Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

占い、カウンセリングは無意識トークと相性がいいと思う。

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どうして占いってこんなに人気なのかな?って、ちょっと気になったんですよね。

この前、TVで「突然ですが占ってもいいですか」を見た。プロの占い師さんがいきなり押しかけで占いをする、っていう、普通とは逆の占いのコンセプトが面白い。その仕掛けもありつつ、アップテンポな感じでひとの悩みや人生をざくっと切る感じが新鮮だった。

占い。信じるも信じないも。当たるも当たらぬも。大好きな人(私です!)から、大っ嫌いっていう人も。いろいろな人がいると思うけれど、なぜ人はここまで占いっていうものにこんなに反応するんだろう。

ひとつには、未来がわかる安心感?かな。明日どうすればうまくいくのか、っていう方法がわかっていれば、人生はさぞ安心感に満ちたものになるだろう。あれこれ心配せずに、わかっている通りにやればいいのだ。危険があれば避けられるし、将来の伴侶がわかっていれば、「告白してもだめかも。。。」とか「この人といっしょにいていいのかな・・・」みたいな悩みは一掃される。お金で損することもないだろう。自分にこの職場があっているのかどうかもわかる。とにかく安心・安全である。まあ、実際そこまで当たる占いがあるのかは謎ですけれども!

あとは自分を言い当てられる?っていう驚き、みたいなものもあるのかな。最初はうさんくさげに占い師さんのことばを聞いている人が、そのものずばり、みたいなことを言われた途端、ええ!っとばかりに、みるみる高揚して前のめりになっていく。私も今まで受けた占いの時にまさにそう!って思って、気分がものすごく上がった。

そしてそのおかげ?か、私の場合には、しばらくの間とても前向きな感じでいられたっていう経験がある。たぶん、だけど、安心感に裏打ちされたためか、目の前の視界がちょっと広がった感じ。人生をちょっと信じられる感じ。そして、ああ、自分のことをわかってもらえたなーっていう幸せ感、みたいなもの。そんなのがないまぜになったようなものが、その時の自分を前方に押し出してくれたように思う。

そして、占いがそうやって人をしあわせ~♡なかんじにするのであれば、それはそれでとってもいいものじゃないかって思う。当たるも八卦、当たらぬも八卦、くらいな距離感だととってもいいように感じる。

(もちろん、人の不幸をあげつらったり「こうしろ!さもなくば、、、」っていう強制と脅し、そして法外なお金がかかる、何度も占いに来させるように相談者を依存させるっていうのはもってのほかですけどね!)

一方、私は心理やカウンセリングのお勉強にまで首を突っ込んだので、このカウンセリングと占いの関係?差異?みたいなものに今なお興味津々である。

心理の世界にもほんとにもう、いろんな理論や手法があって、限りなく医療に近いような、数値・エビデンス至上主義!(これがないと、公的な機関や学校では心理介入の導入が難しいのだ。皆さまの税金を使ったりするし)から、まるでひとつの壮大な神話を形成しているかのような理論(トランスパーソナル、なんてまさにそんな感じですね。ざっくりすぎますけども!)まで幅広い、実に懐のふかい学問だな、と思っている。

一般的な心理のカウンセリングの場合には、カウンセラーは決してあなたのことを「あなたはこんな性格です!」「あなたはこんなトラウマがあります!」なんて声高に叫んだりしない。昨今、カウンセラーよりも詳しい知識を持っているクライアントがいらっしゃる。そんなクライアントさんが「自分は〇〇〇なので、〇〇〇症です」なんてカウンセリングの場でおっしゃっても、「そうなんですか?」「そう思われるんですね」って返しこそすれ、決して「そうです、あたりです!」なんてカウンセラーは言わないのである。

それは一般的には当てに行く占いとは真逆のアプローチである。もちろんそれぞれの成立の経緯もまったく違う(そもそも占い自体も種々様々だ)。

しかし、敢えてね。占いもカウンセリングも、そもそもの動機っていうか、なんでそれを受けるのかって考えてみるとどうだろうな。素朴に、素直に考えてみれば、それってひとえにクライアントさんの幸せ、とか自分自身への理解、みたいなものを最終的なゴールとしているんじゃないかな?少なくとも、クライアントさんの心の中にあるものって、大げさに言ってしまうと「(この状況から、この悩みから)救われたい、解放されたい、自分をわかりたい」っていう切ない望みのように感じる。そういう望みがあるから、占いやカウンセリングの場にいらっしゃるんじゃないかなってそんな風に私は思ってる。

人に言えないこと。こんなこと言ったらおかしいって思われちゃうこと。隠したい過去。思い出したくもない出来事。決心がつかなくてずっと抱えている問題。それでも毎日朝は来るし、会社にも行かなくちゃならない。子どものお弁当をつくらなくきゃ!そうやって日常生活のなかで知らず知らず、ちょっとづつ、まるで澱のように、自分の中の何かがたまっていく。最初のうちは、こんなことくらいで、って思えていたことが、いつの間にかものすごく重く、気になる存在になってしまっている。もはや自分ひとりじゃ解決できない。こわい。助けてほしい。でも。。。

ほんのちょっと前の世の中では、カウンセリングなんてビョーキの人が受けるもの、っていうように受け止められていたけれど、ここ数年でこの認識はずいぶん変わってきたと思う。これは相当うれしい。何かもう、どうにもならないなって思うことを抱えはじめていらっしゃる方は、信頼できるカウンセラーさんに出会うために、どうかアクションを起こして頂きたいと思う。

本来、占いとカウンセリングって同列で語るのはちょっとタブーというか、まともな心理士の方とかには怒られちゃうかもしれない。それでも、私が敢えて同列で語りたいのは、占いもカウンセリングも、自分自身の中にある力、そしてその世界を最大限に引き出せるポテンシャルがあるんじゃないかなっていうことだ。

しかし、そのポテンシャルをそれぞれから引き出すためには、ひとつだけ大事なことがある。それは自分の中にひとつ、芯のようなものを持つこと。それがないと、占いを妄信したり、カウンセラーにすべてを明け渡してしまったり、ちょっと本末転倒になりかねない可能性があるから。

