Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

Warumiの勘違いーピュアピュア編

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何の根拠もないのですが。。たぶんこの「Warumiの勘違い」はシリーズになりそうな予感!?がするので、いきなりシリーズ感を漂わせつつお届けします。

で、今日のWarumiの勘違いは「ピュアピュア編」(聖子ちゃんの歌が脳内に流れた方、同世代です☆)。すみません。。で?なんだよ、それは!?ですよね。以下ご説明します。

何か自分に困ったこと、悩みなんかがあったとします。これまで何回かうすーくご紹介しておりましたが、そんな時の私のパターンは①敵を軽く威嚇(これが噂の怒り、ってやつです)した後、②ちょっと自分を振り返り「あちゃー!私、またやっちまったな。。」と忸怩たる思いにじわじわやられる、という感じです。結構これが定番。

で、③心理学、とか尊いお坊さま、とかいらっしゃいますとね、ああ!このどうしようもない私を救う手立てや、お薬的な救いなどはございませんか?という問を発し続けていました。そうすると、たいていの場合「おお!!!そうか、そういった理由でわたしは苦しかったのですね!」とか「ああ、、、人間はそのようなこころの構造を持ってしまっているのですね。」というすばらしい解が得られました。

問には解がある。

これが素晴らしいだけ、正しさの罠も巧妙だった。。。いや、あれですよ!心理学とか先達の皆さまが下さった解そのものはすばらしいんですよ!(NOT忖度!)でもこれが私には罠だったんですね。

それにしても、この歳にしていろいろ気が付くことがありますが、嗚呼、いかに自分が「正解大好き野郎」だったかとね。愕然とする日々を過ごしておりますよ。。んー何も言えねえ。

で、この正解。先ほど書いた通り「またやらかしちまったな。。。」って思う度に、自分の記憶の中からじわじわと、神の如く降臨されるわけです。で、嗚呼!また同じ轍を踏んでしまった。嗚呼!わかっているのにまたやってしまった。嗚呼!嗚呼!嗚呼!となるわけです。

で、その後どうなるかっていうと「まだまだだめだ。修行が足りない。」「まだまだ私の中にはこういう邪悪なものがいっぱいありすぎる。」「まだまだ私はわかっていない」etcetcそんな感じの何とも名状しがたい思いが胸いっぱいに広がってくる。

で、その次にどうなるかって言うと、今度はグレる。だってそういうのつらいし!もともと、清く正しく!!みたいなのには昔から相当反発を感じる性質なんでね。それって「清くも正しくもなれない私」に対する壮絶な恨み節っていうか、そうなりたいけどなれねえんだよっ!こっちの身にもなってみろ!って、まあ始末が悪いですね~。

で、もう勘のいい方は、はっはーんとおわかりかもしれませんがね。この「正解」という旗を掲げて戦ってしまうとですね、私は終わらない旅に出ちゃって帰って来られなくなるんです。ってか、本来の問いの根本!をあろうことか忘れちゃうっていう魔法にかかる(それも自分でかけてるかもしれないけどね)。

理由は段階的にいくつかあります。

最初はこれ!他人ごとにしちゃうこと。「ってかWarumiだめだめだからさ、善くなってよ!だいたいあんたはいつもさ!」ってまるでおっかない他人が自分を責めてる感じ。だめだめな私の、どこがだめで、どんなにだめかって、ただdisってる。そういう時って自分を完全に見捨ててます。例えるならば、本当は仲の良い子が、いったん他の子たちのいじめのターゲットになると、自分もいじめられたくないからそれに加担しちゃう(いつの間にか問題の視点がすり替えられる)。それと似ています。

お次はこれ。そもそもこの「いい人」とか「いい関係性」とか「善くある」って何なんだよ、ってことです。これね、スタート時点では具体的な悩みがあった。でもそれを抽象化して自分の外に問うたのです。なぜか?矛盾してますがね、Warumiちゃんの心の奥底でね、問題は直視したくないよーー!って思ってたんですね。だから、自分のなかで問いを一般化&抽象化しちゃうんですよ。で、問いを薄めるようにして、自分の外に問う。

しかしその解は厳密に言うと、抽象化された悩みに対するお答えです。わたしひとりにだけ向けられたものではありません(→これが気が軽くなる原因かもね!だってわかったら変わらなくちゃいけないじゃないですか!そんなのつらい)。だいたい大方、そうですね、7~80%くらい私の悩みにフィットしてる。乱暴に言ってしまうとそんな感じ。例えば、本当はそこに落ちているごみを拾ってごみ箱に入れればいいだけなのに、「手が行き届いている場所ってこころも洗われますよね☆」って一般論で満足しちゃって、肝心なごみを拾うのを忘れちゃう(=本来あった具体的な問題を解決しない)。

でね。他人事のように善くあろうとすると、この一般化と抽象化がぐるぐるして、あれ、ごみ拾い忘れた!ってなるからね(嗚呼、もう自作自演でしかない。。。)。

これやっているとね。ごみ拾わないで、ごみがない公園がどんなにすばらしいか、世の中のごみがなかったらどんなにいい世の中か、そもそもごみって何なのだ?なーんてね、果てしない旅に出ていってしまいます。。道理で疲れるはずです。本当はさっさとごみ拾って、自分の行きたいところに行けばいいのに、それしないまま、なんかよくわからない旅に出ちゃう。

こうやってごみ拾いの実践が積みあがらないので、正解を持っている自分はどんどん弱くなります。だってごみ拾った経験がないのに、ごみのことを語るなんてできない(涙)ってなるじゃないですか。ナイーヴな私はそうなってました。

なのでね!哲学者の方でない限り、旅に出てばっかりいて「理想的な自分」とか「理想の人間関係」とか「理想の正解」?とかってね。あんまり追わない方がエネルギーを無駄に使わずに済んだんだな~わたし。そこのごみを拾えば、実際その場所はキレイになりますしね~

それにね、デトックスとか、浄化、とか、調和、とか、自分のなかをきれいにする、とか、気持ちをピュアに保つ、とか、気持ちをニュートラルにする、とか。このイメージに引っ張られ過ぎたきらいがありましたね。私にとっては逆効果でした~。抽象化の罠にはまりやすくなる。特に妄想力の強いわたしのような方はこれ、諸刃の剣になると思います。良くも悪くも、自分のイメージの力が強すぎてそれに引きずり倒される。そして、流浪の民~♪♪

キレイもキタナイも、イメージにしか過ぎませんよね。そういったイメージに固執すると、動けなくなる。動けなくなると弱くなります(コロナでおうちにばっかりいたから、ただでさえ少ない筋肉がほぼ、なくなったもん!)

ってことで、勘違い野郎のWarumiからは以上です♡