Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

「パリでメシを食う。」に助けられた話。

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ロンドンで働いていた時のこと。日本のものってすごく高価だった。今の有難い世の中、だいたいの食材や調味料、納豆なんてのも普通に手に入る。けれど、それが日本で買う何倍もするのだ。キューピーマヨネーズがひとつ700円とかって!買おうと手に取ると、ちょっと震えたりしたものだった。

それは本もまた然り。ある程度の本は買える。新刊の文庫本、なんてのも並んでいる。雑誌もちょっと遅れで最新号が手に入ったけれど1冊何千円もして、これにも震えた。あの頃はまだkindleも世に出たばかり?で今のようにお手軽に見られなかった。だからといっては何だけど一時帰国で日本に帰る時は、その埋め合わせで何時間も書店で過ごした。私はもともと本屋さんであてもなくずっと本を見続けていると、ほっとする性質なのだ。だから久しぶりに日本の書店で何時間も過ごせて、私はとても幸福だった。

川内さんの本に出合ったのも、最初?二度目?の帰国の時の幸福な書店めぐりの時だっただろうか。そしてそこでこの「パリでメシを食う。」に出会った。

パリでメシを食う。 (幻冬舎文庫)

パリでメシを食う。 (幻冬舎文庫)

その時川内さん、という作家の存在はまだ知らなかった。棚に並ぶその本を手に取って、ちょっとおもしろそう、パリの話みたいだし、何かの役に立つかも!って、他にも山のように買った本と一緒にロンドンに持って帰った。

ロンドンはその時ちょうど冬だったように記憶している。かの国の冬は、夕方4時過ぎには暗くなるし、仕事でうまくいかないこともあったり、風邪が長引いたりしてちょっとへこんでいた頃だった。

バイリンガルでも何でもない私にとって、一日中英語漬けの仕事は、新しいことをしている興奮も手伝い、それなりにチャレンジングだったけど、やっぱり大変だった。連日の難問解決ミッションが続いたりすると、時々ひどく疲れる時があった。そんな時は英語の世界に背を向けたくなる。何かを拒絶するように途端に英語が口から出てこなくなる瞬間が訪れる。パタン、と英語世界への扉を閉じるような感覚。

そう。それが日本語の世界に閉じこもるタイミングだった。文字通りに自室に籠って、日本語の本を読むのがそういう時の日課だった。

そしてそんなある日の夜、日本から運んで来た川内さんの「パリでメシを食う。」を何の気なしに手に取った。重い本は読めそうになかったし、もしかしてその時はもう、ロンドンや日本以外のことに触れていたかったのかもしれない。

その日は本当に疲れていた。それだけはよく覚えている。理由は覚えていないのだけれど、とにかくひどく疲れていて、おまけに落ち込んでいた。口を開けば誤解だらけ。何をやってもうまくいかない。そんな疲れだった。そんなお疲れモードの中で、この本を読み始めたのだった。

本を開いて最初ちょっと意外に思った。もっと軽いエッセイのようなものだと私が勝手に思い込んでいたからかもしれない。そこに書かれていたのは、その時の自分と同じように、気が付いたらパリで生活を始めていた、という人たちの生活だった。ひとりひとりの、ひとつひとつ全然違う生活。共通していたのは、それが偶然にしろ、意思にしろ、その時やるべきことに向き合っている人の話であり、それがパリで起こっているっていうことだった。

ロンドンに比べると、パリは私にとってもうちょっとだけドライな場所、というのがその時の私のパリのイメージだった。ロンドンの街はパリに比べるとほんのちょっとだけ暗くてウェットで、何かきゅっと詰まっている感じがあるのに比べて、パリにはドライでがらん、としていて、かわいた空間のようなものを感じていた。何でそう感じたのかうまくことばにできないのだけれど、パリのまちを歩いている時にそんな風に思ったのだ。そしてロンドンでは感じないような、自分の存在が薄くなっていくような不思議な感覚を、私はパリで感じたことがあった。孤独感とはちょっと違う。なにか透けていくような感じ。それはロンドンをその時ベースにしていた私の事情もあるかもしれない。この本を読みながら、そんなパリで感じた思いのようなものが自分の身体のなかに蘇ってきた。

そんなパリの感覚を思い出しながら、夢中になって一気に最後まで読んだ。あのちょっとドライでがらん、としたパリで、こんな風に生活をしている人たちがいるんだな、、、と、ぎゅっと心を握りしめるようにしてページを繰った。

華々しい成功物語でも、お涙頂戴の下積み時代物語でもない。その時にたまたま興味を惹かれ、出会った、そこで生きる人たちの日常と思いが語られている。ひょっとしてもう、会うこともないかもしれないような人たち。そうかもしれないけれど、でもきっと一生その人のことを忘れられないような、不思議な出会いの話が綴られていた。

パリのがらんとした空気感と、その出会った人たちのことをまっすぐに書く、という川内さんの文章の潔さが相まって、この本はとても不思議で魅力的な独特のリズムに溢れていた。一見表面は静かなのだけれど、その奥に1本、ろうそくの芯のようなものの熱さがこの本を貫いていて、それがいつの間にか、自分のからだの中にもそっと引火されたように感じた。そしてこの本を読み終わった時、異国暮らしにあんなに疲れていた自分がずいぶん遠くに感じられた。頭のなかがしん、としていてうまく言えないけど、自分に引火されたものにあたためられたように感じた。なぜか、まるで私も川内さんに話を聞いてもらったように感じたのだ。

