Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

旅行会社VSお上の世界。明日はどっちだ。

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連日のニュースを見ながら思った。

これまでの時代、本音と建前みたいに、世界は二枚看板だけの使い分けで大抵いけていたと思う。うちとそと。仕事とプライベート。お得意様と一見様。

世界はもっと単純だったって思う。

時代はどんどん進み、一生に会う(バーチャルも含め)人の数はどんどん膨らんで、ってことはそれだけ多くの価値観みたいなものに出会うようにもなった。もはやそのふたつの世界に振り分ける、という作業はナンセンスになっている。

自分を振り返れば、まず、ふたつの世界の間にながーいグラデーションが生まれた。そしてそのグラデーションでは価値観を振り分ける整理棚は足らず、違う価値観に出会う度、今度はいっぱい〇を書いてはその〇の中にそれぞれ独立仕分けした。でも既に紙面が足らない。何の棚に何を入れたのかもわからずに、最近ではとうとう管理不能となった。何だかよくわからないけど溢れちゃってるよっていう有様である。

しかし、もと旅行会社勤めの身としては、昨今のGO TO騒ぎはとても他人事とは思えない。また、旅行会社のその後ちょっとお役所チックな会社で仕事もした自分にとって、なぜか自分の職歴の軌跡を現実世界が追ってくれているような気が、、、そんな誠に勝手な気、さえしてきている。

それは、あまりの価値観の違いにくらくらした数年前の私のあのショックを、今また旅行会社や世間の人たちが感じているのかもしれない、という超個人的デジャヴのような気持ちである。

旅行会社ってですよ。仕事上、大変な数のお客さまと手配の手数を必要とするからして、ある意味とても素朴な実利主義を旨としていたように思う。7月22日出発、と言ったらその日、10人参加、と言ったらその人数。ぶれはない。ぶれちゃ大変。クレーム必至。おまけに宿泊先や交通機関、観光各所ってそれぞれに恐ろしいほど異なったルールや手配方がある。そのかなりを今、ITで処理しているとしても、その煩雑さを統制するためには、全体を把握した上での効率を考える、というイズムがきっと今も残っているはずだ。そうでなければ、あの量の仕事はさばけないし、同じレベルのサービスを提供するのも困難になってしまう。

一方、お役所の世界は、今日国会答弁がどうの、とか今日政治家の何某がどうの、という理由で「今日帰れないや~」などというセリフが普通に交わされる世界である。会社に徹夜で待機し(仕事が本当に降ってくるかどうかもわからずに)、本当に使われるかどうかもわからないデータをお上の依頼のままにせっせと作る。

「ものごとの落としどころ」ってのは既に決まっているから、それに向かって万全の準備をする。つまり「落としどころ」に向かって、ちょうどいい情報を集めてストーリーを作るという作業をせっせとするのだ。

それは「お上」の意向通りでなければならない。しかし、お上はこれをあからさまにやらせると色々面倒なことになる(だからデキる人は、証拠が残るようなメールのやりとりなんてしない)。同時にお役所の文書は色々に読めるように、実に頭のいい人が意匠をこらして作っている。これをどう「翻訳」して、「落としどころ」にうまく合わせるかが役人の腕の見せ所であった時代が、どうだろうか?もう何千年も続いているのだろうか?(この前NHK菅原道真が取り上げられていた番組を見て、嗚呼、この伝統は平安時代には既に存在してたんだ!と知って驚いた)

それはお上とお役人の殿上人の世界だけで通じる文法で、なぜって「落としどころ」って、お上にいいように作られるものだからだ。その作業ってまるで学校のテスト問題といっしょで、問題が出る→それに答えるっていう作業。頭のいい子は、先生の問題の傾向や好みを知っているから、普通に高得点が取れる。何なら証明問題で、その正解が導かれる理由?に道筋をつけてあげるとよりポイントアップ!も可能。そりゃ旧帝大?あがりのエリートたちにとっちゃ、お手のものってわけだ。少なくともこれまでの世界はそうだったんだと思うし、今もそういう世界が存在している。

でもこれからってどうなるんだろうか?

冒頭に書いたように、平安時代、いや明治時代、いやいや昭和初期に出会う情報量を私たちはとっくにぶっちぎってしまっている。物凄い量の価値観の海を溺れないように泳ぐ昨今のこの世の中。もはや〇を書いて整理するスペースもないくらい、紙面は埋め尽くされた、この多様な世界。

なんとなく今までは殿上人と一般社会はそれぞれ別個のふたつの世界だったように思う。イズムがまったく相反しているのはわかっていて、でもお互いそれぞれうまく付き合おうぜ、ということが世の中をうまく渡るとか、まわすっていうことだったんだろう。お役所の制度をうまく使って起業したり、政治家に献金をするってそういうことだったんだと思う。旅行会社は旅行会社で、そういうことも「うまくやりながら」実利主義の粋を極める、というか、どうやって手数料商売、薄利多売のビジネスモデルから脱却するかとかをやっていたんだろうと思う。

でも今ニュースを見ていると、旅行会社は、こりゃもううまくやるのって限界だぜ!って混乱しているようにも見えるし、お上の世界も「落としどころ」の設定をどうしたらいいやら迷走しているように見える。お互い「うまくやりながら」存続していこうぜっていう前提が既に崩れているようにしか見えない。

これからだってもちろん、そういうのは続いていくんだろう。でもその世界に与しない、或いは違和感がある人、必要ない人がどんどん増えて、次々と違う世界、世界観が生まれて行って、でも相対的に人口は減るっていう世界になったら。このふたつだけの世界がうまくやり続けるシステム自体が、もしかして必要がなくなるのかもしれないって思っている。だってその世界を支えるだけのボリュームの人やお金がまわらなくなるんじゃないかな、って思うし。そもそもふたつの世界って幻想で、もっと世界はてんでバラバラなものなんだってなったとしたら。

今まで時代が変わる時って、米一揆とか!革命とかクーデターとか戦争とかそういう力技みたいなものが介していたんだろうなって思うんだけど、この時代、あとから見たらやっぱりそれはCOVID-19だったってことになるんだろうか。それって象徴的な出来事としてってことかもしれないけれど。

なんて大局的なことを考えつつも、私個人的には明日生きる術をどうするかってことでもう、大変なのである!この大変さって、でも、この世界のあり方がダイレクトに影響してきてるから、一言でいってなんか物凄く大変だし、逆に、何か壮大なものがたりのクライマックスに差し掛かっているような興奮もある。妙齢の私にはなかなか大変毎日なのである。