Warumiの柱

「こころミュージアム」のキュレーター。Warumiの「こころの魔法」研究報告です☆

これまでの目標設定って、自分軸じゃなかったみたいです。

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唐突ですが、何かの目標を立てる事ってお好きですか?

例えば何か達成したいことー試験の合格とか、ダイエットとか、留学のための貯金とか。そんな何かの目的のために建てる目標。

思い返せば、子どもの頃からこの目標を立てる、ということが私はあまり得意でなかった。得意でないと言うより、あまり好きではなかった、と言った方が正確かもしれません。

一見ね。普通に、人並みに、目標というものを立ててきたつもりでした。中学生の時には、例えば中間テストではこのくらいの点数を取りたい、とか、その頃部活でやっていたバドミントンでは試合に出たい、とか。大学生になればなったで、旅行資金をバイトでこのくらい貯めたいとか、夏までには何キロ痩せよう!とか。

日常生活の中にそういった目的というものは常にあって、まあ、それなりに頑張ったり、頑張れなかったりしながら、ひとつひとつ達成出来たり、出来なかったりしてきました。

そう、目標というものは、私にとっては達成出来たり、出来なかったり、というものだった。その程度のもの。

そのこと自体、特におかしいと思ったことはありませんでした。まあ、自分に甘いのはいつものこと。貯金が少々目標に足らなくても、ダイエットが間に合わなくても、まあ、そこそこ出来てればそれでOK。それ自体、よくあること。

目標を全部クリア出来ちゃったら、神さまレベルです。人生なんでも叶っちゃう。だから、目標ってのはそういうくらいのものなんだな~って思ってました。必要に迫られれば、それなりに自分に必要と思われる目標を立てる。運と努力が噛み合えば達成。運か努力が足りなければ未達成。

そう、なんだかそんな風にふわっとしてたんですよね。ふわ~~っと、なんとな~く目標設定して、なんとな~く達成したり、なんとな~く達成しなかったり。

だから私はいつも達成して死ぬほどうれしい!!とか、死ぬほどくやしい!!とか、そういった感情から無縁でした。なぜって、それに無縁でいたかった自分がいたから。

このふわ~っと、というのが、実はたいへんな無力感の影響だったのだ、ということをですね。とうとう発見&自覚しました。

良くも悪くも、私には器用貧乏な特質があります。環境適応能力というのでしょうか?その偏差値は結構高めだと思います。浅く広く、であれば、すれすれ合格ラインで通過出来たことが多かった。学校でも会社でも「それなりに」適応が出来て、それなりにやり過ごして来てしまったんですね。

そんな自分に自分が騙されてました。目標(〇〇を達成する)をだいたいクリアできているから良いだろう、クリアできなくてもまあ、それは仕方ない。人生そんなもんだってね。

実はそれって、私にとって私の目標であって私の目標ではなかった。他人の思惑を自分の目標だと勘違いさせて、だからそれに対して夢中で頑張る、ということが出来なかった。だからクリアできてもできなくても、自分の心は何となくふわ~っとしてました。

そもそもね。苦手だったんじゃなくて、怖かったんですよね、目標を立てるってことは、自分の本当の願望ってものと対峙しなければならない。そのことが怖かった。他人の思惑で目標設定をして「人生そんなもんだ」って言っている方が慣れていたし、怖くなかったのでしょう。

だってね、この無力感ってやつは、自分の望みなんて叶うもんかっていう呪いなんです。望みさえ持たなければ、何も怖くないよ、だから分不相応な望みなんて持つなってね。自分が自分に言い続けている。それが無力感の正体。

だから自分の本当の望みというものを、薄めて薄めて、目標の濃度3パーセントくらいにしておく。残りは他人の思惑に乗っかって、はい!これが私の目標ですってことを、もうずーっと繰り返していたとしか思えません。そうしておけば、なんとなくそれが自分の目標のように錯覚出来たし、3パーセント程度の本当の望みが叶ってもさほど嬉しくはないし、叶わなくてもさほど悔しくはない。97パーセントは他人事ですし。

実はそういうカラクリだった、ああ、自分ってこうやって目標を立てることを、自分の本当の望みを自分で標榜することを避けて来たんだな~って、クリアにわかりました。

他人軸の自分では何かと不都合ですよ、という教えは世の中にもあふれている。わかっていたのに、わかっちゃいたけど、自分では気が付きづらいものなのだな~と唸るような気持ちでいます。

それも当たり前かもしれませんね。他人軸で生きているなんて、自分で自覚していたらそりゃもうそれをやめたくなるか、つらくて仕方なくなるか、どちらかです。

他人軸で生きることをやめることで悲しむ人(特に親)がいる、と潜在的に思っていると、自分が他人軸で生きているだなんて気が付かないように、巧妙に自分を騙します。これは特に幼少期においては、自分が生き延びる術でもあった。私もこれで生き延びることに成功したんだと思います。自分の器用貧乏の才能の源って、この生き延びる努力の末に獲得したものじゃないかな、とも思います。

けれど成長するにつれて、この依存状態での他人軸人生は、別の不都合を引き起こしてしまう。そのひとつが「自分の本当の望みがわからない(と言いつつ、自分にわからないようにしている)」ということだったかもしれません。

人生がほんとの終盤になる前に気が付けたことは、自分を誉めてあげたいと思います。と同時に、これまで他人軸に依存することで回避していた、怖さという感情とうまくやっていくことを今度は学ばないといけませんね!