その芯ってどうやって持つんだろう?って考えた時、「無意識との会話」がとても役に立つなって気が付いたのだ。

そもそも私が今、自分で占いやカウンセリングを受けに行っているのは、まさにこの「無意識とのコンタクト」がうまくいっているかどうか、ということを自分で確認するため、と言ってもいいかもしれない。あくまでも今現在の私にとっては、で、あるけれど。

私には「占い」は自分の人生の縮図や、自分のもともと持っているもの(才能や運命、みたいなものかな)、そして一歩踏み出したいと思ったときの応援団?みたいな存在である。最近は自分でもお勉強してるので、自分で占ったりもしちゃう。一方「カウンセリング」は、まさに「無意識との会話」を先生との間で再現して、自分の納得感をことばに転換している感じ。自分にとって、無意識との対話の情景をそのまま他者との間に再現できるっていう奇跡の存在でもある。どっちもちょっとした答え合わせ?みたいで、そりゃもう楽しい。なにしろ自分の「芯」の存在さえ確認できていれば、正解なんていくつもあるんですよ、無意識相手には!(笑)

あなたにとって占い、カウンセリングってどんな存在ですか?

(つづく)

これで~いいのだ~♪

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え?ちょっとだけ興味が沸いていらっしゃいました?

うう、、、なんてありがたいんだ~(涙)「無意識」なんてわけわかんないものを相手に遊ばない?っていう、奇妙なお誘いにちょっと心が動いたかも?かも?というあなた!だいすきです♡(私の無意識の中のなにかがきっと喜んでる☆と思います!)

前回は、実際に見た見た夢をもとに、夢をリバイバルする方法をご披露した。おさらいするとこの通りである。

  1. まずぼーっとするのに気持ちのよい場所を確保して、ぼーっとする
  2. 出来るだけ意識がぼんやりとしてきたところで、見た夢の情景、場面をぼんやり思い出そうとする。または思い出せそうで思い出せない、あの夢なんだっけーと、ぼんやり思い出そうとする(必死にならない)
  3. 見た夢のことを思い出せたら、その時の夢の中で感じた感覚を自分の中にもういちど再生しようとしてみる。感情とか感覚とか。できるだけ体の感覚を使ってみるのがいいかもしれない。その夢の体験をもういちど!って感じ。見た夢の内容が思い出せなくても、何かしらの夢を見てたよねーっていう「感じ」が感じられた時にはその「感じ」のまましばらくいてみる。この時たいせつなのは、集中しないこと。あれ?なんだっけ!?もうちょっとで思い出せそうなのに。。。くーーーーっ!!みたいな感じになってきたら集中しすぎ。そうなったら潔くそのまま寝てしまうか、お出かけしてしまおう!
  4. 集中せずにただ夢からやってきた感覚を感じ続ける。私はいつも頭をぱかん、と割ったようなイメージでいたりする。脳が外の世界にまんまさらされちゃってる感じ。若しくは、目の焦点をずらすと目の前の見えているものの像がぼやけたり、何重にもなったりする、あの感じをからだで再現してみる。電池のきれたロボットみたいな感じでもいいかも。意識やからだの中の力みをリリースすること。どこか集中している気がしたら、あきらめてそのまま寝ちゃうか、おいしい紅茶でも飲むとしよう。そのぼーっとした状態で、時折ぽかん、と浮かんでくるイメージ(ものでもいいし、何かのシーンでもいい、なんでもいい)をぼーっと浮かべてみる。深追いしない。あれだったから、こうなってたよね、みたいに勝手にイメージを解釈しない。そのまま、そのまま。
  5. 運よくいろいろなイメージが浮かんだら、それを書き留めておく。断片的なメモでOK。物語みたいな感じだとちょっと頭で考えすぎちゃってるかも。断片的でなんだこりゃ?くらいがちょうだどいい。浮かんでこなかったら?もちろん!あきらめてそのまま寝ちゃおう!

いかがでしょうか?だいたいこんな感じーっていうのをイメージ頂けるだろうか?(質問があればウェルカムです。なんでも聞いて聞いて!)

尚、夢を見るためには、私のお気に入りの「二度寝」もとってもいい方法です(寝すぎに注意してくださいね~夜眠れなくなるくらい二度寝しちゃだめ→私が身をもって体験しております)。二度寝をする時って眠りが少し浅くなりがちなので、比較的覚えていられる夢を見る確率が高い。普段はぐっすり眠って夢をよく覚えていられないんだよねーなんて言う方には、もしかして有効かもしれない。

ところで、起きた後も夢を覚え続けているってなかなか難しい。見た夢をすぐ書き留められるように、普通に寝ている時も、二度寝の時もできるだけ小さなメモを枕元やベッド/おふとんの手の届くところに置いておくといい。だいたい寝起きに不用意に立ち上がっただけで、今の今まで覚えていた夢がぜんぶすっとぶのである。私もしょっちゅう繰り返しては、がっかりしている!メモにすぐ書き留められればいいのだけれど、それも難しい場合。起き上がる前の、まだ寝てるんだか起きているんだかわからないときに「ああ、こんな夢みたなー」って反芻しておくのがなかなか有効。えー?そんな寝ぼけながら?思っても、これがやろうと思うと出来るようになってくるから人間ってすごい。起きてすっかり見た夢の事を忘れちゃっても、この時の反芻が効いて、はっと思い出せるラッキーな瞬間があったりする。

ただ、この夢。私たちが起きて活動をしている時に受けた刺激、或いは寝入りばなに受けた刺激にもすぐ反応する。私はトイレに行きたい時に眠り続けていると、よくお風呂やそのまんまトイレの夢を見たりする。昼間、なんとなく気になったことがあると、その出来事に似たシチュエーションや、対象の人が夢に出てきたり「絶対寝坊しちゃだめ!」という朝に限って、盛大に遅刻する夢を見たりする。夢ってそのくらいデリケートだし、そうやって私たちが寝ている間、いろんな記憶を整理してクリーニングしてくれているらしい。

だから見ている夢が全て無意識から私へのヒントになるか、っていうとそうとも言い難い場合もあるんだけど、この夢とワークする作業を繰り返していると、妙によく覚えている奇妙な感じの夢を見たりする。これ、時々、おお!というひらめきに転化することがある。ことばにはし難いのだけれど、私の中では奇妙なリアルさ、みたいな感覚が、起きている時も続いているような夢だ。

または、自分では普通の夢、って思っていても一緒に話をしながら掘っていくと!?みたいなことが起こったりするので侮れない。ああ、またこの夢ね、、、みたいなのもじゃんじゃんメモって頂きたい。

とにかくひまさえあれば、ぼーっとすることと、なんでもかんでもメモっておく。これが全てです。

なんでそこまでやるのか、って言いますとね。

「これで~いいのだ~♪」

っていう感覚が、自分の中に確固と立ち上ってくるからである。前にテストに出ますよっていう単語があるってお伝えしましたよね?覚えてますか?

