがそのアドバイス通りにしたら急にゴキゲンがよくなった、という場合、コントローラー確定!と言っても良いだろう。

コントローラー達は、あなたのお悩みが解決するということは二の次なのである。これがアドバイスの負の側面のひとつだ。彼らはとにかく自分の影響力を行使したい、それだけのモチベーションで行動する。だからこの手の人たちのアドバイスにはぜひ、ご注意を頂きたいところである。

もうひとつ、私がアドバイスに対して怖さを感じる側面がある。それは、そのアドバイスが、あなたの未来の行動を決めてしまう暗示となってしまうことがある点である。先ほどお伝えした通り、悩んでいる人はとても揺れやすく、無防備な状態であることが多い。そこに、ある意味鮮烈、的確なアドバイスがされた場合。恐らくアドバイスを受けた側は、納得してアドバイス通りの行動をとるだろう。まあそれが、言ってみればアドバイスの「功」の部分でもあり、それで問題が解決したり、進捗したりすると大変ありがたいわけである。

しかし、このアドバイスする側の影響力があまりにも強い場合。アドバイスに呪われるかのように、自分の人生がアドバイスを超えることが出来なくなる。どういうことかと言うと、そのアドバイスに自己暗示的に従ってしまい、その影響力を過剰に受けた結果、現実をそのアドバイス通りの展開に変える力を、人はどうやら持っているらしいのだ。

アドバイスをもらう→その通りになる→ますますアドバイスを信奉するスパイラルが現れる。アドバイス範囲内でしか物事を考えなくなる、他人軸の人生のはじまりだ。そのアドバイスはまるで麻薬のように効いて、自分の悩みを解決してくれるが故に、自分軸でものごとを考えることを放棄してしまう。かくしてあなたの人生は他人のアドバイス通りのものになっていく、というわけだ。アドバイスの言葉の持つ力を、過小評価しない方がいいかもしれない。特にあなたが憧れていたり、この人の言うことは絶対だと思う人からの言葉は、たいへん大きいパワーを持つのである。

アドバイスは時に、自分ではどうにも動かせない状況を変える魔法になる時もある。だからこそ、だけれど、その負の側面にも自覚的でありたい。

自覚的であるためのひとつの方法がある。それは、自分の悩みに対し「なぜ自分はこれに悩んでいるのか」という問いを持ち続けることだ。うまくいかないことを、うまくいかせたい、そのこころは一体何なのか。なぜ自分はそれをうまくいかせたいのか。恋人が出来ないという悩みを、自分はなぜ今抱えていて、なぜそれを解決したいと思っているのか。実は、お悩み解決以上にこの悩みの背景や、悩みの持つモチベーションを見つめる、という行為はあなたの人生にとても役に立つ。そして、人生の新しい意味をもたらしてくれるかもしれない。

悩みをきっかけに、自分がどんな人生を、どんな展開を望んでいるか、ということに思いを馳せる。そうやってあなたが、ご自身のお悩みに対峙することで、ああ、自分はこんなことを望んでいたのか!ということに気が付くかもしれない。そういった意味で、悩みというものは、自分の人生を展開していこうとする起爆剤となり得る。今、何かに悩んでいることがあれば、だけど、解決方法を探す前にその悩みそのものにも目を向けてみて頂けたらうれしいな、と思う次第である。

 

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大きな主語の下で語られているもの。

f:id:Warumi:20200729052450j:plain最近、SNSを流し見していると「主語の大きさ」がどうにもこうにも気になってきた。大概は「我々日本人は」とか「私たち国民が」とかそんな感じ。主語が大きいと言っても「我々地球人は」とか「我々宇宙人は」にはならないのが、個人的にはたいへん残念に思うところである。

もとい。それの何が気になるかっていうと「えっと、私たちって一体どこまでの人たちのことを言っているのかな?」って、ちょっと気になってしまうからだ。

まあ、色々ね。これまで言い古されていることは色々あるんだと思う。

例えば

「私たち日本人ってほら、他の人と一緒じゃないといやなタイプじゃないですか~?だから私たちって書いておくとみんな一緒って感じで穏便です。」

こうやって書くとき、主語を「私たち日本人」ってしておくと書きやすい。読んだ方も、そうね~私たち日本人ってそうよね~と同意しやすい。

或いはこんな感じのもあった。

「ああいう行為は私たち日本人には耐え切れないくらい、ひどいふるまいです!」

非難されていたのは確かにそりゃないよね、という行為だったのだ。しかしなんでまたそこで主語が「私」じゃなくて「私たち日本人」ってなるんだよ、と私はね、気になってしまったのである。