重くのしかかるような孤独感が、いつしか爽快な疲労感に変わっていた。窓の外のオレンジ色の街灯の光を見たら、よく眠れそうな気がしてきた。同時にとてもパリに行きたくなった。川内さんのように、橋の上からパリの街を見たくなったのだ。もしかして次に行く時は、パリの自分がちょっと違って感じられるかもしれないな、と思った。

そう。あの夜、私は川内さんのこの本に助けられたんだった。誰とも何の話もしていないのに、自分の抱えた何かをわかってもらえたような気にすらなっていた。そういう意味で、この本は私の恩人でもある。そしてその後何年かして、また彼女の別の作品に出会った。そしてこんなにまた元気づけられるようになるとは!この時はまだ知らなかった。だから本との出会いって素晴らしいって思う。

川内さんが思い切って国連を辞めて下さったおかげで?私はほんとうに助かったのである。いつかこのことを書いてお礼が言いたいと思っていた。今日、こうやって書くことができて私はとてもうれしい。

 

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人生のお悩みのうらに「かまってちゃん」あり?

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人生に悩みはつきものです。毎日毎日、このケーキを食べるべきか否か、という悩みに始まり、仕事、人間関係、お金、健康、恋、家族、、、、など枚挙に暇がないくらい、お悩みのオンパレード。

さっきまで悩みカレンダー(日めくりで毎日1悩みごとが書いてある)を作ろうかと真剣に夢想に浸っておりました。そんな何のためなのかわからないカレンダーが欲しい!という方が万が一いらっしゃれば、まじめに作ろうかな!?時代に逆行して、いいことば、とか、元気になることば、の代わりになやみごとだけが書いてある。逆に禅っぽくていいじゃないか!と勝手にひとり、盛り上がっておりました。

もとい。

今日はお悩みについてのお話。私個人的にはですね。何かに悩んでいる時、その「悩み」をいちど俯瞰してみる、ということが最もたいせつなことだと思っています。

なぜかというと「問いが発生した時点で、既に答えを持っている」らしいんですよね、ひとって。

え?それどういうこと?とか、いやいや、そんなことない!と。答えがわからないから、こんなに悩んで、あなたに相談したりするんじゃないですか!と仰られるお気持ちはよーーくわかります。事実、私も自分が悩んでいる時はまさにそういう心持ちです。答えが欲しいのだ!能書きはいいからとにかく答えを出せ!と、自分に自分で詰め寄ったりします。

ところがですね。私も認めたくはないんですけどね。その時点で実は自分のなかに「答え」はあるんですよ。なぜならば「問い」と「答え」はどういうわけかセットになっていて、「お悩み=問い」が発生した時点で「答え」はもう、自動的にこころの中に生まれているんです。

生まれているならなんで自分でその答えがわからないの?と言うとですね。

じゃじゃーん!

答えがわかると、その答えに沿わなくちゃならなくなる、ってわかってるからです!

・・・・え?いやいやいや、そういうことじゃなくて!という方。まあ、聞いてください。

ちょっと過激な例えを致しますが、人間の大半のお悩みの中にある問いって「かまってちゃん」のことだと私は思っています。かまってちゃん??はい、そうです、かまってちゃん。あなたのまわりにも、もしかしてこんな可愛い方はいらっしゃいませんかね?

ねぇねぇねぇ、これどう思う?私これ似合うかな?ねぇねぇねぇ、昨日会社でこんなこと言われちゃってね、ねぇねぇねぇ。ねぇねぇねぇ。

。。。うるさいなぁと(ひゃ~!本音がつい!)。はいはいはい、どうせ似合ってるって言ってほしいんだろ?どうせ君は悪くない、悪いのは会社の上司だ!って言ってもらいたいんだろ?ってね。ねぇねぇねぇを振られたこちらとしては、言いたくもなる(こともある)。

これがまさに「問い」と「答え」の関係なのだ、と私は思うんです。あなたはわかってるんですよ。かまってちゃん(=問い)が何て言ってほしいかってことを、実はわかっちゃってる。でも、それ言っちゃうと、かまってちゃん(=問い)の思い通りになっちゃうじゃないですか?

そう思うと、どうですか?なんなんだよ~ってちょっと抵抗感出てきませんか?そんなあざとい手に乗るもんか!って言いたくなっちゃう。よくわからないけど、かまってちゃん(=問い)にうまいこと乗せられた気がしちゃったり、これじゃ、まるでかまってちゃん(=問い)の思うツボだからいやだ!っていう気持ちになったりする方、い、いらっしゃいますよね!?(震える声でお伺いしております)。

これがですよ。まさに大半のお悩みの正体なんだと私は思っています。要はどうして欲しいかわかっちゃいるけど、その手には乗るもんか!っていう自分の心の中のせめぎあい

でもほら、そんなことわかっちゃってるなんて!そんな風に思っちゃってるなんて!先ほどの私の声が震えたように、ちょっと心が黒い人みたいで、人から「あの人性格悪いんだよ」なんて思われたらいやじゃないですか?ああ、Warumiさんってそんなに心の狭い人なんだ~みたいにね、バレたら生かしちゃぁおけねえ。