そう!納得感!実感!!ですね☆

自分以外の人に褒められたことや、アドバイスをしてもらったこと、認めてもらったこと、などなどを通した自己理解を遥かに超えて、圧倒的ぶっちぎりで「これで~いいのだ~♪」っていう感覚が自分のなかに生まれるのである。これはほんとに、ほんとーにぜひ体験して頂きたいのである!(赤塚先生に怒られそうなので、調子に乗るのはこのくらいにしておくのである)

これなしには、いくら自分のことをあーだこーだと自己理解したり、自己肯定感だの感じるワークなんてやっても、私には効かなかったのであーる!

(つづく)

無意識とコンタクトしてみようではありませんか!

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自分の無意識にちょっとだけ触れにいくお勧めの方法。

 

二度寝

ぼーっとすること。

 

私の体験上(性質上)、無意識の何かに触れるのにはなかなかいい方法に思う。まだいろいろ実験中だし、これが最上かどうかは分からないのだけれど、今のところはこのふたつの方法がいいんじゃないかなって思って、毎日よろこんで?自分でも人体実験している♡

無意識の世界には、なーーーんの法則もない。りんごも落っこちてこない。空から落ちた瞬間、電車の中に座ってる。時空、常識、義理人情、お構いなし。まさに不条理。

 

シュルレアリスムの世界はお好きですかね?

私はもう学生の頃からこの世界が大好き♡え?何ですかそれ?って聞かれますとだいぶまた話が戻って来られないので、今日のところはこちらを見てplease。

ja.wikipedia.org

ちなみに聞かれてないけど(笑)、私のお気に入りはエルンスト!未だにぜんっぜんよくわからないけど「百頭女」とかサイコー♪にクール。銅版画的な線に目がない私には、このわけわかんない、線の氾濫の連続にやられるわけです(私はこの「線の氾濫」に弱い!聞かれてないけど)

油彩も含めてだけど、エルンストの作品はちょっと禍々しくてちょっとユーモアがある感じが私のキモチにぴったりしていたんだと思う。私的には夜のアーティスト。暗がりから、ぬっ!て出てくるみたいな感じね。

みなさん、いかがですかね?幼稚園のお絵かきの時に、紙の下に落ち葉を置いて上からクーピー(クーピー!なつかしい!)でじゃーっと色を塗って下の落ち葉を出現させる遊びとかやりませんでした?あと、クレヨンで下にいろんな色を塗った上をまた黒で一面塗りつぶしてから、金属でひっかいて絵を描いていくとほら、下の色がランダムに出現してあら!こんな色がこんな形になった♪みたいなの、やったことありません?

あれです、あれ。もちろんエルンストはもっと本格的なやり方をしていたけれど、発想はこれ。狙って絵を描くんじゃなくて、いろいろな要素を、想定外にキャンバスの上で出合わせる、と。「手術台の上でミシンとこうもり傘が出会う」って世界。出たとこ勝負。わっけわかんないでよねー!(笑)

とにかく予定調和みたいのをどんどん外していく。そうすると、今まで「こうでしょ?」と思っている前提がかくっと外されて、ナニコレ??と一瞬目が泳ぐ。

これですこれこれ。この外されてへ?ってなるこの感覚。

もちろんシュルレアリスムの中にも、いろいろな人とものが詰まり過ぎていて、多様でひとくくりにはできないのだけれど、とにかくものすごく乱暴に言っちゃうと、この人たちも「無意識」を表現にあぶりだそうとした同志(勝手にごめんね!)である。

私たちが住んでるこの世の中ってもう、因果関係をはっきりさせたい欲望がめちゃめちゃすごいじゃないですか?たとえば何か「問題」とされるものが起こるとですね、「原因は何だ!?」「再発を防ぐために履歴を調べろ!」「対策を打て!」ってメンバーの叡智を総動員させてこの「問題」を解決しようとする。日本が世界に誇る「KAIZEN」ですよ。会社員をやった経験がある方ならご経験があるかもしれません。ほら、何かあるとさ「再発防止!」ってもう、これ以上何のチェック作業するんだよっ!?みたいな作業がどんどん積み重なって、あれ?仕事がどんどん増えちゃた、みたいな?そんな世界。

「無意識」の探索はこの世界のやり方に背を向けるのである。因果関係、丸無視。

ところで、私の歴代の夢の中でTOP3?に入るとっておきの夢があるんですけども!

私、昔はわりと波に追いかけられる夢を多く見てたんですよね。砂浜で、後ろから大きな波がどんどん追いかけてくるっていう夢。で、たぶん高校生くらいの時だったと思うんだけど、例の如くその大波に追いかけられて、そりゃもう必死で逃げてました。結構な大波でした。で、どうしてかって聞かれても知りませんがね。大勢の逃げる人に混じって、私の横であの、バカボンのパパがですよ、まったくあの姿で「逃げるのだー!」とか大声上げていっしょに逃げてるんです。でも夢の中の私、普通に受け入れてる。あ、パパも逃げてるって思ってる。そして抜きつ抜かれつでバカボンのパパと逃げてる。以上。

例えば、この夢をもう一度見るために、または見ないために?対策を打て!なぜバカボンのパパなのか、原因を追究しろ!

できますかね?