もしあなたが、自分の人生がちょっと他人事のように思えたり、何かに真剣になれなかったり、嬉しかったり、悔しかったり、という感情がまったく感じられなかったりしていたとしたら。

もしかして、それって他人軸で生き延びてきた副作用が、そろそろ出現したということかもしれません。お互い、まずは生き延びることが出来たことを喜んで、自分を誉めましょうね。

気が付けばそこから立ち位置を変えればいい。他人軸で生きることだって、楽な道じゃありません。それだけ他人軸を貫けた根性と愛情があれば、立ち位置を変えてもだいじょうぶ。

人生長いんですから、ある時期が来たら軸を変えて参りましょう☆きっとそれも悪くないはずです。

 

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プロのサービスにもっと元気を。

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これはもう、沢山の人がいろんなところで言っていることだと思うけれど、とにかくお客様向けの日本のシステムというものはスペシャルだ。

何というか、美は細部に宿る、といった感性が、仕事の仕方やお客様への満足度追及にものすごく反映されている。

「サービス」というものの概念に、何かこう、美意識とも言うべきもの。それが、お客さまがもう、見えなくなってもしばらく頭を下げてお見送りをする、だとか、食事をサーブする時のきめ細やかなお作法(どの側からどの位置にお皿を出す、とか)に、宿っているように思う。

海外からの友人知人を日本で案内する度、行く先々で彼らに驚かれた。どうしてホテルのスタッフはエレベーターの前であんなに深くお辞儀をしてくれるのか、ひとつのお菓子を買うだけでわざわざお店を出るところまで、店員さんが商品を持って出てきてくれるのか、とか。

まさにWHY JAPANESE PEOPLE??感満載である。

で、ですね。最近、何かこう日本式のこういった「おもてなし」をする方々に、一種のもの悲しさのようなものを感じてしまうようになったのは、単なる私の偏見だろうか。。

ちょっと前まで、このような「日本式おもてなし」を提供されているスタッフの皆さまは、今とはちょっと違う雰囲気を持っているように見えた。それはもちろんお客様のことを第一には考えているのだけれど、そういったプロのサービスが出来る自分自身、というものに矜持がある感じ。自分がそんな上質のサービスを提供出来ることに自信を持って、ちょっとキラキラしてる感じもある。

上質のサービスって、例えばマニュアルがあるからその通りにやれ、と言われて出来ることではない。「お察し力」というものは一朝一夕には身に着かず、ある程度の時間と訓練を積み、更にお客様にいろいろ揉まれて出現する能力なのだ。

だから、いくら素晴らしいマニュアルがあっても、マナー講師が口うるさく啓蒙しても、天性のものを持っている人は除いて、普通は色々苦労する。私の話をすれば、幼いころからの英才教育で培った「お察し力」は人並み以上に持っていたと思う。けれどそれを実際のお客様へのサービスへ還元するまでには、お客様の中で育てられる経験が必要だったように思う。

で、だ。最近、これも私の偏見なのかわからないけれど、サービスの内容や、満足度を(くだらない)アンケートで「数字化・見える化」している所ってやたら多くないですかね?

私はこれが、現在のサービス提供者をもの悲しくさせている元凶じゃないかって思うのだ。

というのが、ですね。サービスってひと口に言っても、お客様に満足して頂く、といのはマニュアルの型どおりではなかなか難しい。お客様の感性は人それぞれで、ある方は「そこまでケアしなくてもいい、むしろ放っておいてくれ」と言い、また別の方は「もっと声をいっぱいかけてほしい」と言う。このような違いを見抜いて、お客様それぞれに沿うような対応をすることが必要とされる。

それだけではない。限られた時間の中で、出来るだけその見立ての上に微調整をはかっていく。上質なサービスとは、見立てと実践、そのトライ&エラーの積み重ねの上に成立するものだからだ。

そのトライ&エラーをするための目印。これが重要だ。つまり、お客様の反応である。反応なくしては、上質なサービスの提供は難しい。相手の反応を確かめつつ、サービスの精度を上げていく。

こんなお客様とのやり取りが、無味乾燥なアンケートで一刀両断に判断される。またサービスを受ける側のお客様も、とかくこういったアンケートの質問にあるような観点からサービスの質を判断しがちになる。

そこには生の人間同士のやりとりはなく、マニュアル化された評価システムの下で画一化されたサービスしか存在しなくなる。そう、つまらないサービス。

そんな限定された中でのサービスでしか評価されないなんて、サービスのプロにしてみれば窮屈で退屈に思われるんじゃないかと思う。もっと繊細な世界の話なのに、大味の人工的な味付けでよし、とされる世界。

加えて、最近はすぐキレるお客様も多いと聞く。上質なサービスには微調整ってものが必要なのだ。プロのサービス提供者は、プロだけどエスパーじゃない。最初から全てのお客様の望みは100%わからないし、やり取りの中でそれを詰めて微調整していくのが、プロとしての腕の見せ所。けれど、そのやり取りを拒否し、いきなりキレてしまうお客様に対しては、怒らせないための防衛的なサービスしか出来ない。

それはサービスのプロの方には本当にお気の毒、、、としか言い様がない。プロの実力をぜひ、拝見したいじゃないか。私がお客の立場だったら、プロの方とのやり取りの中で徐々にボルテージ高くした魔法をかけてほしいって思う。

このご時勢、サービス業の皆さまにとっては逆風なんて言葉じゃとても足りない状況に陥っている。なんとかして頑張って頂きたい、とちょっと暗くなるようなニュースを聞く度に思うのだけれど、同時に、プロのサービス提供者の皆さまには存分に手腕をふるって頂きたい、ふるって頂く機会をたくさん作ってほしい、と心から思う。

サービスって一方的なものじゃなくて、提供者とお客様との間の粋なやりとりでどんどん洗練されるものだって思っているから。

そんな風にサービスされることを楽しむ人が少しでも増えたらいいな、と思う毎日だ。

 

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選択に迷う時、私たちはどう選べば良いのでしょうか?