だからね。そんな風に思っちゃってるってことに気付いてないふりをするんですよね。若しくはほんとに気が付かない様に、自分に催眠術をかけちゃう。そしたらほら、そんな風に思ってるのに隠してるわたし(そんな心の黒い私)、っていうのを忘れられるじゃないですか?罪悪感なしで眠っていられます。

大半のお悩みの裏には、だからこんな背景があるんじゃないかって私、思うんですよね~。ってことはですよ、まずは「問い」を隠そうとしているその催眠術を解くっていう作業が必要になります。

それが「悩みを一度俯瞰してみる」っていう作業なんです。まずは、悩みの眠れる森の美女である「問い」を、王子さまよろしく見つけ出しにいく。で、やさーしく起こしてあげるんですよ、その眠る「問い」をね。

そうすると目の前に王子さま(=答え)がいる。あとは「答え」と仲良くすればいい、あわよくば結婚してしまえっ!ということなんですよね。

ですからお悩みを抱えている方。探すべきは「答え」じゃないんです。まずは眠れる本当の「問い」を探すのだ。そしたら、自動的に王子さま(=答え)が目の前に現れるのだ!

というお話でした。私はお悩みを聞く時に、この「お悩み」の明確化のためによくカードを使います。それは悩んでいる方には、ちょっと悩みと距離を取って頂くため。そしてお悩みを聞いている私の主観がダイレクトに入らないようにするためです。これがWarumi的お悩みの俯瞰作業、ということです。今日たまたまカードを使いながらお悩みを聞きつつ、かようなお話を思いついたので書いてみました。

今後、実際にカードを使ったお悩みの俯瞰についてのお話を書きたいと思いまーす。

 

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人生のものがたりを自分で書いていく。ユング先生に倣って。

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最近ずっといろいろな神話やものがたりを読んでいる。

ひとつひとつの本を手に取ったり読んだりしているって、偶然の出会いみたいなもので、なんで手に取ったの?っていうと、その時々に違う理由がある。誰かから面白い話を聞いたから、もっとその世界を知りたいと思ったり、夜中に急に、昔読んでいたものがたりの断片を思い出してもう一度読みたくなった!とか、まあ色々。

そういう短いスパンの文脈で、それぞれのものがたりと自分が繋がっているんだけれど、ちょっと引きの視点でみると、ちょっとだけ向こうに違う景色が見えてきたように思う。

昨日、大塚先生のお話を聞いた。

 

話は飛ぶが、私は以前、身分違いでも「無意識」と生きていきます!とこんな風に宣言をした。

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それってこんな体験を自分自身でしたから、宣言できたことでもある。その体験そのものって自分の中でとてもリアルで、コンセプトのようなもの ~私って前座的担当として生きていくんだな!~ については今でも揺るぎないものがある。それは心の中にずっとあるものだ。

一方、それをどういう風にこの現実世界に落とし込んでいったらいいんだろう、、、というところはだいぶ悩んでもいる。

「臨床心理」や「カウンセリング」という世界のど真ん中に自分の居場所を持ち、そこから何かをしよう、ということをもう何年も漠然と考えてはいたのだけれど、なぜか?自分でも不思議なくらい、どうも気持ちがついていかないのだ。

自分が思っている理由はいくつかある。前にも書いたけれど、今の臨床心理の世界があまりにも学術的過ぎてしまっていて、横で悩んでいる同僚には届き難いんじゃないかと思われる点。そして難しいロジックを理解出来ないもの、その経験や資格のないものは語るな、という風に「私には」見えてしまうこと(もちろん、臨床心理の世界はそうは言っていない。私から”そう見える”ということだけである)。

もうひとつ。これは前述の記事にも書いたのだけれど、今の一般的なカウンセリングの中で、カウンセラーとクライアントの対等な関係性というものがあり得るんだろうか、という長年の私の疑問である。もちろんこれも、世間一般のカウンセラーがどうの、ということでない。自分がカウンセラーとして仕事をするとしたら、そこに対等な関係を保てるか”私には”自信がない、ということなのだけれど。

こういう観念的な思い、みたいなものは山のようにあるのだけれど、じゃ一体どうしたらいいんだろう?というところで、スタックしている。当たり前だけど、カウンセリングをやりたい人は順当にカウンセラーになるべく、勉強や経験を積んでそうなるのだ。それがいわゆる「順当なやり方」なのだ。

でもこの順当な道がどうにも自分にひらけてくる感じがしない。だってしっくりこないのだ。いやそれ、ただやる気の問題じゃない?と自分でも自問自動したのだけれど、でもやっぱり食指が動かないのだ。でもそうだったら、どうすればいいんだろう、私は一体どうしたいんだろう?とちょっとばかり途方に暮れている。

こんな最中に昨日の大塚先生の言葉が大きく響いた。それは「ユング心理学は知的なエリートに独占されるべきものではないのではないか。むしろ、それは市井の人のためのものではないか。」という言葉だった。

それは、ユング心理学ユングが自らに対峙することでユングが拓いていった道/地図のようなものである。ユングから私たちがまず学ぶべきことって、自分の人生のものがたりは、そうやって自分と対峙する以外紡ぐことが出来ないんじゃないか?ということなのだ。