私にはできなかったー。

あんまりおもしろかったから、バカボンのパパにはまたお出まし願いたかったけれど、残念ながらそれ以降、はっきりと彼の姿を夢に見て、且つ覚えていたことはない。なぜバカボンのパパなのか。まあ、勝手な解釈は色々可能だろう。バカボンのパパに象徴されるものがあったとか、バカボンのパパにのようなものに救いを求めてたとか、シンパシーがあったとかetcetc。でも何が正解なのかわからないし、この夢を解釈したところで、自己満足で終わってしまう。

「無意識」に触れようとするとき、いちばん大事なのは、この夢をみていた時の感覚である。絶望的な感じで必死に逃げてる時の自分の感じ。その中であれ、バカボンのパパがいる、一緒に逃げてる!って最初に気づいた時の え? っていう感じ、おもしろいのかこわいのかわからないこのないまぜになっている感覚。なんとなくことばになりそうでならない、もどかしい感じ。これがキモなのである。

このことばにならない感覚に、ぼーっとしながらちょっと思いを馳せてみるのである。同じ感覚を自分の中に起動させようとしてみる。その夢のシーンを思い浮かべる。こわいこわい感じ、逃げなくちゃ。あ、バカボンのパパだ、あははちょっとおかしい、おなかがちょっと緩んだ。ああ、そういえば昨日洗ったジーンズ、もう片付けたっけ?いきなりその夢からジーンズに移る。あれねーちょっと最近きついんだよねー、、、ああ、バカボンのパパだったっけ?そういえば砂浜、裸足で逃げてたんだっけ?下駄はいてたんだっけ?裸足かー最近。。。(つづく)

ひとの思考というものはもう1秒もあればたいへんな騒ぎになるので(なので瞑想っていいですね!)ちょっとぼーっとしていてもいろんな思考がこうやって降ってくる。

この時たいせつなのは、あちこち舞うこれらの思考と共に、その夢を見た時の感覚からなるべく離れないように、何度もそこに戻る、という作業である。こわいかんじ、ちょっとおかしいかんじでおなかが緩んでる。それを何度も自分の中に再現しながら、その時浮かんだ何気ないもの(私のこの時はジーンズとか砂浜とか裸足、とか)を書き留めて置いたりする。

そんな作業をちょっと日常生活に入れ込んでみる。特にこれ、っていう厳格なルールなんかない。その時の感覚、うまく表現したいけど、うまく見た夢を思い出したいんだけど、思い出せないあのもどかしい感じ。ああ、なんか昨日夢見たのに、なんだっけあれ?なんか、窓みたいの見た気がするんだけど、あれ?ドアだっけ?いやちがうけど、なんか暗い感じだったような、、などと思いながら、ちょっと意識をぼーっととばす、目の前のものから目を外して、自分のなかの感覚に会いに行く。

そのうちにその夢が思い出せたり、その時の感じが自分のなかで熟成されてくると、なにかが自分の中から動いてくる。人によってこのプロセスは全然違ったりするみたい。今のところの実験だと、日常生活のなかでなんか夢でみた同じものが気になったり、偶然誰かが同じことを言ったりするのをキャッチできたりするってことが起こったりもするみたい。あとは、夢の続きが見られちゃった♡っていう人もいる。

そのほんのエッセンスでいい。このプロセスには正解なんてない。↑に書いたことが起こらないってことも普通にある。

しかし、これを繰り返していくと、何かが確実に自分のなかに生まれて動いてくる。それだけはお約束する。それをいっしょに会話しながらもっと動かしていく。すると意外な何かが降ってくる。そう、この時って発見、じゃないんだ。あ!降ってきた!みたいな?それも意外すぎてえ、これ?みたいなものが降ってきたりするから侮れない(笑)。

私はからだを持って、この現実世界に生きている。夢だけ見ていればいい、夢のイメージで遊んでいればいいってわけにもいかない(私個人的にはずっとそうしていたいんですけどねーー!ほんと!)。

生活のなかで何か問題、というものがあったとして、それを今までの自分のやり方で克服しようとしていくと、往々に行き詰まりを感じることもある。恐らく、これまでの人生、問題解決に仁義を通し、かたをつけてきた人(私です。。)には、問題がいつまでもいつまでも降ってきて終わりがないように思われたことってないだろうか?

私にとってこれまで書いてきた「琵琶」のイメージはひとつのその解だった(琵琶のイメージも自分の中に落とし込むまでに半年以上かかったよ!)。そう、無意識に振れつつ、そのエッセンスを結晶させていくと、思いがけないこたえを導いてくれることがあるのだ。解決、、、というよりも、あれ?気が付いたら問題はそれじゃなかった、みたいな感じなのである。世界の見方が変わっちゃったりもするかもしれない!

ねぇねぇ、そんな遊び、やってみたくないですか?

(つづく)

 

あなたの神話をきかせてください。

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ホドロフスキーのおじいちゃんに背中をどん!と叩かれて、それで私は身分違いの恋を全うすることを、もろもろ納得尽くで決心したのだった。

これまで出会ってきた人、これから出会う人。とにかくこのわたしと何かのご縁を持った人と私は「無意識」を介しておはなしがしたいのだ。そして無意識の中のどこかでその人の何かと出会いたいのだ。これが私の今、もっともやりたいことなのである。

ここに引っ越したての頃、キネシオロジーのお勉強がご縁で、以来とても仲良くしている友人が訪ねて来てくれた。いつものように私たちはまた、とりとめもなくいろいろな話をした(いや、だいたい彼女が私の話をにこにこと聞いてくれているのだけれどね!)。ひととコミュニケーションをするって何を求めてるんだろう、どういうことだろう、、というような話に差し掛かったその時だった。うなずいて聞いてくれていた彼女の中に、何かが起こっていて、そして彼女の顔がぱっと明るくなった。同時に私のからだの深いところで、がちっと一瞬、何かが出会ったのがわかった。お互い「きゃー!♡」って言っちゃったんだけど、それがもう、なんていう体験って言ったらいいんだろうか!