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振り返ってみれば、私たちの毎日って何かを選んで決めることの連続のようなものかもしれません。

何時に起きて、朝ご飯は何を食べて、何の仕事/家事から始めて、今日の優先順位をつけてって...etcetc。改めて考えてみると、なんと選択の多い事でしょう!

朝ご飯はパンにする?ご飯にする?という程度の選択であれば、今日パンにしたところで、その後1週間も「やっぱりご飯にすればよかった。。。」などと後悔するようなことはない。

多くの選択がそんな気楽なものであればいいな~と思います。けれど、人生なかなかそうもいかない。こと、その選択が後々の人生に大きく関わるようなことであるような場合。そんな時って、私たちってとても悩みます。

今、この会社に就職すべきか否か。今、この人と結婚するか否か。今、会社を辞めるべきか否か。この手の選択に、悩まないですよ、すぐ決められるよって方って少ないんじゃないかなって思います。

私自身も色々悩んできたくちです。選択の悩みがない時がない、ってくらいな感じ。常にこういった選択に迫られるよう、自らを追い込む癖でもあるのでしょうか?「どうしよっかな~!?」って悩みっぱなしの人生。

いきなりですが、今日も歯の治療のことで悩んでます。小さな悩みで申し訳ない。しかしこの歯はもう抜いてしまうべきか、残った根を活用して治療してもらうべきか。さんざん歯医者さん通いをしている私は結構悩んでる。どちらもそれぞれメリット・デメリットがあるがために、うーん!どうしよう!?って考えてます。

でね。今日、歯医者さんの帰り道、どうしようかな~と悩みつつ、思ったんですよね。人ってなんで何かを選択する時、こうも悩むのかな~ってね。暑い中歩いてました(ほんと、毎日殺人的に暑いですよね!)

自宅の近くの川まで辿り着いて、水面を見てちょっとほっとしました。暑いですけどね、水辺はやっぱり気持ち良いんですよね~。歩きながらその川の流れを眺めていたら、水辺好きな私はだんだん嬉しくなってきちゃったんです。あ~家の近くに水辺があるってやっぱりとっても良いじゃんね!ってね。

その「やっぱりとっても良いじゃん!」って思った瞬間ね。ああそうか、選択に迷うって、選択した後に「やっぱりとっても良いじゃん!」って言いたい/思いたいからだなってね、急にそんな思いがぱっと頭に落っこちて来たんです。

いや、考えてみれば当たり前ですよね。そうだよ、幸せな選択をしたいから悩むんじゃないかって、そんなの当たり前じゃないですか!って仰られるかもしれません。

でもね。悩んでいる最中に私って、実はそうじゃないかもしれないって。

私のことを申し上げれば、ですが、選択に迫られている時って、だいたいその選択肢のことで頭がイッパイです。A案にしたら、こういうメリットがあるけど、あんなデメリットもある。B案も悪くないけど、でもA案のメリットほどメリットがはっきりしていないかも、、、ああ、それに1年後はA案でも良いかもしれないけど、長い目で見たらやっぱりB案の方が良いように思えるし、、、うーん。。。

ってこんな感じ。

そう、こんな風にちょっと前までは選択ってね。出来るだけ頭の中をクールにして、理性的に!双方のメリット・デメリットを出し尽くした上で、よくよく熟考して結論を出すものだって、そう思っていました。

もし選択を誤ったとしたら、それは考えが足らなかったからだ。自分の想像力が足らなくて、選んだ方のデメリットを詰め切れなかった。だからこうやって今、間違っちゃってるんだ。。。ってね、こんな風に思ってたんです。だから若い頃は勢いで決めちゃって失敗!ってこともあれば、年齢を重ねると色々な選択肢が見えてくるから、選択にとても時間がかかることもあるって、そんな風に思ってたんです。

まあ、たしかに間違いじゃないんですよね~それも。

でもね。今日川を見ながら思ったんです。その状態って、もしかして選択肢のことばっかり考えていて、そもそもの動機ー「やっぱりとっても良いじゃん!」っていう状態になるーってことをすっかり忘れてるんじゃないか!?ってね。そう、単純に「良いじゃんね!」を追わず、どっちの案が得するか損するか、みたいな合戦状態に忙しい感じ。

そう。質の良い選択をしようとして、そのメリットとかデメリットのことばーっかり気にして、しかしその実、そもそも選択をしなくちゃいけなくなった「動機」ってものを、完全に置いてけぼりにしてしまっている。

え?それって何か影響ありますか?と問われれば、影響は大有りです。っていうのも「やっぱりとっても良いじゃん!」っていう最終形をイメージの外において、どっちの選択がお得かなんて悩むってね。もしかして私「やっぱりとっても良いじゃん!」っていう私になる自信がないだけの裏返しだって思ったんですよ。そう、さっさと「良いじゃん!」ってなる自信がないから、うだうだ悩むのだ、と。

どうして悩むかって言えば、A案もB案もどちらもそれぞれに良いところ、ダメなところがそこそこ同じくらいあるからです。A案の方が圧倒的によければ、そもそもAかBかなんて悩まずにさっさとAに決めますものね。

ってことはね。AでもBでも本当はどっちも正解になる可能性がある。問題は、それを正解にしようとすること=「やっぱりとっても良いじゃん!」っていう状態にしようとする、自分の意思と自信が欠落してるだけってことです。