私たちは自分が体験したものしか体験できない。どんな情報や身代わりを置いて疑似体験をしたとしても、それは幻みたいなもの。どんなに本を読んでも、人の話を聞いても、感動しても、泣いても、それを自分事としない限りものがたりは展開しない。

展開しないものがたりは、私たちを少しづつ、でも確実に疲れさせてしまう。ものがたりのワンシーンをなんどもなんども繰り返していなくてはならないからそこには、ただ単調な繰り返し作業としての人生しか存在しなくなる。

そして、そうやって繰り返しているうちに、そこからもうどうやってこのものがたりを展開していくべきなのかわからなくなってしまう。わからなくなって、逆にそこに留まって疲れる方が、いっそものがたりを展開するよりも楽じゃないか、なんて気になったりもする。

でもそうじゃない。ものがたりは自分で書き続けていくべきものなのだ。自分をワンシーンに刺しとどめてはいけない。だってものがたりってそもそも、展開していくものだから。

そうか。だからなのか、とちょっとだけわかった気がした。最近、神話や昔のものがたりを読んでいる私は、どうやら今からの自分の展開をどう書こうかな、と、ずっとものがたりを練っているらしい。自分が思っていたよりも、もっと深いところで。

そして、ユング大先生に出会うってこういうことなんだな、ってちょっと感動もしてるし、すごくしっくりきている。このしっくり、っていう感覚は私にとってとても大事なもの。

もうちょっと泥臭いものがたりにしていきたい。その代わり、自分で書きながらわわっとプチコーフンするくらいな感じの展開で。

今、この瞬間、そんな風に思っている。

 

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青が足りない。

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旅にでたい。。。とにかく旅にでたい。出かけてしまいたい。

(だけど、GO TO。。。これはイケてない。。なぜ今、旅そのものを貶めるような政策を。。。いや、わかりますよ。旅に携わるすべての人が今、未曾有のピンチなんだ。でも、正直、ほんとうに残念でならない。)

これまでの節目に必ずと言っていいほど、旅の存在があった私の人生。今、節目も節目。節目オブ・ザ・節目だってのにどこにも行かずにいる。我ながら信じられない。こんなことってありますか??あってよいのですか!?(すみません、この叫びをどこに向けて良いのかわからないまま、この画面にぶつけています。)

だからかもしれない。webや本から飛び込んでくる情報のなかに旅の香りがあるものに、自分が大きく反応している。

青が足りない。ただでさえこの少々陰鬱な雲と雨の季節。青が決定的に足りていない。

今、行きたいのは青い場所。

www.travel.co.jp

サマルカンドーーー!!!行ってみたい。この青い色を自分の目で見たい。ひ、羊の肉がそこまで得意じゃなくて、これまで避けていた自分を叱りつけたい。羊がなんだっていうのだ。行きたかったら、羊にかまわず行くのだ。

u-note.me

近年、修復に物凄い力を入れた結果の「サマルカンドブルー」らしい。でもそれを見たい。ぴかぴかのやつを見たい!

学生の頃から敦煌やキジルの石窟の写真をじーっと見てきたんだけど、想像力がですね、必要なんですよね。ほら、石窟って敦煌はかなり手が入っていると言えるけれども。それでも、残っていた見事な壁画ごとぺろっとはがされて、今はドイツやイギリスの博物館の中に眠っていたりして。そのパーツをね、頭の中で組み立てるというか、ああ、この窟にこの壁画があったんだね、と、全体像を見るために想像力が必要だったんですよね。

だからリアルに修復されたピカピカした青いものを、この目で見たい。

wondertrip.jp

ピカピカじゃないけど、元祖?ブルーのイスタンブール。ここも計画倒れで行けなかった場所。この前、この漫画を読んで俄然行きたくなった。この作者の方は既に、トルコに行かれたらしい。ほんと、そういう人生って素晴らしいよね!って思う。

白い街の夜たち 1 (ビームコミックス)

白い街の夜たち 1 (ビームコミックス)

  • 作者:市川ラク
  • 発売日: 2014/06/25
  • メディア: コミック

この漫画で思い出したのは若い頃に読んだ本。澁澤龍彦の妹さんだし!ってそんな邪な思いで手を伸ばしたら、全然違って一時期トルコ~♡に思いを馳せた本。トルコっていう場所もそうなんだけど、現地のひととの出会いや出来事がビビッドで、こんな風に旅がしたい、と思わされたなつかしい本。

そして、シチリア

jp.123rf.com

この海の色!ここは漂白されて年月が経っている遺跡を、この海の青を背景に見たい。そしてイタリア人のイタリアンが食べたい。日本人のためにアレンジされていない、ローカルのごはんがいい。

柑橘の黄色と葉のグリーン、そして真っ赤なトマト。それを青い海を透かして食べる。そんな自分を想像すると、ちょっと泣ける。どんな味がしているんだろう?どんな風や光がそこにあるんだろう?私の知っている青なんだろうか?