いや、別にすんごいお涙頂戴的?感動ー!ってな会話をしていたわけじゃない。それに私たちは何年も前にロサンゼルスで1か月近く缶詰状態でお勉強をして以来、時々にいっしょに出かけたり、いろんな話をし続けていたのだ。

それでもなお、この時の会話の一瞬の感覚はわたしには鮮烈だった。もうよく知っているはずの彼女なのに、知らない彼女の一部に出会ったようだった。その彼女がもうかわいくてかわいくて(もともとすっごくかわいいのだけれど!)なんだろう、毎日書いていてヘンタイを公言するようだけど、ぎゅーっとハグしたくなっちゃったのだ。

私はいろんな人といろんな話をするのがとにかく大好きだ。だからこれまでも、出会った人たちといろんな話をもうたくさん!たっくさん!してきた。それが個人的なお友達であっても、勉強仲間、仕事の仲間や相手先、お客さまであっても。

特に旅行の仕事をしていた時には、一期一会的な出会いも少なくなかった。それでも旅行先や異国の地で思いがけず深い話をすることにも恵まれたように思う。そしてそのお客さまも、そして異国の各地にいる同僚も、本当にいろいろな人がいた。その後、全然畑違いの業界で今度はたくさんの研究者に会う機会があったのだけれど、そこでも私は知らなかった世界や、そこで生きている人たちのいろいろを知った。心理にまつわるお勉強をきっかけに出会った、それはたくさんの人たちも。

経験を積めば積むほど、そして、年齢を重ねて自分がいろいろな体験をすればするほど、その人のやっていることや背景や存在の匂いのようなもの。そして、嗚呼、きっとこの人はこんな気持ちなんだろうな、というような勘がどんどんよくなって、それは実際の会社の中でも、そしてカウンセリングの練習をしている時にも威力を発揮した。

今でもそれは相当楽しい。きっと死ぬまで私はこうやってたくさんの人とたくさんの話をし続けるんだろうと思う。いや、ぜひしたい♡

それでも、だ。それでもなお、私の中でまたそれとは違う「話し方」もしたいという願いが止まないのだ。それはホドロフスキーのサイコマジックのように、そしてここで彼女と何かが交錯した時のあの感覚を、会話の中にぶちこんでいきたい。そこに魔法をかけて、一瞬の出会いを出現させたいのだ。

「無意識」の会話(嗚呼、もっといい表現はないかしらん~!もっといい表現が落ちてくることを祈ってる!)。言語化できないのが無意識の世界であるとするならば、私のやりたいことはいささか矛盾しているのかもしれない。しかし、私もいくら身分違いの恋を全うしたいとは言え、相手(無意識)の全てを要求しているわけではない。ほんの一瞬の無意識の中での邂逅。これで充分だ。

そこにはおぼろげながら、しかし確固としたあなたの、そして私の一部が流れている。その流れに出会うとき、私は、あなたと私がほんとうに生きている、ということを実感する。そして、その実感、納得感、にはもはや何の説明もエビデンスも要らないのだ。まっすぐ「そうだ」と確信が持てる一瞬。そして誰の言葉でもない、外からやってきた思いでも反応でもない。自分のなかから湧き出てきたことば、あなたの生きる表現。これがあなたの、そしてわたしの本当の姿の一部であることを、にっこり笑って保障してくれる。

その、あなたが「これが私なのです」という、あなたの言葉で語られるあなたに会いたい。そのほんの一瞬の出会いを、私に体験させてもらえないだろうか?

 

人はなぜ追憶を語るのだろうか。

どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。-だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪痕を残してい行った事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。

北杜夫「幽霊」

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嗚呼、北杜夫についてもまたいつか、あつくるしく語らねばならないけれど!私の中学生の時からのバイブルのひとつ。この「幽霊」という小説の冒頭。私はこの文章が好きすぎて、無意味に一時期丸暗記していた。新卒の就職試験のときなんて、この本をお守り代わりに持って行ったもんだった。

さっきふ、と思い出して、久々にこの本を引っ張り出してきたのだけれど、嗚呼、こんなに昔から、、、と感慨深いものがあった。ひとの神話に惹きつけられた、その自分にまた出会いなおした。

一時期、私はこの「神話」をトラウマ的な甘くて、切ない個人の経験、として捉えていたのだけれど、それもまったくそうだと思うのだけれど!今日改めて、神話、と北さんが書いた意味を感じてみた。反応だけではない、その人の心の奥底に流れるものがたり。経験だけでは語り得ない、気配のようなもの。そして、神話を介してまた、人は自分や他者と出会うことが出来るのだろう。その意味で、それは神話でなければならない。

そう「どの個人にも心の神話がある」のだ。無意識のなかに「姿を失うように見える」ように流れているものがたりを、私は感じてみたい。そして蚕の気持ちも!

さて、どうやって?

(つづく)

 

マジック・マジック・マジック!!

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自分の目で世界をみる

 

詩が僕の行く道を照らしてくれる

燃え盛る蝶のように

エンドレス・ポエトリー

 

はっきりとは思い出せないのだけれど、あれは1か月くらい前のことだったか。SNS上に「ホドロフスキーのサイコマジック」という映画の情報が流れてきた。ホドロフスキー、、、!そうだった。もう何年も前になるけれど「ホドロフスキーのDUNE」という映画がちょっと気になっていた。その頃は忙しさに紛れてそのままスルーしてしちゃってたな、と思い出しながら「サイコマジック」の予告編をクリックした。

 

。。。やばい!!これ、見なくちゃいけないやつだー!

 

ホドロフスキーが何の人だかよくわかってないけど、とにかくなんか絶対すごそうだからもう、観る!観る!観る!と自分の中で何かが突然盛り上がった。でもそこで「DUNE」を思い出した。なぜか?よくわからない。最近はそういう思いつきみたいなことをなんでかな?って思わずに、そうなんだな、って思うことにしている。

で、Amazonプライムさまで検索してみると、「DUNE」と「エンドレス・ポエトリー」という映画がリストにあることを発見した。GOODです♡今、時間だけはたっぷりある私は、早速「エンドレス・ポエトリー」から見始めた。息をのむ、ってほんとにそう、文字通りなんだ。映画を観ている間中、ほんとに息をするタイミングがわからなくなるくらい、完膚なきまでにこの映画にノックアウトされた。

youtu.be

なんかね、これ観る前、ホドロフスキーって自分の中では妙な前衛芸術のひと、っていう勝手な思い込みがあってね。映画もさぞ面妖な感じなんだろ?とちょっと身構えて見始めたんだけれど、とんでもない間違いだった!ご、ごめんなさい、ホドロフスキー