そう。最終的に「やっぱりとっても良いじゃん!」って思うようにすれば、AでもBでもどっちを選んでも良いんですよ。私たちは残念ながら可能性の全てを生きることは出来ない。どんなに天才でもお金持ちでも、選択できることは限られています。

ですからね。よき結果を得ようと思ったら、よき選択が必要!というよりは、むしろ選んだ道で「やっぱりとっても良いじゃん!」って思うように「すれば」OKなんだなって。

自分でも「な~んだ!そんなことだったのか?」って笑ってしまうほど、超絶シンプルで当たり前っちゃ当たり前なことかもしれません。しかし自分的に、ああ、そういうことだったか!って今日ね、思い至ったのでした。自分の立ち位置がぐるんと、回転したような気がしました。

もちろんこれからも選択の悩みってなくなることはないと思うし、これまでと同じように「どうしよっかな~」って考えると思う。それでも、Aかな?Bかな?って考えてしまう時。例えばA案を選んだ未来にはこんな風に「やっぱりとっても良いじゃん!」って思うだろう、B案だったら逆にこういう時に「良いじゃん!」って思うだろう。ってこんな風にシミュレーションしようと思いました。

その上で「やっぱりとっても良いじゃん!」って感じをね、より、リアルに感じられる方をさっさと選んで、選んだその道で「やっぱりとっても良いじゃん!」をどんどん見つけていけばいいんですよね、きっと。

選んだ後に「良いじゃん!」を見つけられる自信がね、ちょっと持てなかったみたいでしたね、私。そんなに自分にプレッシャーを与えなくてもいいじゃんか、私。

どっちにしても悩む時点で、どちらを選んでも「やっぱりとっても良いじゃん!」って思えることは必ずあるんです。それだけ拾っていけばいいんだから、自信がなくても大丈夫。目の前に見えるものを拾い続けるだけです。自信は関係ないよ、オキラクゴクラク

ってことで、選べなくて困っている方、なんかどっちでもだいじょうぶみたいですよ、どっちでも☆という身も蓋もないようなお話でした。でもほんとに、だいじょうぶですからね~☆。さっさと「やっぱりとっても良いじゃん!」になりましょう。

 

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瞑想って何のためにするの?(その2)

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本日は前回のこちらの続きです。

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瞑想をすると心の中がお掃除されてスッキリしますよ、というお話でした。

スッキリ!することって大切なことです。ごちゃごちゃしているものが整理整頓されて、気持ちがスッキリする。そうするとぼやーっとしていたり、コーフンしてあっぷあっぷしている状態から、抜け出ることが出来るからですね。

ところがですね。物事には何にでも二面性(良いところ、悪いところとか)があるように、このスッキリ、という状態も諸刃の剣と成りかねない可能性がある。

よく誤解されがちなのが、瞑想しているからっていって、別に人格者とか、偉大な人になれるわけじゃないんですよね。私たちってつい、瞑想、座禅って言われると、インスタントに徳の高いお坊さんをイメージしがちかもしれませんが、残念ながら瞑想だけではそういうわけにはいかないんです。

瞑想は、心が鎮まるんです。そういう状態を心に出現させることが出来る方法、と言ってもいいかもしれない。

心がスッキリすると、何かを行動に移す時には迷いがなくなる。思ったらさっと行動出来る。あれこれと思い浮かぶ思いに邪魔されないわけですから行動に移すことが出来るわけです。そして行動の前も最中も後も心は波立たず、なんかこうひとつの境地にいるかのような思いが湧いてくる方もいるかもしれません。

こういった状況になるとですね。例えばですけれども、何らかの悪事を働くとか、人を傷つけるようなこととか。これはあくまでも可能性の話ですが、心がマインドフルネスの状態であると、こういった行動でも躊躇なく出来る、という可能性も否定できないんですよね。

心がスッキリするってことは確かにとても素晴らしいことなんですが、それだけでは心もとない。スッキリしているがこそ、悪事を働くなどという容易に極端まで振れてしまう可能性があるからです。

ということで(前置きが長くなりましたが)瞑想をするもうひとつの理由。それは、鎮まった心の状態で、改めて私たちの心の働き、構造を観るってことだと思います。

以前こちらでもちょっと書きましたが、ブッダが看破した、とされる人の心の構造は12段階にわけることが出来る、という仏教的な考え方があります。

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そう。感覚から感情が生まれ、それがあなたの個性のようなものになる、というお話でした。え?感覚と心が関係あるんですか?と問われれば、もう、これがおおありなんですね。私たちの心というものは、常に外界の刺激にさらされていて、その刺激でいとも簡単に様々な感情から妄想(ブッダに倣って敢えてこう、言いますが)を生み出している。

例えばあなたが小さい頃、お外で遊んでいたとします。季節は春。風は春の花の香りを運んできて、太陽がぽかぽかして「気持ちい~♡」と思っている。そこで、一緒に遊んでいたお友達と何かのきっかけで喧嘩して、そのことで大好きなお母さんからこっぴどく怒られちゃった、と。そんなまあ、小さい頃であれば極々ありふれた経験をしたとします。

この記憶。あなたにとっては、ああそんなこともあったかな~っていうくらいの遠い過去の思い出のひとつかもしれません。もしかして「そんなことあったっけ?」って忘れてしまっているかもしれない。ところが。脳をひっくるめて、私たち人間ってやつはこういった体験を身体の記憶としてどうやらインプットしてしまう機能を持っているようなんですよね。