そして想定外の旅のハプニングでちょっと疲れている感じ?そんなのがとてもいい。なんでだろう?うまくいかない旅の途中って、その時はちょっと落ち込んだりするのに、あとからそれをとても懐かしく思う。

 

つい最近「タゴール・ソングス」という映画を見た。とてもいい、とてもインスパイアされる映画だったからこの気持ちはちょっと熟成させてから色々書きたい。そして、この映画に触発されて、今、タゴールの本や詩を読んでいる。

緑のベンガルの風の中にいたタゴール。詩を読んで、そしてその生活、まわりの人びとのことを想像していたら、「青が足りない」という思いが急に溢れてきた。

そう、青が足りない。

青い世界のことをずっと思っている。

 

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なぜ自分の過去や対処法をこうやって書くかっていうと

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このブログを通じて、自分の過去を書いたり、いろんな対処法や手法についてお伝えしています。

なんでそんなにいっぱい書いてるの?ってことを、どこかに書いたようで、振り返るとちゃんと書いていなかったみたい。ってことで、改めて今回ここに書いておこうと思いました。

今の時代、情報が多すぎるかも

まず大前提として私が思うに、ですよ。ひとってその人が体験したことが全てです。どんなに情報収集をしても、どんなに人にアドバイスを求めても、自分が行動→体験しなければ、それはゼロ体験ベース。これは私の経験からの実感です。

しかし、同時に今の時代あまりにも情報が多くなりすぎたように思います。試しに今、Googleで「カウンセリング」で検索してみたら、73,800,000件、という表示が出ました。いったいどうやってこの情報の海から、欲しい情報を見つけられるのだろう?

試しにいくつかのサイトを見て見ると、どれを見てもすばらしそうです。発信している方は「これが良い!」って発信されてますからね。7千万件もの「これが良い!」。もう、何が良いのか、どれがどうやら!ってなっちゃいますよね。

恐らく10年前。自分が本当に体験してみたい、と思う情報に辿り着くまで、今ほど大変じゃなかったように感じます。そのくらい前からwebでさまざまな情報を得て、さんざん体験した私の実感としてそう思うのです。

そんな体験をして、今のこの情報の海を見渡すにつけ、こう思うようになりました。もし私と似たようなバックグラウンド、何か似た体験を持つ方の「近道」になれたらなあ、と。自分の体験を参照してもらえたらいいな、と思ったんですよね。比べるようなものじゃないし、どっちが効くとか効かないとかそういうものでもない。けれど、私にはこうでしたよ、という体験はお伝えできる。

先ほど書いた通り、体験ってもうその人固有のものでしかあり得なくて、同じカウンセリングを体験したとしても、その結果とかそのカウンセリングに思うことって人によって違うものだと思っています。ただそんな中でも、似通った感性、経験を持つ人の体験ってとても参考になる。私自身がそうだったし、そうしてきたから。

それにカウンセリングって時間もお金も結構かかる。私のようなマニアは、ある意味「探検」のようにいろんな手法を体験したくてしてきた経緯がありますが、全ての方がマニアなわけじゃありませんものね。それに時代も、もう待ったなし、の様相を呈しています。

何が効くかって「出会い」に尽きます

究極的な言い方をしてしまえば、私は「効けばなんでもOK」と思ってます。いくら有名な先生がすばらしい手法を使われていても、100%の人がそれでよくなるわけではない。これは事実です。特にこころの問題ってね、その問題に改めて対面する、タイミングみたいなものがあるんですよね。もしかして、それは手法とか以上に。

そのタイミング含めて、何が効くかってね、正直、私はその情報との「出会い」が全てじゃないかなって思ってます。私が体験してきたあれもこれも、思い起こせば、出会いに導かれたようなところが大きい。たいせつな人との出会いと同じかもしれません。

何か良い方法はないものか、、、と真剣にお探しの方にその「出会い」のきっかけになったらいいな、と思っています。だからこそ、出来る限り安全で、私のような者にも効果のあった、安心できる情報提供をしたいと、本気でそう思っています。そうやって私が思っていることをね、急に思い立って書いておきたくなりました。

ご参考にしていただければ幸いです。

 

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サービス業の中で働いている人に起こりがち?な危機とその対処法(その3)

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本日もこちらの続き、最終回です。

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コンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)

今回はコンパッション・フォーカスト・セラピー(CFT)についてご紹介しようと思います。

昨今いろんな心理療法が世界中で誕生していますが、このCFTも比較的新しいセラピーのひとつです。また横文字!?ですよね~~それに、そもそもコンパッション?フォーカスト?何だそれ?ですよね!

コンパッションって「思いやり」のことです。もうちょっと踏み込んで言うとすると「相手の気持ちを理解して、もし困っているなら力をかしたいな」っていうような気持ち込みの「思いやり」って感じでしょうかね。それにフォーカス(焦点を当てる、とか集中する、とか)するセラピーのことです。

昨今「マインドフルネス」というのが、また西洋から日本にも逆輸入されてちょっと流行りな感じにもなってますが、このCFTもそもそも、仏教的な「コンパッション=思いやり、慈悲的なこころ」がひとつのキモであります。

とは言え、これって仏教のセラピーなの?聞かれると、そういうことでもない。このセラピーの理論背景は人間の生物学的、生理的な要素や、心理学の王道?の愛着理論、と言われるものなどの種々様々が取り入れられております。

まあ、難しいことは抜きにして、私がこのセラピーにおお!と思ったこと。それはこのセラピーが恥や自己批判の感覚、そこから生まれる自分をいじめてしまうような感情に働きかけるセラピーですよ、と知ったことだったんですね。