「リアリティのダンス」(これはまだ観ていない)に続くという、この映画はアレハンドロ・ホドロフスキーという(嗚呼、彼をなんと表現したらいいのだろう??)彼の人生の前半までを、あふれるようなホドロフスキーのインスピレーションから湧き出るARTで彩った映画だった。主人公を演じているのはホドロフスキーの本当の息子で、その父役も別の息子。。。時々、ホドロフスキーご本人も登場するのだが、まあそんなことは今はどうでもよい。

絵を見れば、その画家の目となってこの世界を見られるように、この映画もそんな感じで、私はあっという間にホドロフスキーの世界をみる目の中に入った。そこから見る日常って、、なんて魔法がいっぱいなんだろう!!もちろん、私の経験とホドロフスキーの経験はまったく違うのだけど、何て言ったらいいかな、、、そのホドロフスキーの中に入り込んで映画を観ながら感じるさまざまは、全然他人事じゃないのだ。まるでホドロフスキーが横に座っていて、言葉も交わしていないのに、お互いにアイコンタクトするだけで、ああ、私たちはこれ、を共有している、、、と切ないほどリアルに思える連続がとまらない。驚いた。ホドロフスキーの映画と自分の体験が、時空を超えてどこかで同時多発的に出会ってる。なんてこと!こんな映画をこれまでスルーしちゃってたなんて!

エンドレス・ポエトリー」の興奮冷めやらず、ではあったが、いちにち置いて「ホドロフスキーのサイコマジック」に自分を進めた。あんまりすごい体験だったから、ちょっと自分のなかでいったんこの体験を咀嚼したかった。

youtu.be

サイコマジック。ホドロフスキーオリジナルの心理療法。「エンドレス・ポエトリー」を観たあとで、彼の人生を思いながら観るこの「サイコマジック」は本当にリリカルでうつくしくて、胸が躍って、私は何度か泣いた。この映画に映るいろんなひとのからだそのものがとにかく美しすぎて、生きていて、ああ、わたしたちはここに生きているのだ、と、ホドロフスキーの中のわたしが叫んでいた。この生きている、っていうリアルさを生きているはずの私はつい置き去りにしてしまう。ここに顔があってここに目があって、、それだけでまるで世界のすべてを把握しているかのようにして、それが私、とか言っちゃってる。ああ、なんてそれが間違っているんだろう。。。このからだを忘れて、まるで対象物みたいに扱って、健康管理、なんて言っちゃって、嗚呼。その前にからだそのものの存在、その神聖さとうつくしさを感じるこの感覚を取り戻さなくちゃ。

「自分の目で世界をみる」

そうだ、表現はわたしたちそれぞれに固有のものだ。わたしたちは無意識の奥底にいくつもいくつもの、ものがたりを、象徴を共有しながら、それらをどのようにでも表現できる自由がある。こんなにいっぱいその自由がある。そしてそれは全部違う、人の数と同じだけ違うんだ。わたしが人生をどう生きるかってことは、わたしがどう表現するか、と同義だ。その表現を、表現のもとにあるべきこんなにうつくしいからだを忘れて、人生どう生きるべきか、なんてなんてナンセンスなんだろう!?

www.uplink.co.jp

 

そしてとどめは「ホドロフスキーのDUNE」だった。やっぱりこれを観なくちゃ完結しなかった。

「サイコマジック」を見て、すぐ向かったこの映画はもう、感動と抱腹絶倒が交互にやってきてわたしったらもう大変な騒ぎになった。そしてその大騒ぎがこの数日のわたしのちょっとした気の迷いを、爆笑しながら蹴散らかしてくれた。

「and then So What? AND THEN SO WHAT!!??」

人生における、または映画の世界における失敗、とされる体験。あっけらかんと、そしてまた心底悔しそうに「SO WHAT??」と叩きつけてくるこのホドロフスキーのおじいちゃん!なんて魔法なんだ!

この映画はもともとホドロフスキーが撮るはずの超大作「DUNE」を、もろもろの大人の事情で別の監督(デヴィッド・リンチ)が撮ることになり、結局ホドロフスキーが完成させることはできなかった、という軌跡を追ったものだ。そもそもホドロフスキー、この映画を10時間の大作!にするおつもりだったらしい。そして最高の映画を撮るために絢爛豪華なスタッフや出演者を集めまわって!。。。その頃のことを思い出しながらエピソードを語るホドロフスキーが本当に楽しそうで、顔がぱーっと明るく光ってて、話を聞いているこっちが幸せな気持ちになる。この世の大人の事情度外視で「私の世界の見方はこうなんだ!!」って見せてくれたかったんだね、と、彼をぎゅーってハグしたくなった。

失敗ってそれで失われるもの、奪われるものが大きすぎて死んじゃう、みたいなイメージが私の中にもまだたくさんあったのだ。こんなに自由なつもりでいても、まだ私は失敗、の持つイメージに勝手に囚われていた。

でも、本当の失敗の意味が、自分に、世界に、あなたに、あらゆるところに!いつ、どこで、どんな風に芽を出すか分からない種を仕込むことなんだって。ホドロフスキーのおじいちゃんはそれを自らの体験と情熱で教えてくれた。人体実験これに極まれり!である。ナイスなおじいちゃんすぎるじゃないか!

わたしも後に続かなくちゃって思った。魔法をつかって、種をばらまこう。ホドロフスキーが彼の人生のながい時間をかけて確立して、種をまき続けた彼の「サイコマジック」。私も僭越ながら、わたしのマジックをまっとうしようじゃないか!

嵐のようにやってきたホドロフスキーのおじいちゃんは、こんな風にわたしにもすごい魔法をかけてくれたんだ。

 

(つづく)

 

対等ってなに?

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そうなのだ!私は今さらながらに無意識に降参したのだ。無意識、そして、無意識の中に無限大に漂っているであろう、未知の世界、未知の自分、そして未知そのものに。それはまるで畏怖のような念を感じるまでに。

 無意識とお近づきになりたくて矢も楯もたまらないしー。

 ここのところずーっと無意識のことを考えているしー。

 人と話すときも無意識のことばかり話してるしー。

これはもう、恋ですよね?♡それもかなり重度のやつですよね?♡ だってずっとずっと探してきた人に巡り合えた、みたいな感覚なのだから。

しかし、ここにきて私はちょっとびびってしまったのである。このわたくしごときが、フロイト大先生や、ユング大先生を向こうに回し、無意識のことを語ることができるのか、、、自分の体験だけで、という疑念が頭をもたげてきた。せっかく理想的で恋に落ちることが出来る相手が見つかったというのに!なんてことだ!