そうすると、自分では気付いていないけれど

*春、外で花の香りを感じると、どういうわけかすこーしだけ気分が下がる。

*外で太陽にあたってぽかぽかしてくると「これから何か悪いことが起こるんじゃないか」って、ふと根拠もなく予感してしまう。

*自分の母親に似た人を見かけると、それもその人を下から見上げる機会があると、なぜかとても申し訳ない気持ちになる。

などなど。

こういったことが自動的に自分の中に起こってくる可能性があるんですよね。自分ではあの幼い頃のありふれた経験が、まさかこんな風にふと自分の中に湧いてくる気分とリンクしているとは想像もできない。けれど身体は、そして無意識界は、しっかりこのことを学習して情報をインプットしている。そして、事ある毎に、その幼い頃の経験を彷彿とさせる、ちょっと似たものを見たり、聞いたり、匂いを感じたり、すると、その光景を自分の中に繰り返し再生してしまうんです。

ですから、あなたが今、好き/嫌いなもの、心地いい/不快と感じるもの。そういったものって、過去の情報の集積から醸し出されてくるものだと言っても過言ではない。それはまさに、今を生きながら、過去を生きている、とも言えるものかもしれません。

そういったあなたの好き嫌いや快/不快(他にもたくさんの要因がありますが)は、追ってあなたの性格としてあなたの中に落ちてくる。

例えば春に気分が乗らないことや、落ち込むことが多いとしたら。新学期、新しい環境で新しい友だちを作る時に、その気分が現実に行動するときに支障を来す可能性がある。そういうことが積み重なれば、ああ、自分ってのは友達を作ることも出来ない暗い人なんだって思ってしまう。自分でそう思うことで、友達のいない自分、という個性が確立されていく。

これはずいぶんと極端な例ですが、こういった心の働き、そして構造があることをですね。どうやらブッダは瞑想を通じて発見なさったってわけなんですよね。

ええ、そうなんです。瞑想をするもうひとつの理由。それは、こういった一連の自分の心の働きの解体作業のためです。鎮まった心の目で、自分が何を今感じていて、それはどこから発生しているもので、そして今、その感じている自分が何を思って、それがどんな感情を引き起こしているのか。それが自分の自我(個性のようなもの)とどうリンクしているのか。そしてリアルタイムでそういった心の動きの軌跡、そのものを感じること。

瞑想をすることで、このように過去を現在に投影している心の働きに気づく。感覚から感情→自分の個性、と言われるものに落とし込まれた道筋を発見すること。これが私が思う、瞑想をするもうひとつの理由です。

でね。これを突き詰めていくと、どうやらこの世の全ての理、とか、この世の現象の成り立ち、とかそういうスケールの大きいところの気づきにもつながっていくらしいです。が、私個人的にはそこまでとても追いつけそうにないので、ご遠慮申し上げている次第です。

ってことで、独断の偏見の「私が思う瞑想をする理由」。ひとつは、心のお掃除であり、もうひとつは心の働きや構造の道筋を観る、ということ、ということで、わたくし、スッキリしました!

そう、前回も書きましたけれど、瞑想をする理由は人により違って当たり前です。ただやみくもに座る、というよりは、自分は何のために瞑想をするのかな、ってことは考えておいてもいいかもしれませんね。

よろしければご参考にしてみて下さいませ。

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瞑想って何のためにするの?(その1)

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そういえば、ですが。

そもそも「なんで瞑想ってものをするの?」って、肝心なところを書いていないことに、今さらですが気付きました。この際、自分でもちょっと整理してみたいなと思いましたので、今回はこのテーマでお届けします。

前回、こちらでマインドフルネスにもちょっと触れました。

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マインドフルネスって何?と言われれば、私個人的にはこう思います。飛び回るマインドに振り回されることなく、私たちは今、ここで生きているんですよ、さあ、今ここにあるようにしましょうよっていう状態にあるってことだと。

そう、瞑想=マインドフルネスってことじゃないんですが、瞑想をすることで、自分をマインドフルネスの状態に導く。この両者にはこういう関係性があるんじゃないかと思います。

それにしても現代社会って、ほんっとに忙しいじゃないですか?以前こちらでも書きましたが、仕事もプライベートも、とにかくマルチタスクをしないとまわらない~が常態化している。まわりの状況を見ながら、同時に仕事や用事をいくつもこなす、手品師もびっくりの毎日。

これは疲れますよね。間違いなく疲れる。で、疲れるとですね。疲れる→気力/体力が低下する→判断力/行動力が落ちる→ミスする→ミスした仕事の挽回→余計時間と体力を消耗する→よけい疲れる...の無限ループがやってくる。

で、こうなるとですね。心/頭の中には、もう、いっぱいの思考や感情が溢れて、アップアップします。自分でも何をやっているのか、迷子になっちゃう感じ。

ところで、お片付け上手な皆さまにはご縁がない話かもしれませんが、見たことありません??ってか私もよくやっちまうんですけどね。あれです、あれ。部屋にものが散乱している状態。またの名前を汚部屋??あんな感じを思い浮かべて頂けたら。あれが疲れている時の、私たちの心の中の状態。こうなるともう、必要なものを探すのも一大仕事。

あれ、この前着た服、ここらへんに置いたはずだったけど見つからない。あの服を着て出かけたいのに!と猛然とあちこち探すけれど、見つからない。どころか、途中で発見された写真を見て、あれー!なつかし~い、これいつのだっけ?なんて昔の思い出に浸っちゃう。って浸っているうちに、出発時間は迫り、まずい!遅刻だ!もう、何を着ていいのかもわからず、取り敢えずその辺にあるものを無理やり着て、玄関を出てしばらく歩いてお財布を忘れたことに気づいて、大ショック!みたいな。