もしお時間があればちょっとこの動画(日本語字幕付)をご覧頂下さい(お時間ない方はすっとばしてね♡)

youtu.be

いかがでしょうかね~。この最初のところ。私、なんかちょっとわかる~!って思いました。自分は何の犯罪も犯してないのに、パトカーの音が鳴ると「え?うち?」って頭をかすめちゃう。犬が吠えても、赤ちゃんが泣いても「え?私のせい?」って一瞬思っちゃう。まわりの人に「赤ちゃんが泣いたのは私の所為じゃありません、勝手に泣いちゃったの、信じて!」って言いたくなっちゃったり(もちろん言いませんがね!)。

こうやって書くと、いやいやいくらなんでもさーそんな妄想、頭に浮かんでも信じてないよ~!ダイジョブ!って仰られるかもしれません。でもこれがね~一瞬でもね。どうやら私たちの身体にけっこうなインパクトを与えてしまっているらしいんですよね。そりゃそうだ。ドキドキすれば、動悸がして心臓や血管に負担がかかっているし、心臓発作とかって、どきっ!とする出来事がきっかけになったって話、よく聞きますよね。

そして、このドキドキですが、サービス業の仕事をやる中でわりとよく感じる感覚なんですよね。なんてったってお客さまの反応がダイレクトに見えてしまう。だからもしかして、そのお客さまはただ、今朝奥さんとけんかしたからむすーっとしたお顔をしているかもしれないのに、「え??当社のサービスに何かご不満でしょうか。。」ってちょっとビビっちゃう。

または、いきなり怒鳴り始めたお客さまや上司を見た時に心臓がきゅーっとしちゃったり。え?私、何かしちゃった?ピンチ!!っていう状況になると「もうおしまいだ、、、!私は失敗した、首だ。。。」みたいなクラクラした感じがあっという間に全身を駆け巡ったりする。これって結構サービス業あるあるじゃないですかね~。

こういう出来事があっても、その後すぐに持ち直せれば大丈夫です。でもね、自分に自信がなかったり、失敗続きで上司に注意されたり、仕事の成績が下がったり?ってなるとね。うちでお風呂に入っても、ついつい昼間のこの出来事を思い出しちゃう。なんであの時あんな失敗しちゃったんだろう、あんなこと言っちゃったんだろうって、自分を責めてしまう。まさに先ほどご覧いただいたスチュワードくんみたいな感じですね~。

私、若い頃に、夜寝る前、自分がその日、会社や仲間内で言ったこと?セリフをまたいちから思い出す、なんてことやってました。「あれは言葉を間違えた!」とか「しまった言い過ぎた!」とか「言えなかった。。」とかね。自分勝手反省会みたいなのを、毎夜繰り返した時期がありました。

これってね。仕方ないんですよね、とギルバート博士は仰る。なぜならばね、人間が進化していく過程で、こういうピーンチ!っていう時には、自分の身の安全を守るようなシステムってのを人は装備しちゃってますから、とこういうことらしいんです(そしてこのあたりの考え方、というか体のシステムの捉え方は、昨日ご紹介したSE®にも似た側面があります)。

それに加え、幼少期から「今、わたし完全に安全♡」っていう深い安心感を感じた経験が少なかったりする(他にも原因はあります)と、身体や脳のデフォルトがいつも「不安モード」になっているらしいんですよね。そうすると、何が起こっても「不安」っていう眼鏡で出来事を見るようになってますからね。不安が更に不安を生み、何かあればびくっとしてしまう、不安スパイラルの中に投げ込まれてしまって、怖い事ばっかり想像してしまう。

CFTは、ものすごく乱暴に言ってしまうと、この「自分を責める/不安になる自分の声」と仲良くなりましょうよ!というセラピーです。

適度な反省は次へとつながる有効なアクションですがね。ものには限度というものがあります。それに、他人に厳しかった私は、先ほど書いた通り、やっぱり自分にも相当厳しい言葉を投げかけてたんですよ。よーく思い出してみるとね。

そんな自分の経験もあるものですから、そんな厳しい声と「仲良くなりましょう♪」なんていうセラピーだなんて!と、興味をひかれて、それでさわりを学んでみたんですよね。

結果、自分にとてもよかったワークがいくつかありました。そのうちのひとつをここで簡単にご紹介します。これは自分でも簡単にできますから、よかったらぜひやってみてください。童話やストーリーが好きな方、ちょっと向いているかもしれませんよ。

まず、自分のなかにスーパーマン/女神/ものすごく尊敬している、とか、すごい優しい友人とか、好きな人のイメージ、を持ったもうひとりの「自分」をイメージします。ここで大事なのは、それも「自分」であることです。自分その1、その2、みたいな感じ。このもうひとりの自分に、自分の中にぐるぐるしている、自分を責める内なる声と、自分の代わりにお話してもらうんです。その間、この私という自分はそのふたりの対話を聞いている、みたいなポジションに置いておく。

「なんであんなミスしたんだよ、ほんっと私ってばか!」って責める声が聞こえてきたら、女神の自分に相手をしてもらいます。自分じゃなくて「女神の自分」が相手をするんですよ(ややこしいですね!)。自分だったらその責める声に同調しちゃうんですけど、「女神の自分」ですからね。にっこり笑って「それってそんなに責めるようなことかしら~?」なんてめっちゃ優しい声で返してくれる。「そうだよ!ばかばかばか!」なんてまた責める声が言うと、女神の自分がいきなり、よしよし、と頭をなでてくれたりする。ぎゅっとハグしてくれるときもあります。泣いている間、ずっと背中をなでてくれたりもする。