その気になった時、思い浮かんだのは幼い頃のキラーフレーズのこれ。

「だってね!クラスのみんなこれ持ってるもん!持ってないのは私だけだから買って!」

で、これも定番の突っ込みが親や先生から入る。曰く

「みんなって誰?」

ってやつだ。

「〇〇ちゃんもー、〇〇くんもー、それからそれから」

と言い分を聞くと、大概は「みんなが持ってるんじゃないじゃないの!」と、親に反論されて買ってもらえない。確かにまあ、かなりの数の子どもが持っていることもあるけれど、それにしても、親には親の「買わない」事情があるから、こういうやりとりになるんだろう。

そうやって子どもの頃は「みんなって誰?」と頻繁に突っ込まれたものだった。しかし大人になった今はどうだろうか。いや、突っ込む人は一定数いるのだろうけれど、前述の日常的な会話の中で

「その日本人、というのはどの範囲で仰っているのですか?」

と聞いたら、なんてめんどくさい人!と言われてしまうだろう。会話も気まずい感じになるかもしれない。これまた日本人にあるまじき「空気の読めない人」確定である。

ってことは、だ。「私たち日本人」ってのは、それが書かれた&言われた時点で、書き手/話し手が、読み手/聞き手に「同じ日本人であること」を期待しているのかもしれないなあ、と思った。

道理で天邪鬼の私が反応するわけである。大人げないが、見ず知らずの方のコメントについて、既に自分も「同じ日本人」だとカウントされるのは、いささか不本意に思ってしまうからである。

しかしまあ、その程度であれば、心の奥で「私はその日本人に入っていませーん」とつぶやけばよいのだろう。個人的には日々そうやって流している。

しかし流そうとするたびに「みんな持ってるもん!」という言葉が頭の中に響く。自分が思うところの「世界の真ん中の集団」に入っていたい、というあの欲求。もちろんおもちゃやゲームも欲しいのだけれど、それ以上に「持っていない自分はだめ、許せない」という無邪気な自意識のことが浮かぶ。

その無邪気な感じが、何の気なしに書き込むSNSやweb上に溢れている気配を感じて、ため息が出る。

その上にだ。「世界の真ん中の集団」を形どるラインは刻々と変わる。いや、そもそもそんなラインなど本当はあってないようなものなのだ。しかし自分のその無邪気さは、調子の良さへと姿を変えて集団のラインを簡単に行き来する。

その時に「私たち日本人」という言葉はたいへんに便利だ。私たち、という言葉の影に隠れ、まるで免罪符のように、今日の所属グループと明日の所属グループを変えることが出来る。自分の意見を変えることに無自覚であるのか、それとも変わった、ということを悟られたくないのかわからない。けれど、大きな主語は、その揺れ動いて行き来する自分の姿を隠すのにたいへん都合が良いんじゃないかなあ、と思ったのだ。

いや、変えるのは一向に構わないじゃないか。個人的にも変化は大好物だ。しかし、少なくとも、私自身は変わることには自覚的でありたい。

「私たち日本人」の主語に続くコメントを読む。いろいろな考えがあるんだな!と本当に勉強になる。そうか、そういう視点だとそういうように思うのか!と唸る時も多い。

しかし、そのコメントに続く、一見書かれたコメントに同意しているかのように見えて、何度読んでも「これは、、、同意なのか?」とわからなくなるリプライがある。意見そのものの内容よりも、コメントの一部である方が大切であるかのように、私には思えてしまうことがあるのだ。

たくさんの意見や考えが溢れているように見えるこのSNS上で、行われていることは、実は陣地(情報)取りゲームだったのかもしれない。それが、人間が持つ安全感を担保したい本能が成せる業なのかわからない。

そうやって人は何かを考えているようで、そして自分の意見を持っているようで、実は身の安全戦略をSNS上に繰り広げているだけなのかもしれない。その考え、主張、情報をここに書く、その底に流れているものは一体何なのだろうか。

私たち、と主語を書く時、だから私はそれに敏感でありたい。それが本当に自分のなかから出てきたものなの、私も自分に問いたいと思う。それはもしかして、自分の主張や内容そのものよりも、もっと大切なものかもしれない、と思う次第である。

 

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