身分をわきまえた方がいいんじゃないの?という声がした。ユング大先生の本やお仕事の全貌も知らず、前に書いたような修行のようなトレーニングも受けず、無意識と恋に落ちる資格、貫く自信が自分にはあるのだろうか?

 

そしてもうひとつ、どうしても自分の中で折り合いをつけたい、と思っていることがあった。それは特にカウンセリング、という形を取る際のクライアントとカウンセラーとの関係性の話である。

これは臨床心理をお勉強する人が必ず知っておかなければならないことの最低ラインのようなものである。

まずもってカウンセラーはクライアントの伴走者たれ、という大前提がある。クライアントの前を行ってはいけない。クライアントの悩みや問題に、むやみやたらに答えを提示して、カウンセラーの思う通りの結果を出させるように仕向けてはならない。クライアントの会話そのままを聞くように努めること。クライアントの話にカウンセラーの価値観に基づくようなジャッジメントをしてはならない。

もちろんこの他にも「やっちゃだめよ」というルール、あるべき姿、という指針のようなものも山のようにあるのだが、それはすべてクライアントを守るため、そして心理療法の効果を最大限にするため、という大前提なのだ。そしてそのことにはまったく異存はない。

しかし、しかしだ。ここまでクライアントの立場を守る、というルールを並べてみても尚、だ。私にはカウンセラーとクライアントが対等である、って出来そうだよ♡とはどうしても言い切れなかった。

カウンセラーは色々とお勉強した上で、経験もたくさん積んで「すでに色々知っちゃっている人」なのだ。例えばだが、カウンセリング目標をクライアントと一緒にたてる上で、まったくカウンセラーがクライアント任せにして放り出すようなことはしないだろう。まずはカウンセラーの「見立て」という作業が必要で、そこにはカウンセラーの意図がどうしても入らざるを得ない。

そこを経験、存在感、その人なりの個性、共感性、という武器を以ってカウンセラーはクライアントとの関係に対等性、というものを担保し、この議論の次元を超えていく。そしてそれが真っ当なカウンセラーのあるべき姿、なのだ。

で、だ。大人の皆さまにはわたくしのこの暴言を黙認していただきたいのだが

「私にはそんなのむりじゃね?」

っていうのが、わたくしのまた超個人的に思ってしまったことなのであった。

いや、もう、このくだり、何度も繰り返すようで恐縮ですが、それが可能な方はたくさんいらっしゃるし、そのために不断の努力と配慮をなさっておられる方ばかりである、ということは重々承知の上です。しかし「わたしには」難しそう、出来そうにない、と感じた。

なぜか。

それは私がクライアントとして数々のカウンセリングを受けた私の経験から来るものがひとつ。そしてわたしのような未熟な性格を持つ人間がそんなスタンスのカウンセラーになれるとはとても!思えなかったのがひとつ。

いや、ほんとぶっちゃけですね。私がカウンセリングを受けていてカウンセラーの方と「同じ立場だ」ってことを感じたことは(例外はあれども)、ほぼないです。それがふつーだと思ってた。それはカウンセラーの方がどうの、ということではなくそういうものだと思っていたからだ。これがカウンセラーだからちょっと話がややこしいけれど、お医者さんが相手だったとしたらもっと当たり前である(精神的な立場はともかく、患者さんよりも病気について知らないお医者さんじゃ、ちょっとこわい)。

そしてもひとつは私の性格によるものだ。10代の少女の頃からわたくしは既に「反骨精神」の塊なのである。毎日のように、私の中二病をさらしているようでたいへん恐縮だが、とにかく偉そうな人とか、人を人とも思わないような人たちがだいっきらいなのだ。よってわずかでも何かに刺激をうけてしまうと、この反骨精神がむくむくと沸き起こり、あっという間にカウンセラーに反抗的になるという(書いていてお恥ずかしい限りで消え入りたい気持ちである)まあなんだ、そんな感じなのだ。こんなの書けば、精神分析界隈の方はすぐに「ははーん」と私が拗らせているものが何なのか、なんてすぐにわかっちゃうんですけどね!あーやだやだ。

だから、わたしが本当にやりたいこと、の延長上にある他者とのかかわり方、についてはなんとかして自分が納得するあり方を見つけたい、と、ずっと考えていた。「なんかARTみたいなものを介してだったら出来そうな気がするよ!」という根拠のない思いは浮かんではいたのだけれど、いまひとつこれ、というものに辿り着けずにいた。

そしてつい最近、そこでスタックしている私の前にホドロフスキーのおじいちゃんが鮮やかに登場して、ど派手なマジックを見せてくれたのである。

つづく

青い鳥はおうちにいたのね。

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「はい、じゃあなたの長所を5つ挙げてくださいね」

「仕事はあなたの強みを生かせるものを選びましょう!」

こういったことをリクエストされる研修的なものを会社なんかで経験された方も多くいらっしゃると思う。大概、たくさんの質問に答えてどのタイプの点数が高い/低いとか、初対面のひとと一生懸命ワークしあって、自分の強みとか、性格とか、自分の傾向、なんてものを確認する作業だ。

自己理解、とかね。方法のひとつとして有効だと思う。ほんとに思ってる!