これって小さい頃、自分をそばで慰めてくれたぬいぐるみとか、タオルとかね。そんなイメージかもしれませんね。それが自分の好きな楽器でも、食べ物でもなんでもいいです。とにかく自分をやさしく包んでくれそうなイメージがあるものがいいかも。

このイメージの自分にご登場して頂き、責める声と対話を重ねることで、自分の中の厳しい声、責める声、不安な声、とちょっとづつ距離をつめていく。そして仲良くなっていくっていう作業を続けます。冒頭の「コンパッション」って実は、自分に向けて「思いやりの気持ちを持って、力をかしたいな」ってところからスタートなんですよね。

えー!そんなちょっと子供騙しみたいじゃん!って声が聞こえてきますが(これが、今の私の中に聞こえている、内なる責める声です!)まあ、騙されたと思ってトライしてみて下さい。手動瞑想と同じく、一円もかかりませんからね☆

とは言え、特に日本人にはいきなりこんなお芝居?みたいなことをひとりでやれっていっても難しい。それにCFTはもちろん!このワークだけでなく、もちろんもっとたくさんのワーク(カウンセラーと一緒にやったり、ひとりでやったり)と、「なんで私、いつもあんな風に怒っちゃうんだろう、やっちゃうんだろう」という疑問に答えられる理論があります。ご興味を持たれた方は、ぜひ、下記のフォームからお問い合わせください。

これもとても仏教っぽいんですけど、そういった知識と思いやりの両輪でできているセラピーだっていうところも、私がこのセラピーに惹かれるひとつの理由のように思います。知識だけあったって、思いやりだけあったってだめなんだぜ、と。どっちも必要なんだよ~っていうのがとてもいい。

そしてもうひとつ。コンパッションって、選択をする「勇気」だよ、とギルバート博士が仰っておられるんです。このことば、私にがん、と刺さりました。選択するときには勇気が必要。ただ、この勇気を使えるようになるために、まずは内なる責める声と仲良くなりましょう!

ということで、よろしければ色々お試しくださいね~☆そして、ご質問やお問い合わせもどうぞお気軽に☆お待ちしております。

 

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サービス業の中で働いている人に起こりがち?な危機とその対処法(その2)

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本日もこちらの続編、対処法についてです。

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前回は「手動瞑想」についてご紹介しましたが、今回は私が経験したいくつかの心理療法について書いてみたいと思います。

ソマティック・エクスペリエンシング®

www.mind-body-psychotherapy.jp

唐突にお伺いしますが、皆さまが「カウンセリング」に持っていらっしゃるイメージってどんな感じなんでしょうかね?

心療内科のお医者さんへの受診?それともカウンセリングルームのようなお部屋でカウンセラーとお話をするようなイメージ?それとも他に??(これもぜひ、皆さまにお伺いしてみたいことの筆頭です。めちゃめちゃ興味あります)。

だいたいですけど、医者やカウンセラーと「対話をしている」イメージをお持ちの方が多いのでは?と推測します。

カウンセリングって、主にことばを介して行われるものだっていう時代が長いこと続いています。今も大半のカウンセリングはそうかもしれません。クライアントの方の悩みを「ことば」で聞き、「ことば」でそのお悩みやお気持ちを共有する。この中にはボディランゲージや、クライアント、或いはカウンセラーの態度、表情を通じて感じとるものも含まれます。

人間が発明したこの「ことば」ですが、これ自体はとてもすばらしいツールです。このことばがあるからこそ、私たちはこんなに簡単にコミュニケーションを取れる。だからカウンセリングも成立するんですよね。しかし、以前書きましたこちらの記事をちょっと思い出してくださいませ。

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「大根買いました」の中にもいろいろな意味と背景が広がっているんですよ、というお話でした。

「大根」(に拘ってるみたいで、すみません!たまたま大根だったんです~)から、皆さんが連想、想像するものって一体なんでしょうか?

例えばお母さんの(大根の)お料理が大好き!って方。今、頭に浮かんでいるものってお母さんの作られた大根料理そのものかもしれません。それとも、学校から帰ってきて玄関を開けた途端、大根料理の匂いがしてほっとした記憶でしょうか?かばんを放り投げて、おなかがすいたよ~!って食卓に突進するときの気持ちかも。

或いは新婚時代の思い出の一部かも。慣れない(大根の)手料理を一生懸命作って、旦那さん、或いは奥さんに味見してもらったら「おいしいね!」って言われて、すっごく嬉しかった思い出。或いはせっかくの(大根)料理なのに、旦那さん/奥さんには結局食べてもらえず、腹をたてながら、或いは泣きながらひとりで食べた(大根)料理の味の思い出かもしれません。

もしかして大根がすっごくキライな方。学校給食で大根料理が出る度に、ランチの時間が過ぎても食べられずにうつむき、(大根)料理をつつきながらこの地獄のような時間が早く終わらないかと泣きそうだった、っていうつらい思い出かもしれませんね。

で!誤解を恐れずにものすごく簡単に言ってしまいますがね。カウンセリングって、その時の皆さんの過去の(大根の)記憶や情景をカウンセラーといっしょにふたたび体験をしていくようなそんな作業/時間なんですよね。