私たちの心のなかも、日常、こんな感じになってることが多いんですよね。心の中がごちゃごちゃ。思考や感情がいっぱい詰まっているから、その中でふ、と目に付いたものに心がふわ~っと引き寄せられて、本来の行動から脱線し続けてしまう。

ニワトリが先か、卵が先か?じゃありませんけれど、なぜ疲れるか、の、これがひとつの理由です。ごちゃごちゃするから疲れる。疲れるからもっとごちゃごちゃする。このループ。

もちろん作業量が多いから頭が疲れるとか、体力的に疲れているってこともあるでしょう。でもね。心も疲れるんです。そして、心の疲れってちょっと自覚しづらいんですね。現象として捉えづらいから。見えないけれど、私たちの心の中にたっくさんのものが、散乱してしまう=心が疲れてるって、よくあること。

ですからね。お部屋といっしょで、心にもお掃除とリフレッシュが必要になるんですよね。

心のお掃除やリフレッシュ。これって人によって色々な方法があると思います。

こんな方、いらっしゃいませんかね?ストレスたまると、いきなり野菜を切り始める方、お菓子を作り始める方、プラモデルを作り始める方、とか。なぜいきなりそんなことを始めちゃうかって言うと、なんとこれもひとつの瞑想状態ー今やっていることに集中するーが、自然に出来るからなんですよね。もちろんそれがスキだってことが一番の理由ですが、スキだから没頭できるんですよね。それをやっている間、誰にも邪魔されずひとり楽しみたい、そんな感じ。

そう、瞑想は「今ここにいましょうね~」っていう状態をつくるものだから、そんな風に何かの作業に集中している状態っていうのは、瞑想と似たような状態になるんです。

そうやって「ここ」にいることで、とっ散らかっていた心の部屋がすーっと一時、きれいになります。その時に必要のない思考や感情が、作業に集中することでいったんお片付けされる。

そう。そんな風に、スッキリお掃除したてのお部屋にいるご自分を想像してみて下さい。どんなお気持ちがしますか?床拭きをした後の床を歩くと、清々しいお気持ちになりませんか?

これが瞑想の目的のひとつ。今ここにあることで、心の中を、すーっとキレイにお片付けされている状態にするってことなんですよね。

よく瞑想をされる方が、瞑想の後に「何だかスッキリしました」って仰るのを聞くのですけれど、まさにこれが「瞑想のお掃除効果」なんだと思います。

で、これもお掃除といっしょ。昨日掃除したばっかりなのに、なにこの埃!?って思うことってありませんか?心も一緒。お掃除やリフレッシュしないと、すぐとっ散らかるし、埃まみれになる。ですから、定期的な瞑想が必要だっていうのも、わかるような気がしますよね。

ということで「心の中のお掃除」。これが瞑想をするひとつの大きな理由、モチベーションだと私個人的には思うところです。もちろん人によって、瞑想の目的ってのは千差万別。境地を目指す方、何らかの宗教の修行としておやりになる方、もうそれは色々。「スポーツって何のためにするものですか?」という問いに対しての答えは、人によって全く違うのと一緒。ですから、もし瞑想を始められる方、或いはもう実践なさっている方の目的がお掃除じゃなくても全然OK。

ところで。私が思う瞑想の目的って実は「心の中のお掃除」の先にもうひとつ、あるんですよね。

 

(つづく)

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ちょっと心がお疲れの方へ。ティク・ナット・ハンのマントラをどうぞ。

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ここ数年、「マインドフルネス」が、メンタルヘルス界隈にも溢れている。

私も御多分に漏れず、早々にその「マインドフルネス」なるものに飛びついた口だった。もともと仏教美術好きだったものだから、「仏教」の香りがするものには、とても心惹かれるものがある。臨床心理のお勉強をし始めて早々、そのマインドフルネスってのに興味津々となったのも、必定!ってことかもしれなかった。

このマインドフルネス。ここではとても語りつくせないものだし、そもそも私の理解そのもの自体、どうなのかしら?って私は自分を疑っている。私にとってはそのくらいの塩梅がいいって勝手に思ってもいる。

そんなぽわん、とした体の私がお届けする「マインドフルネス」。ものすごーく簡単に言ってしまえば「今この瞬間にある」ということである。人の心はとかく、散り散りに乱れ飛びやすい。

今、お風呂の洗剤が切れていたと気づいた瞬間、メールをしなければならない相手を思い出す。メールをしようとPCを開けた瞬間、飛び込んできたニュースに心奪われる。その間、心はあちらこちらへと揺れて忙しいけれど、ただそれだけだ。切れ切れの思いだけがとっ散らかり、何もしていないのに、ただ疲れだけが積み重なる。或いは何かを許せなかったり、怒りがおさまらない時。何をしていても、いやな相手の顔が浮かんできたり、その時とても傷付いたことばが頭にこびりついてしまったり。

そんな人の心=マインドの特性を理解して、飛び回るマインドに振り回されることなく、私たちは今、ここで生きているんですよ、さあ、今ここにあるようにしましょうよってのが、マインドフルネスの第一歩であり、目的(目的って言っちゃうと、ちょっと仏教界的からはご注意を受けそうだけれども)でもあるように思う。

さて、そのマインドフルネスについては、さまざまな実践法がこれも世に溢れている。以前こちらでご紹介した、手動瞑想もその方法のひとつである。

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この手動瞑想は、騙されたと思って?やってみると、え?意外!ってなるかもしれないので、ご興味ある方はぜひお試しくださいね~。ほんと、私も呼吸の瞑想なんぞは、かなーり苦手で、すぐ眠気に移行しちゃうのだけれど、この手動瞑想だけは、、、まあ15~20分くらいは出来る。