なのでこれは超・超・個人的な「感想」なのですが、私はね、これ、占いとおんなじだなって思ったのね。「わー当たってるーーー!」的な?感じ?占いとかそういうのもひっくるめて大好きな私な私が、そういったワークも占いも、どちらも受けまくって得た感想だ。

いえね、診断もちゃんとエビデンスもありますし、ファーストインプレッションで他人はあなたの情報の多くを読み取れるんですよ。占いをばかにするんじゃない。

ええ、それ、とっても正しい。それが間違ってるとか、それじゃだめ!とか言ってるわけじゃない(ちなみに占いは大好きすぎて、現在もろもろお勉強中です)。私がここで自分の経験として申し上げたいのが、それがね、どれだけ自分が「納得」できたか?そして「そうですけど、それが何か?」って言っちゃえるくらい当たり前じゃん、そんなの!って思えてたかどうか、ってことだ。

何十年もの間、私はそうやって他者が作った判断基準、或いは判断、診断、アドバイス?それで自分ってものを理解してきた。他者からみた自己像もたいせつだ。人間はそもそも他者との関係性の中ではじめて存在するものだから。仏教的に言えば、あなたがいなければわたしもいない、ということになる。確かに凡夫の私には、知らない方との関係性までは想像し得ない=存在しないってことになる。

けれど、ふ、と振り返って思ったのだ。他者の視点を介さない自分ってのは一体何なんだ?どこにいる?と。

例えば性格診断やワーク以外にも、他人からあなたにはこんな素晴らしい能力があって、こんな魅力もあってetcetcと並べて頂いても、私はそれをずっと自分のことのように思えなかった。思い込もうとはしていたけれど、うすい皮膜いちまいくらいの、しかし絶対破れない拒絶感があった。

どうして?って、私には小さいころからの訓練で自分や他人の長所と短所が私の中に同時に浮かんでしまう、という癖?があるからだ。よく言うでしょう?優しいのと優柔不断なのはいっしょ。意志が強いというのと頑固というのはいっしょ。その物事の両極が私には誉め言葉といっしょに立ち上がってきてしまうのだ。要は誉められれば誉められるほど、私には短所を数え上げられてる、と錯覚してしまうシステムが内蔵されていたというわけだ。じゃじゃーん!

もうひとつある。「はあ??あなた(診断)になんて私のことが全部分かるわけないでしょう??」というこれは、前者よりも強烈な拒絶感だ。いわゆる中二病というやつですね。当たり前だ。他者が私を全部わかるためにそんな診断をしているわけではない。もちろんいい年をした私は頭では分かっている。しかしこの拒否感からくる他者への威嚇が、常にからだの中にある感覚として存在するのは否めなかった。

まあ、簡単に言ってしまえば、わたしはとってもめんどくさいものを自分のなかに持っていて、それが自分への理解や、自己に向かうさまざまなベクトルをよってたかっていじり倒しているっていうそういうことです。

そういう人間にとってね、自己理解だの自己肯定感だの自己充足感、とかね。けっ(失礼)って感じだったわけですよ。何言っちゃってるの?と。

同時に、例えば就職のときの面接で「私はこんな有能です♡」ってアピールするのも、もちろん技術的には問題なく出来る。しかし自分で熱心に面接官に話しつつも、「え?まじで?」って心の中では違う声が同時進行で聞こえてきちゃう。まあ、大人の方便ってやつね、ってもちろん頭ではわかってはいるけれど、自分が嘘つきみたいで、その後で人知れず軽く落ち込んじゃったりしてもう、面倒でかなわなかった。

私はこれを心理学や仏教や瞑想、というもので解決したかったのだ。いや、解決できるって思ってた!しかし心理学って問題解決できるんだと思ってた。で既に語ったように、いいところまで来ていた気がするのだけれど、どうしてもブレイクスルーが出来なかった。そこに私を心底納得させる「納得感」が足りなかった。そしてそれを見なかったことにはできないって思った。もう、ウソやふり、はたくさんだったのだ。

 

そんな私への救世主となったのが「琵琶」だった。

ああ、驚いた!

博物館からの帰り道、それ以外にも繰り返し繰り返し自分の前に立ち現れてくる琵琶や飛天のイメージを反芻し続けているうちに、私の中で確固とした「納得感」が生まれてきたのだ。それはどんなに他者からすごいよ、と言ってもらってもなお、信じられなかった自分が!その自分の中に生じてくる疑念が、ぜんぜん浮かんでこないという奇跡!

私が琵琶から得た納得感。それは自分の生きざま、というか私の存在そのものについてである。

私はもともと、天才とか職人とか、ひとつの道の求道者という人たちに強いあこがれを持っていて、自分もなんとかしてそういった「何者か」になりたかった。でも、どうしてもそういうひとつのものを突き詰めて達成できない自分がいた。いろんなものに手を出しては、あれもこれも違うな、と後退し続けていたように思っていた自分。それが、私の破れない皮膜のような否定感を強烈にサポートしていた「自己像」だった。

琵琶を手に舞う飛天の像の氾濫を思った。シルクロードのかーんと響くような青く澄み切った空や、その下を往来するキャラバンを心に思い浮かべていた。以前見たジブリの「かぐやひめ」の月からのお迎えのワンシーンも浮かんで来た。

。。。そうか!私は前座担当なんだな、と、何と表現したらよいのだろうか、一瞬、からだを撃たれたように、そんな理解がそのイメージから落っこちて来たのだ。

「はいはーい♡これから真打登場でーす!その前にちょっと楽しんでってね~♪」と、場をつなぐ担当だ。これからお出ましになられる真打(神さま?お釈迦さま?)の紹介をしつつ、場をあたためておかなくちゃ!琵琶持ってるんだから音楽でみんなをノリノリにあげて、真打登場の瞬間は最高潮♡でバトンを渡したい♪

これが最初に湧いたイメージだった。このイメージがあまりにも気に入ってしっくりきたので、この後もひたすら意識的にも無意識にも、琵琶や飛天や天女や弁天さまを追い続けた。日々そのイメージに触れていたくて、弁天さまの地に引っ越しまでした。

その後も思いがけない出会いが続き、私の納得感はさらに深く、そして自分というものへの見方が自由になってきた。そうやって来る時も来る時もイメージを反芻していくうちに、ふ、と思い至ったのだ。なんだ!青い鳥ってそういうことか!ずーっと欲しくて欲しくて探し続けていたものは自分のすぐそば、どころか自分の中にあった。探すべきは自分のなかだったのだ、と。それは天邪鬼の私がようやく自分、というものを思ったとき深い納得感を感じられたられた瞬間だった。ようやくスタートラインに立つことを選べたのだ!

そして同時に、私はこの私の中に面々と流れている無意識のちからのすばらしさと不思議さを再確認したのであった。

よって身分違いの恋?も併せて、ここからスタートするのである。

 

つづく