なぜならば(大根の思い出であれこれ書いたように)私たちには「体験の記憶」というものがあるからです。実は私たちはこの自分の「体験の記憶」を通して日々過ごしているし、物事を見たり判断したりしている。だから、今何か困ったこと、問題があること、があったとしたら、それは今、皆さんがお困りであることにつながる「過去の体験の記憶」を探っていく、ということをするんですね。

そしてこの過去の記憶を探っていく時に、その「体験の記憶」はことばで語れるもの、そしてことばでは語れないものの両方があるようなんです。

「その時うれしかったです」「その時つらかったです」と、私たちはそんな風に過去の記憶について語ります。その時、過去の記憶を共有し、カウンセラーは「想像」することは出来ますが、本当のクライアントさんの体験や気持ちを完全に理解するのは、いくらカウンセラーと言えども至難の業です。ほとんど不可能、と言ってもいいかもしれません。

そして、それはその話をしているクライアントさん自身の中で起こっていることにも言えます。もしかして、ことばとして表現された過去の記憶と、本当にそのクライアントさんが体験されたことは、同じようでちょっと違っているかもしれないんですね。

その理由のひとつに、記憶は「ことば」で語れるものでもあり、また「からだ」に蓄積されるものでもある、という側面があります。

こんな本があります。 

これはトラウマについて書かれた専門書でありながら、とてもわかりやすく書かれた本ですので、ご興味ある方はぜひご覧になってみてください。トラウマ、なんて聞くとちょっとびっくりしてしまいますが、このトラウマってね、虐待や事故などの過酷な状況だけでなく、実はなんと!普通の日常生活の中でも、ちょっとづつ蓄積されちゃったりするものなのです。思い出して心がちょっとちくっとなるようなことって、実は「トラウマ」の一種かもしれないです。そしてそのトラウマは「からだ」にも記憶されるんですよ、ということがこの本の中に丁寧に書かれています。もちろん、からだに刻まれるのはトラウマばかりではありません。ってことは、からだって情報の宝庫なんですよね~。

ということで、いつもの通りだいぶ寄り道しましたが、このソマティック・エクスペリエンシング®が、なぜこころだけではなく、からだにアプローチをするのか。それは私たち人間の記憶が脳の中だけではなく、この本で書かれている通り、からだにも蓄積されるということが明らかになってきたからなんですよね。

この療法の説明については、前出のこちらをご覧ください。ここでは私の体験についてお伝えしたいと思います。

私がこのSE(ソマティック・エクスペリエンシング)®を体験して良かった、と思ったこと。それは、自分でも気が付いていなかったからだのこわばりや、緊張、不安感などの(ことばにできないような)感覚に、自分で意識的に気が付けるようになったことです。そして、自分のからだにお任せしておくと、その感覚は一時のもので、その後「だいじょうぶだね☆」と言えるところまで、必ず戻ってくるんだな、と体感できたことです。

何か心がきゅっと縮むような出来事(電車で怒り狂ってる人がそばにいたとか、会社ですごく怒られちゃった、とか、思い出したくない大根の思い出、とか)って、それぞれにね。こころがきゅっとしてしまうバックグラウンドが(大根の奥に広がる話のように)いっぱいあるんですよね。

その時のからだの反応って、何か共通のものがあったりします。というか、その記憶にからだが反応して、からだの記憶を引っ張り出してきている。簡単に言ってしまうとこんな感じ?

SE®でも、もちろんことばを介した記憶について、カウンセラーとお話をします。した上で、その時のからだの感覚を「神経系」へのアプローチで探っていく。このSE®のちょっと不思議ですごいなあ~と思うところって、このシステムが自分で体感できるところだな!と私は思いました。自分で体感が出来るっていいです。なんかこう道しるべ、というか、自分でこうだったな、っていう感覚が後々残りやすい。

私の場合、ことばで喋っていると、その時のムードで「ああ!私はだいじょうぶ!」って思ったりしがちなんですが、それってただ「ムード」に流されちゃってる場合もある。カウンセリングの最中には「もうだいじょうぶ!」って思っても、その後「やっぱり大丈夫じゃなかった(涙)」と気持ちが戻りがちでした。その点、体感覚というものは、ふんわりしているようで、実は自分の体験が残り続ける、という不思議な力がありました。

サービス業の経験の中で、添乗中にひぃ!と焦った時。仕事のプレッシャーに気持ちがぺしゃんこにされた時。その時々にからだって物凄い反応をしているんですよね。その反応を再・体感しながら、それでも「だいじょうぶだね☆」というところに自分で帰ってくることが出来る。これが出来るようになると、例え仕事で色んなめに遭っても、自分自身でごく自然に「だいじょうぶだね☆」に戻って来られる。これって「(ホントは結構だいじょうぶじゃないけど)だいじょぶです!がんばります!」って自分を無理やり上げ続けるってことを繰り返していた私にとって、ちょっと革命的な経験ですらありました。

まだまだひぃ!ってなっちゃうことは山のようにあるんですけどね。ちゃんと戻って来られるってことを自分のからだが知ってくれている、ということ。これは大変に心強いものです。気持ちって理屈じゃないもんね、って言えるところも好きなところですね。

ということで、今回はSE®のご紹介でした。まだまだ続きます。

(つづく)

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