今回は「マインドフルネス」と言えば、この方!ティク・ナット・ハン師と、そのマントラについてちょっとご紹介したいと思う。

ティク・ナット・ハン?マントラ??何ですかそれは??って思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど、とても詩的で、ラブリーなマントラがあるんですよ~!ってことをぜひお伝えしたいと思ったのだ。マントラ?怪しいの?って思われた方。全然あやしくないので、ご安心ください。誰かを呪い殺す類のものじゃありません。

まずはティク・ナット・ハン師について。ご興味を持たれた方は、ぜひこちらをご覧ください。

www.tnhjapan.org

そう、後でご紹介する映像で師のお顔を見ると、とてもそんな壮絶な人生を歩まれたうようには思えないほど、おだやかでやさしい雰囲気に溢れている。でもその佇まいの裏には、そういった様々な体験や葛藤がおありになったのだな、、、と、私なんぞは、それだけで心動かされるものがある。

そのティク・ナット・ハン師。もちろんたくさんの本や映像などがある。その中で、今日はもっともシンプルだけど、それを唱えるだけで心がほわっとやわらかくなる師の4つのマントラをご紹介したいと思う。

英語で申し訳ないけれど、4つのマントラについて師が語られている、とてもステキなインタビューはこちら。3分程度の映像なので、よろしければぜひ~!ご覧ください。

youtu.be

いかがでしたでしょうか~?

何事にも感化されやすい私は、この映像を見ただけで、呼吸はゆっくりになるし、世界ってちょっと悪くないんじゃないかって、全然マインドフルネスじゃない方向に興奮してしまうくらい。

もとい。

この中で師が仰っておられる4つのマントラ(呪文とか、ガーターなどと呼ばれてもいる)は、以下の通り。マントラと言っても堅苦しいお作法があるわけではなくて、心に留め、折に触れ唱えて頂きたい、というもの。師は「ぜひ自国のことばに置き換えて唱えて頂きたい」って仰っているのだけれど、ちょっと日本語だと気恥しさの方が先に立ってしまうのがもったいない。シンプルな英語なので、そのままご紹介します(ダーリンって、、、ちょ、ちょっと困りますよね?)。個人的に私は、この英語のままの方がすっと自分の中に入ってくる感じがします。

1)Darling, I'm here for you.

2)Darling, I know you are there,  and I am so happy because you are truly there.

3)Darling, I know you suffer that is why I am here for you.

4)Darling, I suffer. I am trying my best to practice. Please help me.

マントラについて師が仰っていることにいちいち感動するので、以下ちょっと要約・意訳しました。ちょっと意訳が過ぎるところはご勘弁くださ~い。

1)「私はあなたのためにここにいます」

あなたが愛する人に与えられる一番のもの。それは「あなたの存在」そのもの。相手の目を見つめながら、100%まるごとのあなたが共にいてあげて下さい。あなたの心の中に、過去はああだった、明日はどうなる、どうしたらいいんだろうとか、、、そんな思いを一切持たず、100%まるごとのあなたがその人と共にここにあって下さい。

2)「私はあなたがここにいるってことがわかってる。あなたがここにいてくれるから、私はとても幸せ」

あなたの愛する人が、まるごとその人のままでここにいること。それをマインドフルネスな状態にあるあなたが理解し、その存在を抱きしめてあげて下さい。するとあなたの愛する人は、まるで花のように咲くことが出来るんです。愛されるっていうことは、まるごとの自分の存在を相手にわかってもらえることだから。

3)「私はあなたが苦しんでるのをわかってる。私はそんなあなたのために、今ここにいます」

これは、あなたの愛する人が何かに苦しんでいる時のためのマントラです。苦しむその人をあなたはどうにかして助けようとするかもしれません。けれど、あなたが何かしようとする前に、あなたの存在そのものがその人とここにあることで、その人はもう、ほっと安心することが出来ているんですよ。

4)「私はいま、とても苦しい。(伝えるのはとても大変だけど)私はこれを伝えるためにベストを尽くしています。お願い、私を助けて。」

最後のマントラは、前の3つよりちょっとチャレンジングかもしれません。というのも、このマントラはあなたの愛する人によって、あなたが傷ついてしまった時のものだから。あなたはひどく傷つき、閉じこもってひとりその痛みに耐えようと思うかもしれない。または愛する人に向かって「なんで私を傷つけたの?」と言い、その人を罰したくなるかもしれない。引きこもったり、相手を罰する代わりに、愛する人のもとに行って、このマントラを伝えること。伝える練習をするのです。もしあなたが愛する人のもとでこのマントラが言えたなら、あなたの痛みはきっと瞬時に和らぎますよ。

いかがでしょうか。なんかこう、心の中のとげとげしたものが、じわじわ~っと丸くなっていくような。。ティク・ナット・ハン師の存在やことばには、ほんと、何かわからないですけれど、私たちの心の奥底にそっと、そして素早く作用するすばらしいパワーが宿っていると思います。ことばはシンプルなんですけれど、それを伝えて下さる師の存在そのものが影響するのかもしれません。

マントラもね!いきなり、ダーリン♡って始められたらもう、すごいですけど、そ、そんなコッパズカシイ、、、と思われる方。まずは小声でひとり、自分やお相手を思って唱えるだけでも。きっと心の中に小さな花がぽっと咲いたように感じられるかもしれません。

よかったらぜひ、お試しください☆

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目標や夢に苦しくなる時がありますか?

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先日、明恵上人の「あるべきようは」にについて、こちらでちょっとお伝えしました。

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「あるべき」の「べき」だけにクローズアップすると、まるで「私はこうあらねばならない」って意味に変換されがちかもしれません。けれど、明恵上人は「あるべき姿ってなんでしょうね、、、」という問いかけのたいせつさを仰っておられたんですよね。

先日の記事でも書きましたけれど、この「あるべき」というものが私たちにもたらす影響について、別の観点から考えてみたいと思います。

というのも、この「あるべき」という概念?に、現代に生きる私たちって、結構な割合で取りつかれてしまっているかもしれないなあ~って思ったんですよね。

何かに落ち込んだり、悩んだりするときって、大抵「こうあってほしい/ほしかった」っていう思いがありきです。その「こうあってほしい/ほしかった」っていうのが、現実で叶わなかったから、落ち込んだり、悩んだりしてしまう。

そして「こうあってほしい/ほしかった」というのは、しばしば「希望」とか「目標」とか「夢」としても、語られることが多い。

自分がこうなりたい、こういうことを叶えたいという、将来への夢や希望、目標を持つこと自体は素晴らしいって思います。むしろ持っていたら、今の生活や気持ちが生き生きとしてくる。

そう、自分が自然にその持っている夢に向かって生き生きと出来るのであれば、それはとてもいいです。それこそ持つべき夢、って感じがします。

しかし、その夢が自分を苦しめてしまうっていうケースも少なくないように思います。

生き生き出来る夢と苦しくなってしまう夢。なぜ違いが出てくるんでしょうかね~。

ひとつの理由として、それはもしかして本当に自分の叶えたい夢じゃないかもしれないよっていう可能性があります。特に周囲の期待に応えたいタイプの方に多いかもしれない。

これもよく言われていますが、いい学校に入って、有望視されている仕事に就いて、家庭を築いてっていう人生をね、自分はいつから望むようになったのか?っていう話なんですよね。

これもですね。本当に自分がこういう人生の展開を望んでいるのであれば、そこに苦しさは生じないって思うんです。その生き方がスキかどうかは別として、そこには自分が持っている「理由・解」がある。だから、どうしていい学校が必要なのさ?と問われたら、きっとその人なりの必要な理由がはっきりと言える。

それを目指す、はっきりとした理由を自分の中に持てる人は強いです。もしも何かでうまくいかなくても、自分の中にあるモチベーションを絶やさずに済む。もちろん、全てがうまくいかなくて凹むこともあるでしょうが、現実ってそう、自分の思う通りには進まないってことが沢山ありますもんね。そういう現実の中で、はっきりとしいた理由を持っている方は強い。なぜなら、凹んでも頑張れるエンジン=モチベーションを持っているからです。

しかし「いい学校に入って~」という目標を同じように持っている方の中で、なぜかどうしても頑張れない方もいる。そういう方は、もしかして「他人の期待に応えたい」という思いを、自分のどこかに持っている方なんじゃないかな。

自分では自分の夢とか目標って思っている方も多い。けれどもし「頑張れない」とか「何かを達成しても、嬉しくない。どっちかっていうとほっとする感じ」っていう現象、気持ちがあるかも、って方。その夢ってほんとに自分が望んでいるものなの?と疑ってみてもいいかもしれない。

ひとってホントに正直なんですよね。自分の中にないものは、表現できないし頑張れないっていうプログラムを搭載してる生き物なんです。

だから、自ら望まない夢や希望には頑張れない。そもそもエンジンがないのに、気力で足を使って走って頑張ってる、みたいな状態ですからね。限られた時間や機会では頑張れても、ずっと走り続けることは難しいんじゃないかな。

もしもご自身で、なんか頑張れない、、と思い当たる節があれば、それは、自分がいつからその目標や夢を持ち始めたのか、それはどうしてなのかっていう理由を振り返って見つめる、恰好のチャンスかもしれません。

そして、夢や目標に苦しめられている理由と考えられるんじゃないかな~って思うことがもうひとつあります。

それは、夢や目標を持ちつつ、同時に「自分は絶対そうはなれない/その夢は叶わない」って、自分のこころのふかーい所で諦めてしまっているケース。

こちらも自分ではあまり自覚がないっていう方が、多いんじゃないかなって思います。が、なぜかいつもやっていることに自信がない感じがある、とか、何かうまくいかないことがあると、衝動的に何かを壊そうとしたり、とにかく他人の出した結果なんかが気になって気になって仕方ないっていうような思いが繰り返される場合。

こういった感じが自分の中にある方は、もしかしてご自身がご自身のことをまったく信用ならない、自分はその目標を目指す資格がないっていうくらい、心の奥底でご自身を否定されている可能性があります。目標を掲げながら、絶対そこに行けないって思ってる。まさに「無力感」ですね。これはほんとにつらいし、夢を持ちながら自分を破壊しかねない。

前者/後者ともに、それぞれ対処する方法はあります。非常にシンプルですが、それはもう自分の中を見つめるってことだけ。とてもシンプルだけど、自分に対峙することで、今まで心の奥にしまってきたものに会える。会えることで、きっとその苦しい感覚に変化が出てくると思います。

その作業のとっかかりとして、自分のあるべき姿とか将来の「べき」について、ちょっと思いを巡らせてみるのはいかがでしょうかね。

その「べき」の苦しさの正体を見破ることが出来た時、ほんとうの意味での自分の人生を歩いている感覚を取り戻すことが出来るように思います。

「べきべき星人」って、とっても生きづらそうですからね。ラクに息ができる夢にスイッチして、摩擦がない選択を致しましょう。私も現在、自分で諸々振り返り点検中です☆

  

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